すべての民の御母 (アムステルダムでの聖母マリアのご出現) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*以下は、「すべての民の御母」についてのWikipediaの説明です。

 

 “すべての民の御母(すべてのたみのおんはは) (オランダ語:de Vrowe Van alle Volkeren 英語:Lady of all Nations )とは、オランダ・アムステルダムに住むイーダ・ペアデマン(Ida Peerdeman)と言う名の女性に起こった聖母の出現で、聖母が名乗った「呼び名」である。伝えられるところではペアデマンは合計207回の聖母の出現を受けた。聖母が出現した最初の56回は1945年3月25日で、終わったのは1959年5月31日である。ペアデマンは26年間にわたって151回の聖体拝領を受け、天啓を与えられたという。これは通常、ミサの最中に起こった。

なお、のちに奇跡を起こした秋田の聖母マリア像は、このすべての民の御母を模したものであった。

 

幻視者と聖母の出現

ペアデマンは1905年8月13日にオランダのアルクマール(Alkmaar)市で生まれた。5人の子供の末っ子で、香料の工場で働く普通の女性であった。始めの56回の御出現は1945年の3月に起こったと表明されている。ペアデマンによると、彼女が聖母の御出現を受けたのは、ストーブのすぐそばで彼女の姉妹や親しい友人とフレーヘ(Frehe)神父と集まり、将来戦争が起こるかもしれないと皆で話している時であった。ペアデマンは部屋の片隅から光が出ているのに気づいた。すると、そこから女性が現れ、自身を「すべての民の御母」と名乗り、そして自分が話すことを全て繰り返すように指示した。フレイヤ神父はペールマンの姉妹に全ての言葉を書き写すように指示した。

 

始めの25のメッセージは1945年から1959年について、典型的な黙示録で使われるフレーズを使い、共産主義、無神論、現代の問題についての警告であった。1950年の聖母被昇天の教義の直後、そのメッセージは変わった。聖母は今ある姿の自分のイメージ像を作ることを希望して来た。絵画は1951年にドイツの画家ハインリッヒ・レプケ(Heinrich Repke)がペアデマンの指示によって描いている。

 

「すべての民の御母」は多くの近未来の出来事を予告し、その中には、イスラエルの建国、化学兵器の開発、東西冷戦、カトリック教会の現代化と第二バチカン公会議の必要性、教皇ピオ12世の帰天、人類の月面着陸、黒人と白人の和解、自然災害の増加、社会の退廃と棄教の深刻化、共産主義の衰退、湾岸戦争、キリスト教徒間の和解と一致、ユーロの形成などがある。”

 

*このWikipediaの説明にありますように、有名な「秋田の聖母マリア」(十字架を背に、地球の上に立つマリア)は、このアムステルダムの「すべての民の御母」をモデルにしています。ヴァチカン、教皇庁は、この御出現を公的に認めてはおりませんが、教区を管轄する司教によって、あくまでも私的啓示として「すべての民の御母」を崇敬することは認められています。

 

 

 “……そして声が聞こえてきました。

 「すでに変革が始められ、現在も進行中です。けれども、わたしは御子の次のメッセージを伝えたいと思います。教義は正しいのです。しかし規則は変えることができ、また変えるべきなのです。なぜなら、世界は激しく変化しているからです。どの方向へ向かうのかだれにも分かりません。ですから御子はわたしにこのメッセージを託したのです。」

 ここで公会議の幻視はふいに中断します。イーダは十字架の前に連れて行かれ、聖母と同じ苦痛を身に感じました。

 「突然、わたしは大きな十字架の前に立っています。その十字架を眺めると、激しい痛みが襲ってきます。頭から足までの筋肉が硬直しています。両腕の筋肉という筋肉が引きつり、しぜんと手をかたくにぎってしまいました。頭が割れるかのように痛み、熱も出てきた気がしてわたしは泣き出してしまいます。もう、がまんができません。そこで婦人に、この痛みを取ってくださるかどうか尋ねると、婦人は微笑まれます。わたしはまだ婦人といっしょに十字架の前に立っています。婦人が言われます。

 『わたしに続いて言いなさい。この祈りを十字架の前で祈りなさい。

  主イエス・キリスト 御父の御子よ、

  あなたの霊を今 全地の上に遣わしてください。

  すべての民が堕落、災害、戦争から守られるよう、

  すべての民の心に聖霊を住まわせてください。

  かつてマリアであられたすべての民の御母が、

  わたしたちの執りなし手でありますように。 アーメン

 

 イーダは大文字で「愛」と書かれてあるのを見ました。励ましの言葉とともに、聖母は世界の弱い人びと、小さな人びとに向けて語りかけられます。

 『もしあなたがたが極限に到るまで互いに愛を実践するなら、『大きな人たち』にチャンスはありません。もはや民族や人種が問題の戦いではありません。霊をめぐる戦いです。このことをよく理解しなさい。』それから婦人は手を合わせられました。」

 そしてイーダは再び教皇と司教、枢機卿がたを見ます。「それから婦人は、まるで教皇様に話しかけるかのように言われました。『あなたはこの世界を救うことができるのです。ローマにチャンスがあると、わたしは何度も言いました。この機会を捉えなさい!あなたの教会(ローマ・カトリック教会)のように築かれた教会は、この世に二つとないのです。』」(一九五一-二-十一)”

 

“「今度は、婦人はご自分がお立ちになっている地球を示されます。すると婦人の周りにまるで雪が降っているような様子が見えます。婦人は微笑み、言われます。

 『この意味が分かりませんか?地球をよくご覧なさい!』地球が雪で厚く覆われています。婦人はもう一度微笑むと、『さあ、もう一度地球をご覧なさい』と言われます。そしてわたしは今、雪が溶けだし、ゆっくりと地面に吸い込まれていくのを見ます。婦人が言われます。『これがどういう意味なのかを考えていますね?今日わたしが来た意味を説明しましょう。ちょうど雪の一片ひとひらが地上に舞いおり、そして積もり、やがては厚い層になるように、この祈りと絵は世界中に広まり、すべての民の心に染みとおっていくでしょう。まるで雪が溶けてひとりでに土に染み込んでいくように、祈りの実りである霊が、この祈りを毎日唱えるすべての人びとの心に訪れるでしょう。人びとは、聖霊が地上へと来られることを祈り求めるのですから。』(一九五一-四-一)”

 

 “しかし、いったいだれがサタンに災害と戦争を民族にもたらす力を与えるのでしょうか?決して、神がサタンにその力を与えられるのではありません。「すべての民の御母」はわたしたちの罪にまみれた生活を「堕落」と呼んでいますが、この堕落、道徳的頽廃によって、わたしたち自身がサタンに力を与えるのです。

 「堕落から災害が生じます。堕落から戦争が起こるのです。これらすべてのことから世界が守られるように、あなたたちはわたしの祈りをとおして請い願わなければなりません。」(一九五五-五-三十一)”

 

 “カトリック信者でないため、赦しの秘跡に与れない人びとでも、心の中で赦しを請うことができます。そして神は彼らをお赦しになるでしょう。またそういう人びとにも「すべての民の御母」のこの言葉が当てはまります。

 「手で自分の目を被い、内省しなさい」(一九四八-三-二十八)

 「まず、主に戻りなさい。そうしてこそまことの平和が訪れるのです。」(一九四六-三-二十九)”

 

 “「この祈りが世界中に、すべての民族に行き渡るように心を尽くしてください。彼らには皆、この祈りを知る権利があります。世界は変わるということをわたしが保証します。」(一九五一-四-二十九)

 「次のことをよく理解してください。主も、生まれるために母を必要とされました。母をとおして命が生まれます。ですから婦人は再びあなたがたの教会へと、そして諸民族のもとへと連れもどされなければならないのです。そうすれば、あなたがたは開花を体験するでしょう!」(一九七三-三-二十五)”

 

 “アムステルダムのメッセージの内容のうちで、その頂点ともいえることは、マリアが彼女に関する最後の、そして最大のドグマ(注・聖母マリアが共贖者・仲介者・執りなし手であること)を願っているということです。

 なぜならイエスは、マリアの母としての普遍的な使命に関するすべての真実をこのドグマを通じて厳かに告知するという平和的な方法によって、ヘビの頭を打ち砕くことをお望みなのです。まさに、イエスはこれをマリアの子どもたちを使って行ないたいと望んでおられるのです。ドグマの告知というかたちで聖母が戴冠されれば、あの時のエルサレムのように、マリアが教会の母として、現代の使徒たちの中心に置かれることになるでしょう。

 「そして婦人は聖霊が降臨するまで使徒達のもとに留まりました。そのように婦人は聖霊を再び『新たに』、彼女の使徒達と世界中の民族にもたらすために、彼らのもとに来ることが許されているのです。重要な決定がなされる前には、いつもまことの聖霊が呼ばれなければならないのです。」(一九五四-五-三十一)”

 

 “当時、エルサレムで聖霊が降臨した際、マリアが母として使徒たちとともに聖霊の到来を願ったように、教会の中心にマリアが再び来られるなら、教会と世界に新たな聖霊降臨が起こるでしょう。

 「すべての民の御母」は、アムステルダムでそのように約束なさいました。このようなやりかたでわたしたちがこれからやってくる新しい時代に協力するなら、未来に不安を持つ必要はありません。わたしたちの前には、マリアの時代、聖霊に満ちた時代があり、そこでは人びとは再び安心し、完全な平和のなかで互いに生きていくことができるのです。

 願わくば、かつてマリアであられたすべての民の御母がわたしたちの執りなし手でありますように!アーメン!”

 

(「イーダ・ペアデマン 第三千年期のための預言者」(「すべての民の御母」普及の会)より)

 

【使徒行伝第二節】

 “五旬祭の日が来て一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

 「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。‥‥‥」”

 

*今日はカトリックの典礼暦では聖霊降臨(ペンテコステ)の日です。キリストの昇天から10日後、使徒や弟子、信徒たちの上に聖霊が「炎のような舌」となって降臨した日で、キリスト教会の誕生日でもあります。この日この時、この家に居合わせた少数の人たちから教会は始まり、世界中に広まっていきました。今の時代は宗教はことごとく形骸化し、人々は神を見失ってしまったとも言われますが、いずれこの霊的な戦いも終わり、必ず「新たなペンテコステ」=「聖霊のバプテスマ」、日本人にとっての「第二の天の岩戸開き」が起こって、人々は再び神に立ち返るようになります。そして、その新しい聖霊降臨において決定的な役割を果たされるのが、「かつてマリアでもあられた御方」だと私は信じております。

 

・エドガー・ケイシー

 

 “プロテスタントの人々はこのような話に反発を覚えるかもしれないが、ケイシーのリーディングは、マリアはイエスと同じく、「子宮に宿った瞬間から原罪を持っていなかった」と断言している(5749-8)。このことは「マリアの無原罪懐胎」を主張するローマ・カトリックがこの点で正しいことを裏付けるものである。”

 

 “リーディングは終始一貫してマリアを高く評価している。マリアは処女懐胎によって母体に宿っただけでなく、非常に神秘的・不可思議な概念であるが、「地球に関する限り・・・、主が地上に入られた際に、マリアは主と双子の魂(ツイン・ソウル)であった!」(5749-8)”

 

(リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング