「原理講論」の誤謬と正解

原理読みの原理知らずたちへ

「神は母のいない父であった」の真意(原理原本 P.278)

2024年05月04日 | INDEX


原理原本(文鮮明師直筆)P.278

「今まで神は父なる神として歴史を通して母のいない父であったことを人間は知らなければならない」

4月22日 渋谷教会での田中会長講義で引用された原理原本の一節は、それに至る全てを読まなければ真意は分かりません。

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■ 原理原本(文鮮明師直筆写真・原文) P.262~282

<目次>
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・イエスの十字架勝利の根本意義と勝利的信仰者   262
・私(イエス)を誰よりも愛しなさいという根本意義 267
・イエスが地獄に行って伝道することの根本意義   270
・イエスが昇天後も摂理に責任をもつ根本意義    274
・神は「父なる神」として母のいない父であった   278
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262
直筆写真

🍀イエスの十字架勝利の根本意義と勝利的信仰者

 十字架は、旧約の時期にサタンが汚し、その要求によって結実したものを清算するためである。なぜ十字架で清算しなければならないのかというと、出エジプト路程がイエスの基本路程を表示する模範となる者であったため、その中で二つの石板と盤石がサタンに侵入されたことは、イエスの体まで侵犯し得る一つの失敗となったからである。それを清算するためにイエスは十字架を背負ったのである。

263
直筆写真

 イエスという一人の存在は、サタンが神のみ旨に対して闘うとき、全幅的な目的物であった。すなわち一人のイエスが、その体一つが、サタンの全目的の結実となる存在だったのである。それゆえ、イエスの十字架はサタンのすべてとあらゆる罪が目的としたものである。

 イエスが生きているかぎり、サタンのすべてとあらゆる罪が生きているのと同じであるため、イエスの死がサタンのすべてとあらゆる罪の死となる。ゆえに死によって蕩減を完成するため、イエスは十字架を背負われたということである。イエスの死によって歴史的な罪を蕩減し、サタンがその思惑を成就する基をなくすためである。そして、復活によって、再び天のみ旨を継承して成就できる、サタンが侵入できない神の最高権限による生命の権威が始まるようにされるのである。すなわちここにおいてサタンと神が終局的に一つになり得ない分岐点を見せてくださったのである。
 サタンが目的を達成する最高部分は命を奪うところまでだが、命を生かすことのできるところは神のみ存在する部分である。ここは根本的にサタンが存在できない部分であるため、初めてサタンが分岐されはじめたという根本意義がある。それゆえ十字架の死は、サタンがもつ実力の最高の結果を表すが、復活は神がもつ特有権の部分であるため、サタンはその場にいることができず、十字架によって「お前(サタン)は今から私(イエス)と離れる」という分岐点が生じ始めたということである。サタンは命を生かす権能がないため、神はサタンがもつことのできない権能によって十字架のあとに復活の摂理をされたのである。(注十八)

264
直筆写真

 十字架の道によって信を立てることは、不信に対して基本から反対となる天の側の始まりを意味する。これを再び始めるために信を立てるのである。すなわち、根本のアダムとエバは信じることができずに堕落したが、信を顧みずに根本から不信したのがサタンであったがゆえに、信じれば神の側となる。このような根本意義から十字架の道は信を立てることが目的である。
 また、信のあるところは堕落前のところまで向上できる基となる。イエスは第二のアダムであり最初のアダム完成者であるため、イエスによって根本の堕落前の段階からさらに向上できるというのが原理となる。
 堕落は不信によってアダム以下のところに下がったことだが、信はアダム以上のところに向かって進む基本点ゆえに神は信を立てられたのである。イエスは罪を犯す前のアダムであるから、イエスを支えるところはすなわち信のあるところであり、そこでアダム以上の立場で天国の生命が授けられて注入されるのは、原理的な復帰によるものであることを知らなければならない。
 それゆえ、信によりイエスを通して神と相対できるため、信が生命成就の基礎である。この基が確固たるものであってこそ、あらゆるみ旨の成就がその始まりを迎えることができる。したがって、イエスが立てられるあらゆる愛は、信が成就した基の上でのみその始まりを迎えることができるのである。

265
直筆写真

 愛は生命注入の根本である。これはイエスを思慕する聖神の役割と合わせて成立する。それゆえ愛を立てられるのである。また希望を立てられたのは、アダムとエバが希望を成就できなかったため、我々をして希望の目的地を復帰するようにされたのである。キリスト信仰の生活三要素(信仰・希望・愛)(コリントⅠ三章一~一三節)は、すべて基本目的の達成を目標として立てられたものなのである。
 また、十字架の勝利によって何を表示したのかというと、霊体的実体である天使長ルーシェルの血を受けて人類が死亡したため、イエスが霊体的実体として、霊的サタンの血を受けた道を遮断し、再び生命の血を継承することを示したのである。イエスはこのために復活体として昇天されたと同時に、全人類を霊的に取り戻し、み旨成就まで至らせるという根本意義があることを知らなければならない。
 もし十字架がなければ、霊と肉を合わせて成就しようとされていたのである。それが成就していれば、再臨が不必要となる原因が成立するはずであった。それゆえ今までイエスは、天の愛をもち、地で役事する聖神を美の対象存在として迎え、サタンと一つとなった人間を分立して霊的に取り戻す役割を果たしてこられたのである。これがキリスト信仰の歴史である。このような十字架の意義を知らなければならない。

266
直筆写真

 イエスの十字架以降、サタンは不信、不順、不侍をとり、天は信、順、侍をとるという我々にとって感謝すべき歴史的な分岐が始めるようになった。それゆえ、イエスのときからサタンは足場を失い始めるようになったのである。こうしてサタンと相対し、パロの前にモーセが三日期間を出発したのと同じ路程を出発するようになったため、イエスを中心とする信仰生活は、旧約歴史の出エジプトからカナンに向かう路程と同じ霊的路程となり、勝利の路程へと向かうようになった。
 このようにしてイエスは出発できる諸条件を備えた。つまりモーセが二度目に手を懐に入れるとらい病が治ったように(出エジプト記四章六~七節)、イエスは勝利した蛇として、生命の道へと導く生命の血を世上に授けることができるようになり、そして信成(イエスに対する信仰完成)的存在の聖神と一つになって荒野に向かうことができる条件を具備し、信じる者たちと共に出発するようになったのである。
 それゆえ、信じて立ち上ろうとするとき、地と天、サタンと神、そしてパロのような者と我々の闘いにおいて、最後まで耐えて勝利する者になって初めて荒野路程を出発することができるのである。
 このように、信によってこの世上に対する勝利の条件を立てることが、信仰生活の出発点であることを示す歴史的路程がある。

267
直筆写真

この路程に従って歩んで行くその生活では、絶対信仰をすれば万事勝利だが、そうでなければイスラエルの民と同じ道を行くことは、歴史の中に如実に表現化(具現化)されているのを見ることができるのは事実である。
 三日期間を経て出発したイスラエルの民の前に怨讐が立ちはだかり、紅海と荒野の苦難生活、アマレクの攻撃や蛇が出現する道があったように、信と不信を右と左に掲げて出発するのが我々信者の歩む路程なのである。ゆえにこのような荒野路程は、自らの十字架を背負わなければならない一つの原因となっている。
 そのためイエスは、み旨成就の道を歩もうとする者に対して、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(マタイ福音書一〇章三七~三八節)と言われ、この私を最も愛さなければならないという宣言を歓迎する者こそ私の弟子となると言われたのである。

🍀私(イエス)を誰よりも愛しなさいという根本意義

 これまでの不信世界から信仰世界へと出発しようとすれば、誰よりもイエスを愛さなければならない。その原点となる程度はどの程度かというと、聖書によれば次のとおりである。
 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。

268
直筆写真

そして家の者が、その人の敵となるであろう。
 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。(マタイ福音書一〇章三四~三九節)

 このようなみ言の宣布は、イエス当時の時代やあらゆる方面から見て、許容しがたい一大革命的な宣布であった。
 今まで人々が生活してきたすべての家庭が神のみ旨を成就でき、天のみ旨を成就できる家庭かというとそうではない。以前のその家庭は、すべてサタンの思惑と理想を発展させることに寄与し、その道を推進すると同時に、神の前には憎しみを受ける家庭だったのであり、その生活舞台であった。それゆえ、それまで愛していた父母、兄弟、妻子たちは、サタンが喜ぶ愛の生活舞台にいる人々である。したがって神が愛することのできない家庭だったのである。
 神の善なる義を敬い求めようとするとき、悪に属する場を越えて善に属する場が始まって初めてそれが始まる。ゆえにこの宣布のみ言には、「今まで家庭生活をしながら生きていたあなたのその家庭を愛する心が、イエスを信じた後にイエスをよりいっそう愛するようになってこそ、天が一つのみ旨成就を得ることができる」という意味がある。

269
直筆写真

 すなわち、世上の愛は十で愛していて、同じ十の愛でイエスを愛したとすれば、その愛はそれまでのサタンに対する愛と比べて同程度の愛となる。サタンの舞台で愛していた以上の愛がなければ、神はサタンが握っていた基の上からみ旨成就を始めるかたちとなってしまうのである。ゆえに以前の十の愛を差し引いても残り得る十以上の愛が始まってこそ、天が愛し得る一つの基をつかむことができる。そのためイエスは、人類を天の愛で愛そうとするがゆえに、このように矛盾するような宣布をされたのである。
 十の愛に対して十の愛で蕩減すれば何も残らないかたちとなり、神がご覧になるとき善なるものとして愛する部分がないため、十以上の愛を求めるのは神の愛を注入しようという基本意義があったからである。この部分が始まることによって、いわゆる重生(二度生まれること)(ヨハネ福音書三章三節)の基本点が始まるようになり、それが天の愛による生命が始まる基因となるため、このような時期に難しい宣布、すなわち愛に対する宣布をしたのであった。
 このように天の愛を求めていこうとするがゆえにサタンは積極的にそれ以前の路程を守るため、家族を通して対立するように工作を始めるのである。

270
直筆写真

つまり人間を中心に神とサタンが敵対するため、「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ福音書一〇章三六節)と言われたように、家族が直接の抵抗者となる基本原因がここにある。
 しかし、それを問題とせず、十字架を背負うことになるとしても、最後まで生命を尽くして勝利しなければならず、人生の根本義務的関係を打開しなければならない。このような根本的意義のある宣言だったのである。
 このような信仰観をもって目的を達成する信仰生活者が何人いるだろうか。伝えるイエスの心情と受ける人間の責任的使命が一つにならなければならないが、その世界がいつ始まるのかと待ち望んでいたイエスは、その果されない責任的使命に対して、どれほど悲しく思われただろうか。ゆえに我々をして、最終的勝利の十字架路程を成就させんとするみ旨を思い、サタンを滅ぼすことにおいていかなる十字架も意に介さずに前進する者だけがイエスの弟子になるのである。
 そして、次には新婦にならなければならないため、イエスに対する端的な愛を各自が所有し、天の生命を繁殖すべき責任がある。このような使命を円満に完成することを期待するがゆえに、イエスはこのような社会的に矛盾する発表をしたのであり、イエスの愛に対する宣布にはこのような根本意義があったのである。

🍀イエスが地獄に行って伝道することの根本意義

 本来、人間という存在には地獄と言うものはあり得なかったが、サタンの誘惑を受けて神と分岐されたあとから、地獄という非原理存在が生じるようになったのである。この地獄に行くようになったのは、もちろん神の怨讐である罪と結託した報いであることは間違いないが、人間が根本的に創造前から怨讐となる存在ではなかったことは間違いないことである。

271
直筆写真

ここにいる霊たちは、堕落することによって神から離れて不順者となった霊たちであり、このような霊を処罰するところがすなわち地獄である。
 そして、このようなところに霊が来ているのは、やはり堕落した世界の始まりが事実としての原因であるため、この問題に対する根本責任は、人間たちに不足があるとしても、堕落するようになったアダムとエバがもたなければならないことは明白な基本事実である。したがってイエスが地獄に行ったことも、結局はアダムのためにこのようなところが生じる基が造られたことから、第二アダム格として来たイエスには、その責任的使命を担うという目的が残っていたのである。(ペテロⅠ三章一八~二〇節)
 地獄に行った彼らも、根本はイエスに属すべき存在だったものがこのようになったため、彼らにも生命を受ける道を立ててあげなければならず、そのために地獄まで行って伝道しなければならない根本目的があったということである。それゆえ、イエスの十字架のあとからは、地上だけでなく地獄の部分まで一つの生命の道が開かれるようにあったのである。
 そしてまた、地獄にいる霊までも蘇生できる道を求め、無限の苦痛と闘いながら、途方もなく長い期間にわたる救援復帰路程が始まったことも知らなければならない。すなわち彼らの犯した罪は、その体の重荷となりとげとなったため、その重荷を下ろして清めてこそ、万民が光を求めて成長できる特赦の路程が始まるのである。

272
直筆写真

 霊の世界は、善に対する刺激は強いが悪に対する刺激は激しいものではないため、その霊人体から悪をきれいに分立することは難しく、その期限を規定すれば無限数と比較できるほどの長期間を要する。そうして初めて成長し善に向かっていけるがゆえに、ここにイエスが地獄を伝道する根本意義があることを知らなければならない。
人間の肉身生活では罪に対する刺激が強いため、素早く善を発達させることができるというのが根本の創造原理であった。しかし霊人世界は、本然の創造理想だけで満たされることが根本のみ旨となっていた。ゆえに悪に対する処置方法としては、創造理想の原理ではなく、周期的に善と対向できたときにのみ生命要素を得ることができるようになっている。それゆえ、地獄にいる者たちも、善の根本を基本として悪と対比することで悪に対する刺激を受け、善なる成長が協助されるようになっている。
 もし人間が地上で善のみを所有する者になれば、全的に善なる理想の要素を得ることができる。これが基本であり道理である。地上がこのような理想の準備をする原理の基となっているため、イエスも地上でなければみ旨を成就することができない。それゆえイエスが地上に降臨された根本意義がここにある。

273
直筆写真

 イエスが地獄に下りていくことによって、イエスの生命要素が地獄に一つの基を定めるかたちとなるため、この基に符合できる善なるものを立てれば、蘇生できる部分要素を受けることができる。それゆえ、イエスの十字架から地獄にも一つの恵沢が始まるようになったのである。
 そして、イエスが地獄まで伝道する道をサタンが許諾せざるを得なかったのは、根本原理の主人自体が復帰の基を立て始めたため、やむを得ず許諾したことも知らなければならない。すなわち、神の生命蘇生の権限は天宙のどこでも始められるものであり、地獄にもその一つの道が始まったのである。
 聖書のペテロの第一の手紙三章一九節から二〇節には、「こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである」とあり、またペテロ第一の手紙四章六節には、「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」とある。これらのみ言を見れば、イエスが地獄まで伝道することは特別な恩赦であることを教えてくれ、またその根本意義を知ることがきる。
 このように神は、地獄撤廃の理想が完成してこそ「み旨の円満成就である」と言うことができる。この時期がはたしていつになるのか、その時期を限定することはできない。

274
直筆写真

🍀イエスが昇天後も摂理に責任をもつ根本意義

 本来、神のみ旨を中心として造られた人間始祖アダムとエバは、神の終局の目的段階まで到達できずに堕落するようになった。もし堕落することなく完成する位置まで進んでいれば、神の体になると共に、地上には「地上天国」の形が展開するようになっていたであろう。したがって、アダムとエバによってみ旨完成する部分がまだ残っている一つの課程で堕落したのである。ゆえに最初のアダムとエバは、未到達の部分から上に向かって前進するのではなく、そこから後退する一路を歩むようになったのである。
 そして、非原理的な子女を繁殖することによって神が憎む世界をつくりあげてきた。神はこれをすべて取り戻そうとするため、この世界の人間をして、堕落前の未到達部分でアダムとエバが神と相対していたところまで移してこそ、神が根本のみ旨を完成する場を展開できるのである。
 このようにアダムとエバが全人類を怨讐として死亡へと陥れたため、第二のアダムのイエスには、全人類を一つにして堕落前の段階まで移しておかなければならない責任的使命が残っていたのです。

275
直筆写真

ゆえに十字架によってこの基礎を定め、全人類をして人間が根本堕落した段階まで引き上げる責任を完成してこそ、イエスもそれ以上の部分への第一歩を踏み出すことができるというのが基本となる。成就しようとするそれ以上の部分とは、神を中心とするアダムとエバが地上に完成するはずであった世界のことである。これが人間に潜む暗闇とサタンを取り除く歴史に対して、イエスが昇天後も摂理しなければならない理由である。

 アダムとエバが落ちた部分の段階は、神の段階よりも低い生命体級の段階であった。生命体級とは、霊人体の成長が長成段階であることを表示するものだが、旧約の時期を通して一つの基台として定めた霊形体の基台の上で、新約の時期に生命体級まで引き上げることがイエスに残された使命であり責任分担であった。
 イエスが昇天すると、まず天にいる聖徒がイエスを中心に生命体級に引き上げられた。イエスは、天でも生命体級まで訪ねて完成できるようにされると同時に、地上にいるすべての人間も生命体級まで移しておいてこそ、アダムが堕落した部分を充当できるのである。イエスがこの部分まで満たそうとする役事に聖神、すなわちエバの神が協助し、それがキリスト教の歴史を発展させてきた原因である。
 それゆえ、天にいる聖徒が今まで努力してきたのは、地上の人間をして生命体級まで復帰させる事業の役事に協助することで、早くみ旨成就の表準(基準)まで到達させるためである。

276
直筆写真

そのために天は総動員して地上に対してきたのである。サタンはこれに反し、人間を通して地上のみ旨成就の道に反対して対立してきた。しかしサタンは敗れ下っていく方向に前進してきたのである。
 このように歴史を通じて信者たちを迫害してきたサタンは、先に主権国家を造成したがゆえに、その主権機関を通してキリスト虐殺主義などで反対した。悪が主権を握ったため、それを徐々に天の側へ移していくなかでキリストに属する義人は殺害されてきたのである。神が彼らを殺害されるようにした理由は、義人たちの流した血が悪の血に汚された世界を洗い清める代身の蕩減条件として歴代の血を清めるものだったからである。そうして今まで、イエスの血と合わせて世界を洗い清めるかたちをとってきたのである。
 このようにして世界の汚れた暗闇を蕩減して清めて神のみ旨を成就できる時期を待ち望むための準備が、すなわちイエスと聖神と天の聖徒たちと地の信者たちが行ってきた役事であった。

277
直筆写真

そうして世界を急いで洗い清め、暗闇を清算する時期が、とりもなおさず再臨前の審判時代だということを知らなければならない。それゆえ、この地のすべてが神の理想建設への第一歩を始めることが根本目的であり、それがイエスの地上再臨から始まる目的となってきたのである。

 アダムとエバは、神を中心に一つの愛を成就する夫婦になることを求めていたが、今まで霊として相対し、役事してきた神とイエスと聖神は、一つの肉身をもち、自らが堕落することなく進むべき根本の部分、すなわちみ旨を中心とする夫婦になることはできなかった。
 ゆえに天は、地の信者をして新郎を迎える新婦とし、歴史を経ながら暗闇を取り除き、その模範となる一つの基が成就して完成することを待ち望んできたのである。この全目的が完成する時期と共に、天も完成できる基本理由となるその結実点が始まるがゆえに、天宙の全聖徒たちも一つになってその日を待ち望むのである。
 また、そうしてこそ堕落せずに完成した創造理想の夫婦を取り戻し、その夫婦がすべての人間の祖先となり、間接的に代を継ぐ養子のような信徒たちは、地から天まですべて完成できるようになるというのが実際の原理となっている。

278
直筆写真

こうして神の体として一つになった夫婦の出現が成就したときの婚宴が、とりもなおさず「小羊の婚宴」(ヨハネの黙示録一九章九節)なのである。
 したがって、人間が根本の父と母を求めてお迎えする最初の出発日が、すなわち再臨成就の重要点となっていたのである。そのときこそ地に創造して人間始祖を取り戻したことになるため、これが神の創造の根本理想であり、本来の目的成就の始まりと共に天の生活が始まることを知らなければならない。
 また、🍀今まで神は「父なる神」として、歴史を通して母のいない父であったことを人間は知らなければならないが、母のいない「父なる神」であった根本意義を考えることさえできない父母を失った子女を見るとき、その父の憤慨たるや言葉では言い表せないものだったであろう。その間、人生の苦痛が未解決だったことは歴史を通じた事実であった。したがって、天の父と母が成立してこそ、子女が自らの家庭組織の成就を始めることができるのである。(第五巻第二章第一節参照)それが目的ゆえに、聖徒や天にいる人間はこの一日を長く待ち望んできたのである。

279
直筆写真

 そのように、地で完成しなければならない存在がすなわち再臨主であるため、この方が地上にいるとしても、天にいるすべての存在がすなわち再臨主であるため、この方が地上にいるとしても、天にいるすべての存在がこの方を父母として侍らなければならない。父母に侍ることが未完成となっているため、地の聖徒たちが成し遂げる代わりに天の聖徒が地を訪ねて成し遂げ、その条件を満たす役事をする。ここに天の聖徒が我々を訪ねて一つになろうとする根本意義がある。
 天の人間も地の人間も、この根本の父母に侍ってこそ地から永遠の生活が始まり、その地の夫婦が天の夫婦となって永遠家庭の建設が始まるのである。このような時代がすなわち、父格として来られる再臨主の時代である。それゆえ、この時が早く訪れるようにするため、イエスと聖神は力を尽くしてきたのである。したがってイエスの昇天後に役事する摂理は、再臨基台を定めることが根本目的である。
 そして、このような一つのみ旨成就において、第二アダムのイエスが未成就の理想部分があるため、第三アダム格として再臨主が現れて根本のみ旨を完成し、夫婦から新しい一つの天国家庭を建設する目的と共に、血代(血統)を転換する新郎新婦の成礼式が全世界に伝えられる。

280
直筆写真

こうして神の体の一部分が分配されて根本理想にまで至る道がすなわち再臨主に侍る道であり、父と同級の完成部分の霊人体を造成する生霊体への道である。この道を万天宙が一つになって歩み始めることが根本目的なのである。

 それゆえ今、イエスと聖神によって長成の生命体級まで来た者たちには、必ず「アダムである、エバである」と教示される場面と逢着する。しかしこれは、堕落前のアダムの段階まで来て、夫婦の段階を成就できる適格者であることを教示されたのであり、今はそのような信者も多くいなければならない。
 そのようにして、再臨主であり、人間の根本祖先である父をお迎えできる基を立てるための基本準備の場が世界各地で始まっていることは事実である。それゆえ、イエスと同級の生命体級の者によれば「主である」と教示することもある。つまり、イエスと同級ゆえにこのような啓示を受けることもあるということである。そのため終わりの日になれば、至る所で「主だ」と語る者が多く出てこなければならないが、その中で本当の根は一カ所である。そこは全天宙に隠された神のすべてを合わせて発表するところである。
 そこに向かう準備を完成した者は、天の家庭を目指す過程として、一つの過渡的な分岐点を正しく定めることが根本のみ旨であることを知らなければならない。そうしてこそ、根本の子女を中心とする理想組織として、天の根本となる地が始まることを知らなければならない。

281
直筆写真

そうしてこそ、根本の子女を中心とする理想組織として、天の根本となる地が始まることを知らなければならない。このように生霊体まで完成して初めて天が理想とする型の人体構造を完成するのである。
 このみ旨を成就しようとすれば、主に侍る生活世界として、再臨主を中心に世界主管が復帰されなければならない。それゆえイエスは、再臨について「人の子が天の雲に乗って来る」(マタイ福音書二四章三〇節)と、比喩をもって語られたことを知らなければならない。(注十九)神が送ると言われたエリヤが洗礼ヨハネであった理由と同様に、このみ言はみ旨を中心にして語られたみ言であり、み旨は一つだがそのみ旨を成就する人間は二人であることを語られたのである。このことについてはすでに論じたため、これ以上論じないことにする。(第二巻第一章第一節(二)参照)

それでは、イエスはどのような存在かというと、一人の長子としてすべての人間が侍る中心の本になる存在であった。それゆえ、後に来られる再臨主が根本となることは言うまでもない。

この方を中心に地であると同時に天となる、その一部分が始まり、六〇〇〇年歴史の完成と天の一つの目的達成が始まりを迎えることは事実ゆえに、これは世界の喜びであり天の喜びである。このような時代が来てこそ天のみ旨は一つの完成基台が定められ、嘆息のない世界へとその第一歩を歩み始めるのである。
 そして、聖書のマタイ福音書一六章二七節を見ると、「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」と言われている。

282
直筆写真

したがって、再臨の主が父として来られることも明らかにされていることを知らなければならない。
 以上のような原理から見るときに霊(霊人体)として完成する者とは神にとってどのような者だろうか。その結論は各自の解決に任せることにしよう。(第五巻第二章第四節参照)

(注十八)
復活されたイエスは霊的な真の父として、霊的な真の母であられる聖霊と一つになって摂理されることにより、信徒たちを霊的に接がしめて、霊的に重生せしめる摂理をされて、霊的救いの摂理だけを成就するようになられたのである。したがって、イエスが復活した圏内では、サタンの霊的讒訴条件が清算されているので、それは霊的面におけるサタンの不可侵圏となっているのである。 (『原理講論』P四二五)

(注十九)
なぜ神様は「エリヤ自身が来るのではなく他の人として来る」と教えてあげなかったのでしょうか。また、イエス様の時代に「再臨主は雲に乗って来るのではなく人として来る」となぜ教えてあげることができなかったのでしょうか。来られる主は完成したアダムとして来るので、これまでアダムが失敗して歴史を台無しにしたことを、アダム自身が解決しなければならないのです。神様が教えてあげてはいけません。ですから、これを象徴的に教えてあげるのです。はっきりとは教えてあげません。
堕落するときに、アダムがはっきりと神様を知らず、神様のみ旨を知らなかったのと同様に、それと同じ立場に立って再びこれを取り戻して上がっていかなければならず、連結させなければならない責任がアダムに残っているので、教えてあげることができないのです。 (『文鮮明先生御言選集』 二七〇―一二〇、一九九五・五・一四)

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