まちおん10周年に寄せて


まちおんは2013年の9月13日に第一回を実施して以来、10年が経過する。
元々はその年に企画していた大きいホールでのイベントのためのプロモーションだったが、そのイベントが大盛況に終わったあとも継続しようという機運があった。

演奏機会を作るのは思うより大変で、場所や機材の確保、集客やチケットの制作・販売、告知や当日の運営など、かなりのエネルギーを消費するものだ。しかしストリートという概念が浸透し、大イベントの盛況も手伝い、実行委員長の行動力に促されて自信が湧いていたのだ。


だが蓋を開けてみればそれほど甘くなかった。しばらくすると出演者も客も減ってきたのだ。元々音楽がそれほど盛んな土地でもなかったし、ギャラもなければ観覧料もないので、質の高いものを提供し続けられるわけでもなかった。しかしそこは役割。地方創生が叫ばれ、市街地活性化が急務とされ、また音楽人口(音楽の質も)を増やすには、底辺からあげていくしかなかったのだ。

当初は代表者という立ち位置はなく、強いて言えば当時都城音楽祭実行委員会の運営部がまとめていた。そのうち運営部を含め実行委員会は徐々に減っていき、委員長だった種子田氏が代表者という認識になっていった。広報部長だった僕もウェブやSNSを担当していたこともあり深く関わることになっていった。


その頃の功労者と言えばやはり運営部だろう。部長の上津曲浩一とタカオシンをはじめとしたメンバーだ。とくにタカオシンは演者としてもみんなを鼓舞し続けた。言わずと知れた都城では一番の実力者であり、多くが目標にしている人物だ。タカオシンとの思い出としては、ある日一人も出演者がいなかった日に、僕一人で四枠(二時間)やり続けようと思っていたところに、彼は遠方からわざわざ駆け付けてくれたことがある。

また、サムカナディアンズとフラインクベイビーは創成期において出演を続けてくれた雄だ。特にサムカナディアンズはメンバー変動をしながらも、現在も出演し続けている。そして最も成長めまぐるしいユニットでもある。

だが演者がいない時、ボスと僕は空き枠を埋めるのが日常になった。基本的にこちらから誰かに出演依頼することはしない、というポリシーがあったせいでもある。また必ず必要なのが経理やその他の雑務をこなしてくれる人だ。僕らはそういう人材(内村女史)にも恵まれ、この3人を中心に運営していた。コロナが蔓延するまでの間、休んだのは台風が直撃した2回だけだった。

徐々にだが、楽器を押し入れに仕舞っていた年配者が再び楽器を引っ張り出し、めっきりと減っていた学生の士気にも火をつけ、都城の音楽人口は増加した。

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その間、宮崎県内はもちろん、鹿屋、人吉、鹿児島、南九州市と、志を共にする同志たちとのネットワークも築けた。お互いに行き来し、演奏し、交流を深め、思い返せば初期のレギュラー達と共に作り上げたネットワークだ。特にキジマタクの貢献度は筆舌に尽くしがたい。特に鹿屋、人吉は彼がいなければ交流は始まらなかった。

このネットワークのお陰でまちおんは幅広く周知してもらえた。演者にとってもこのネットワークは大きい影響力を持つようになった。少なくとも鹿児島、宮崎、熊本を行き来できる窓口としても機能し、それを大いに活用した人達もいる。

また毎週土曜だけでなく翌日曜日に積極的に「出張まちおん」と称してあらゆるマルシェやイベント、祭りに参加した。多い年には年間20回を超え、イベントに華を添える役割も果たした。さらに二大祭りの盆地祭りとおかげ祭りはいずれも毎年ステージを展開させてもらった。またストリートピアノ・プロジェクトには2014年から参加し、311には毎年追悼まちおんを展開した。七夕まつりでは3日間ぶっ通したり、イオンや商店街とのコラボレーシヨンも多数こなしてきた。

コロナはたしかに大きな爪痕を残した。時を同じくして僕自身も体調が悪化し、生活に大きく影を落とし始めたため、8周年を前に代表を退いた。

大きな決断だったが、当時のレギュラーやスタッフ合わせて十数名に託した。全体をまとめるのは大変だし、責任や先を見据えた企画力、何かあったときの後始末、効果の高い広報活動、それらも十数名で分担すれば可能だろうと思ったし、まちおんは当初の役割(中心市街地活性化への貢献)は十分に果たしていたので、まちおん自体を止めるという選択肢もあったが、後進達は継続を選んだ。

幾多の出来事やコロナを経て、ついに10周年を迎える。49 だった僕ももうそろそろ還暦が見えてきている。体のあちこちに爆弾を抱えてはいるが、だからこそ今を自分のために精一杯生きたいと思い、精力的に動くようにしている。2年前はまた元気になれる、と思っていたから医者の言うことも聞いていたのだが、明日何が起こるかわからないのに、悠長にやってられないと思いだしだのだ。

学生時代の夢だったシンガーソングライター(っぽいこと)も実現した。8年間の間、まちおんは僕にとって生活そのものだったが、没頭しすぎた感もある。ウエブの更新には何日もかけたり、材料が足りなければ取材に行ったりもした。出張まちおんの出張先との打ち合わせで仕事をすっぽかしたことも何度もあったし、機材の運搬で怪我したことも一度や二度ではない。

だが「やりがい」があったのだ。生きていると感じられた。たかが音楽、だがそれが音楽でなくとも、人にはそういう何かが必要なのだということを遅ればせながら教えてくれたのがまちおんだったと思う。

この間に失った友人も多い。実行副委員長の松元彰一郎氏をはじめ、チャンレノこと長尾正勝氏、病状を隠しながら何度も出演した検崎竜太、ストリートピアノの功労者大坪徹氏そして土屋高輝氏、みんな天国で好きな音楽を展開してくれていることと思う。

コロナが落ち着き、ほとんど正常にもどった感のある現在、まちおんには新しい息吹がたくさん芽生えているようだ。僕の知らないフレッシュな演者や、活動停止していた人が再開していたりと、脈々と引き継がれているのだろうと思う。

若い人たちがそのステップに活用できる場として、あるいは年配者でも培ったものを発表できる場としてあり続けてくれることを祈りたい。