日々の思いを徒然なるままに

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久しぶりの

2022-12-30 21:46:09 | 日記

お久しぶりです。

 

みてくださっている方がいるかもしれませんのでお知らせしておきますと

一世一代の賭けには勝ちました。

その後色々とあったのですが、人間は変われると言うことを証明していきたいと思っております。

 

 

ところで、2022年も終わります。

実は年間100冊の本を読破すると言う目標を掲げておりました。

昨日それを達成いたしました。

 

で、最近読んだ本の中に

「あふれでたのはやさしさだった」(寮美千子著 西日本出版社)

がありました。

1万円選書に当選し、選書していただいた本なのですが、教育をしている人間としても考えさせられる本でした。

 

内容としては、著者がご主人と「奈良少年刑務所」で「社会性涵養プログラム」の一環として

受刑者に講義を行った記録

 

講義の内容は著者の立場を生かし、絵本のロールプレイングや、詩の朗読、詩の作成

この経験を通じて社会性を身に付けさせ、二度と刑務所に戻ることがないように送り出そうというもの。

 

受刑者に優遇しすぎだという話がしたいわけではないので、そこの議論は置いといて

その講義の方法に注目したいのです。

 

「評価をしない」「無理強いしない」「助け舟を出さずに待つ」

この約束のもと授業は進むんです。

学校教育とはかけ離れています。

しかし、特にこの評価をしないという観点。ずっとずっと私が思っていたことと重なります。

教師が、なぜ生徒を評価するのか。どこにそんな権利があるのか、と。

もちろん教員免許持ってますからそういう意味では権利はあるんでしょうが

人が人を評価するって、そんな紙切れ一枚で与えられる特権なのでしょうか?

 

評価があるから

「俺はダメなんだ」「あいつより私は馬鹿なんだ」「俺は何をやってもできない」

みたいな

劣等感を抱き、自己肯定感や自己充足感を失う。

 

評価がなくなると、その人が勝手に他社と比較しない限りはこんな感情生まれませんよね。

 

「受け止めて寄り添う」ことが重要。しかも大袈裟にではなく、さりげなく。

めちゃくちゃ難しいことを要求している気がしますが、この本に登場する著者や教官、刑務官は実践しています。

 

肩をいからせて「俺は強いんだぞ」と虚勢をはっていた子、吃音があってうまく話せなかった子、話し始めるのに恐ろしく時間がかかった子、場面寡黙の子、あらゆる子が、評価されない、誰からも馬鹿にされない、みんな待ってくれる、という安心と安全に包まれた教室内で変わっていく様は、学校教育のやり方を考えるきっかけになった。

 

もちろん、学校教育のずべてがだめだというわけではないと思うが、特別活動までも評価して生徒に開示しようとするこの改変には疑問が残る。

学校で測れる技能や技術性質なんかはかなり限定的なものであって、それをその生徒そのものの評価のようにしてしまう制度は、変えていったほうが良いという気もする。

 

今までとは少し系統の違う話を書いてみました。

 

自分は断薬しました。

それに至るプロセスは、また今度。


依存と自立

2022-07-17 19:08:48 | 日記

「依存すこと」と「助けを求める」ことは紙一重なのかなと思う。

「頼ること」は非常に大切なことだし、それをせずに何もかも一人で抱え込むと健康にも悪いし、仕事のことなんかやと業務に影響もでる。

 

しかし、「その人や物がなくてはならない」となってしまったら、依存状態なのかなと思う。

悩みをその人だけに打ち明けていたり、仕事の相談は全部同じ人、と言うのは良くない気がする。

 

相手が人格者なら、うまいことあしらって依存状態から抜け出すように仕向けてくれるんだろうが、共依存状態になると最悪なのかなと思ったりもする。

 

誰か特定の人に頼るのは絶対に良くない。

満遍なく、いろんな人に少しずつ頼る。そして自分も自分の得意な分野で周囲の力になる。

それがお互いにしんどくなくて、貸し借り、みたいな関係にもならないと思う。

 

そして、自立とは、そうやって特定の誰か、ではなく満遍なく頼れる人のことを言うのかなと。

 

誰か一人に頼るのもダメ、全部一人で抱え込むのもダメ。

 

私自身は依存の経験があり、その人に冷たくされたり、距離が離れたと感じると不安になったりパニックに陥っていた。

優しくされると甘え、そしてまたパニックになる。

 

今振り返れば馬鹿なことをしているなと思うが、当時は真剣そのもの。

依存していたという自覚も、もちろんない。

 

結局当時は他にやらねばならないことができて、強制的に関係が疎遠になったので、それでなんとかなったが、非常に苦しい時期だったし、お互いに傷つけあって思いやりもクソもなかったと思う。

 

今は、依存しているなと感じるとまず「依存」を自覚するように気をつけている。

依存されているな、と感じるとあえて距離を一定に保ち、その人が自ら気付くのを待つようにしている。

 

対応の仕方はわからないことが多いし、正解かどうかはわからない。

甘えることが下手くそな人は非常に多いなと思う今日この頃。


友達

2022-07-13 21:55:42 | 日記

今日ある人から悩みみたいなのを打ち明けられました。

もちろん内容には触れられませんが、大筋だけ言うと

「周囲のみんなにこんな風に思われてたら嫌やな」

という考えが邪魔をして自分の思う決断をできずにいました。

 

とりあえず全部話を聞いて、質問してみました。

「周囲のそんな風に思うかもしれない人は、あなたにとって大切な人たちなの?」

と。

 

「疑いからスタートする関係は健全なのか?

ほぼ無条件に信じるからこそ友達であり、あなたが友達だと思う人はそんな風に思わないんじゃない?」

と話してみました。

 

「信じられるから友達なのか、信じるから友達になれるのか」

とても難しい問題もはらんでいますが、とりあえずは周囲からどう思われるかについて考えたいなと思います。

 

私自身は、私が大切に思う人も含めて「どう思われるかはコントロールできないものだ」と自分に言い聞かせ続けています。

実際、相手がどう思っているかは絶対にわかることができない。相手の言葉が真実なのか嘘なのかはこちらがその言葉を信じるか否かでしかない。

 

裁判みたいに「証拠」なるものが存在しない部類なのかなと思います。

そう言う意味では「周囲からどう思われるかを気にしたり、嫌われないようにしたり、好かれようとしたり生きる」と言うのはめちゃくちゃ縛られた生き方なのかなぁと思います。

 

日本は(と括って良いか分かりませんが)「他人に迷惑をかけてはいけない」と教えられてきます。

文化ですし、否定するつもりはないんですが、「迷惑をかけるかも?」と自分を抑え込んでしまうほどに思い詰めるのはいきすぎではないかと思ったりもします。

めちゃくちゃ縛られますよね。ここでこれを言ったら迷惑かもしれない

相談したら迷惑かもしれない

聞いているだけでイライラします。

 

マナーと迷惑を混同しているようにも感じます。

 

相手が自分のことをどう思うかは分かりません。

悩みを相談したら実際に迷惑がる人もいるかもしれませんし、逆に「信頼してくれてるかも!」と好意的に受け取ってくれる人もいるかもしれません。

 

それならば、相手に対して思いやりの心さえ持って接すれば、自分の生きたいように生きたら良いと思ったりもします。

結局相談してくれた相手はスッキリしてくれたようでしたが、人間関係は難しいですね。

 

 


一世一代の大勝負

2022-07-11 00:13:53 | 日記

一世一代の大勝負

大きなものを賭けた戦い、だそうですが、最近それを経験した気がします。

人生は選択の連続で、その選択の結果は誰にも予測できない。

先人が成功したからといって必ず成功するとは限らないし、失敗するとも限らない。

 

そんな選択を意識的にでも無意識的にでも繰り返している人生の中で

これは!

と思う大きな決断に迫られる瞬間があると思います。

私は先日それを経験した気がします。

 

その決断の結果はまだわからないし、どうなっても後悔はないと思います。

 

とか言いながら、その結果にドキドキした毎日を過ごしていますし、どんな結末になるかを想像しては一喜一憂しています。

 

私は立場上、人の選択に口を出してしまいがちなきらいがあります。

その選択の結末を受け入れるのが私ではないのに、自分の経験や知識を用いて「結果はこうなるに決まっている、だからこうしなさい」

ここまでハッキリではなくても、ある程度は誘導している気がする。

 

ある種のコントロールに近いと反省する日も多い。

 

自分が責任の取れない選択に口出ししてはいけないなと感じながら、アドバイスだと言い聞かせて話をしてしまう。

そして、またやってしまったなと反省する。

 

そうではなくて、その人の話を聞いて、共感し、自分で決めて良いんだよ、と勇気を与えたいなぁと思いながら生きています。

とてもとても難しいです。

 

 


気持ちの切り替え

2022-07-08 23:58:07 | 日記

いや、赤裸々な話をしようかと思ってバーボンをあおった訳ですが、やはり恥ずかしいのでやめます。笑

 

みなさんは、人生で「相手にどう思われようとずっと愛したい人」っていますか?

もちろん家族はダメです。血のつながり、血の絆のない間柄でそういう人に巡り会えたことはありますか?

 

私には自信を持ってそうと言える人が二人います。

 

もちろん、その人たちとの恋愛が成就しなかったとわかった時は諦めきれませんでした。

メールを送ったり、電話をかけてみたり、未練がましかったです。

 

でもいつからか「相手が幸せに家庭を築き、子育てをし、やりたい仕事をしている」ことで幸せを感じるようになりました。

心の底から愛しています。でも、報われないとなった時、こんなふうに思うのは、偽善でしょうか。

 

自分で自分を騙しているんでしょうか。

自分には分かりません。本気で思っているつもりです。

 

むしろ、人生で二人もそんな人に出会えたことに感謝しています。

これも、実は本心ではないのでしょうか。

 

いつどのタイミングで、何がきっかけで気持ちが切り替わったのか分かりません。

本当は切り替わってなどいなくて、今でも想い人のままなのかもしれません。

 

ただ、同じ思いを返してほしくて思っているのでしょうか。そして、それを見抜かれているのでしょうか。

考え出すとぐるぐると思考がまとまりません。

 

人を愛しているというのは一体どういうことなんでしょうか。

「愛している」と伝えることでしょうか。

辛い時に寄り添ってあげることでしょうか。

幸せな時間を共有することでしょうか。

健やかなる時も病める時も一緒にいることでしょうか。

 

どれも正解に聞こえるし、どれも偽善に聞こえます。

 

自分はどう思うのかと問われると、、、

「無条件に信頼して、心を完全にオープンにすること」なのかなぁと

 

でも、それも見返りを求めているんですかねぇ

 

今日の話題は難しいですなぁ

 

人の悩みをたくさん聞きたいとか言いながら、毎回自分の話ばっかりしてる笑