高句麗 (コグリョ) とドラマ『朱蒙』以降。 | 咲くやこの花のキラキラパラダイス

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       ドラマ『朱蒙』以降の高句麗と百済

■ 『朱蒙』以降の高句麗の発展。

BC37年、古朝鮮の正統性を引き継いで巨大な国家高句麗を建てたチュモンは、BC19年に40歳でこの世を去る。チュモンの後に王位に就いたユリ王は、AD3年、首都を卒本から国内城に移し、東扶余の侵攻を防ぎ、梁貊  (ヤンメク)  族の建てた国を滅亡させ、漢の高句麗県を奪う。古朝鮮の昔の領土を取り戻すというチュモンの多勿政策は、ユリ王以降も引き継がれ、AD1世紀末から2世紀初めにかけて、太祖  (テジョ)  王の頃に今の咸鏡  (ハンギョン)  道地方にあった小諸国を併合、遼東  (ヨドン)  と玄菟  (ヒョント)  郡を攻撃し、勢力を拡張させた。その後、美川  (ミチョン)  王の頃、中国の後漢が支配していた楽浪  (ナンナン)  郡と帯方  (テバン)  郡を併合し領土を広げた高句麗は、AD391年に即位した広開土  (クァンゲト)  大王に至ると朝鮮半島の歴史上最も広い領土を手に入れ、北東アジアの巨大国となる。広開土大王は、AD395年に西北側の碑麗  (ピリョ)  国を征伐し、今の西喇木倫河  (遼河の上流)  まで、そして398年には東北の肅愼  (ソクシン)  を征服し牧丹江まで、407年には西側の中国の後燕を攻撃し旧満州地方の遼河を越え、410年には北扶余を征服し、今のハルビン付近にまで領土を広げた。広開土大王の後を引き継いだ長壽  (チョンス)  王の時代には、広開土大王が築き上げた領土を守りながら、同時にAD427年に都を今の平壌に移し、積極的な南進政策を敷き、朝鮮半島に位置する百済や新羅に圧力をかけた。高句麗の対中国戦争は、AD6686世紀末に中国を統一した隋と唐に至るまでは高句麗優勢であったが、AD668年に内紛により国力が弱まり、唐と連合した新羅に攻撃され滅亡した。



■ 百済の建国と発展。
BC18年、ソソノと共に南下したピリュとオンジョは、それぞれ彌鄒忽  (ミチュホル、今の仁川)  、慰礼  (ウィレ、今のソウル近郊)  を首都をする国を建てた。しかし彌鄒忽は湿地帯で人が住むのにあまり適していなかったので、ピリュに従った民はオンジョを頼るようになる。肥沃な漢江  (ハンガン)  流域に拠点を構えたオンジョは、土着勢力やピリュの所からじふを頼ってやって来た民を従わせ百済を建国する。オンジョの建国過程でソソノは、朝鮮半島の中南部に位置する小諸国と貿易をしながら富を蓄え、建国を助けたという。その後、漢江流域の新しい勢力として成長した百済は、AD3世紀前半の古爾  (コイ)  王の時代に、中国の郡県に対抗する勢力となり、経済力をつけて影響力を強化。3世紀後半には目支  (モクチ)  国を征服し、朝鮮半島中部を手中に収める。4世紀中盤に近肖古  (クンチョゴ)  王に至り、全羅南道海岸一体の馬韓  (マハン)  の残余勢力を完全に征服し、北は帯方故地をめぐり高句麗と争い、名実共に朝鮮半島の中南部地域の覇者となる。国力が拡大する中で、百済は中国の南朝や日本と活発な海上交流を繰り広げ、きらびやかな百済文化を花咲かせる。AD371年、百済の近肖古王が高句麗の故國原  (コググォン)  王によって殺された事件わきっかけに両国の関係は悪化し、百済は、高句麗の南下政策によって衰退していく。AD6世紀中盤の聖  (ソン)  王の時代に、中央官を整備して中興を計り、7世紀武  (ム)  王の時代に新羅の侵攻に成功するなど国力を回復するが、義慈  (ウィジャ)  王の頃、相次ぐ新羅との戦争により国力が弱化し民心が離れ、AD660年、唐と連合した新羅の攻撃を受けて滅亡する。


■ 百済を建国したオンジョ王と高句麗ユリ王の関係は?
ドラマには描かれなかったその後の歴史とは?    母親ソソノと共に高句麗を去り、百済を建国したオンジョと、高句麗のユリはほぼ同時に王位に就く。彼らは友好関係を維持し、お互いを配慮する。オンジョは南下し新しい国をたてたが、同じ家門の兄弟だからと互いを支援し、友情を築き上げる。二国間には貢物が行き交っていたことも歴史書に記されている。またユリ王は、チュモンの志を受け継ぎ多勿  (タムル)  政策を継承、そこに力を入れた  (多勿政策:ドラマでしばしば登場する「多勿軍」と同様の意味で、古朝鮮  (コジョソン))  の昔の領土を取り戻すという高句麗の北方征伐政策)  。





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