消防団退団を決心した理由を話します。

原因は甲地区で建設している仮設住宅についての穴水町役場の対応にありました。

私は仮設住宅建設には反対もしていません。このことを最初にご理解してほしいです。

 

そして初めて読む方のために背景を少し説明します

2022年の石川県知事選挙では私は馳浩(はせひろし)候補を支持しました。

このときの選挙選では能登半島のほとんどの県議会議員と業界団体が反馳浩でした。

 

 

 

 

 

このことは能登半島地震とは全く関係がないことです。

けれども穴水町役場の対応から、はせひろし支援者潰しの目的も含まれていると判断しました。

それで穴水町役場で最初の説明を聞いたその日の夜に消防団を退団することを決めました。

 

私と甲(かぶと)駅のある地区の関係について

甲駅は1959年に国鉄の能登線の有人駅として誕生しました。その後は2005年に能登線の廃止で廃駅になりました。

もともとの私の母屋は甲駅の駅舎が建っている場所にありました。それで立ち退いて手前に家を建て直しました。

そこでは私の親父が自転車屋を経営していました。下の写真の左に見える家がその家ですが、30年ほど前に経営に失敗して現在の平屋建ての家に移り住みました。

2011年に長野県安曇野市から帰郷した私は昔自分の家があった甲駅とその周辺のあまりの荒れ果てた姿に何とかしたいと考えました。その結果として駅舎の一部と近くの農地を借りることにした次第です。

 

 

島崎(しまさき)家と祖父について

明治時代に分家した新宅ですが、読み方は濁らない「しまさき」です。

私の名付け親だった祖父島崎龍一は53歳で他界しましたが、大東亜戦争が始まった頃は大阪三越の社員でした。大阪で徴兵検査を受けましたが背が低すぎたために落ちて、空襲が激しくなった頃に疎開で郷里に戻ってきました。親父の島崎ひろしは祖父がまだ大阪三越にいた頃に生まれたので大阪生まれです。生前の祖父は自民党の政治家の益谷秀次(ますたに しゅうじ)氏を支持していました。

親父の島崎ひろしと坂本家について

益谷秀次(ますたに しゅうじ)氏は現在の能登町の出身ですが、穴水町出身の政治家で坂本三十次(さかもと みそじ)氏がいます。私の親父の島崎ひろしは、その坂本三十次氏が初めて国政選挙に立候補して落選した時からの支援者でした。坂本氏の息子の明氏が穴水町町長選挙に立候補した時も支援を続けました。坂本家の選挙参謀を長年務めていました。80歳を過ぎた今では身を引いてますが、今でも「俺は昔から坂本一筋だ」と言って昔となにも変わっていません。

私が長野県安曇野市から帰郷した理由

いくつもの要因が重なって、これは私に戻ってこいということだと考えました。

ひとつ目が2009年のリーマンショックの影響です。

私が働いていた企業は松本市に本社がある2010年当時は東急グループだったゴールドパックという有機JAS飲料の製造設備がある清涼飲料水メーカーでした。そこの安曇野工場で契約社員で働いていました。

 

 

それが経営悪化で2011年1月に丸紅グループに身売りして2011年7月に東証上場廃止になりました。最初はこの会社でずっと勤務して安曇野に骨を埋めるつもりで、車はあえて雪道に弱い2WDを個人リースで所有して通勤していました。けれども経営環境が変わって退職しやすい環境にはありました。

 

ふたつ目が2009年に自民党が政権から転落して能登半島に民主党の国会議員が生まれたことでした。

 

 

三つ目が2010年9月に尖閣諸島沖で起こった中国偽装漁船による体当たり事件と当時の民主党政権の対応です。

 

 

最後が親父の健康問題でしたが、これが決め手になりました。

前回2007年の能登半島地震では「お前は帰って来なくてもいい」と強気だった親父が突然「戻ってくる気はないか?」と2010年12月に電話をかけてきました。話を聞いたら健康診断で悪性の腫瘍がみつかったと。正月に10数年ぶりに穴水町に戻って病院の先生からは、大腸がんで手術しても余命5年かな?5年生きていたらもう少し生きれるかもしれないと教えてもらいました。

ステージが進行したら病室暮らしなので好きな酒も飲めないだろうから、しばらくの間一緒に酒を飲もうかと考えて帰郷を決めたのが2011年1月でした。病室暮らしになったら愛知県内の病院に勤めている妹が看病するという段取りでした。でもあれから10年以上経過しますが元気そのものです。寿命だけは分かりません。

世界農業遺産と日本有機農業研究会

家で親父と酒を飲みながらできる仕事といったら自分で事業を起こすしか思い浮かばなかった私は、耕作放棄地を借りて農業をすることにしました。けれども農業の経験がないので、2011年4月から1年間、石川県からの助成制度を利用して親戚の前田農園で農業実習することにしました。2011年6月に能登半島と佐渡島が日本で初めて世界農業遺産に認定されました。世界農業遺産にふさわしい農業とは何だろう?と考えた結果が有機農業でした。

日本有機農業研究会とのおつき合いはそこから始まりました。

翌年2月の東京渋谷区の國學院大學での有機農業初心者セミナーの懇親会では先輩方から本音をたくさん聞けました。

「最初から補助金をあてにするような初心者で長続きしたものはいない」「有機農業はそんなに甘くない」とかね。

匂い菖蒲の栽培を始めた理由

ここの農地は2012年秋からほ場整備を始めました。一番最初の作業記録は、数年後に補修するときの参考にするために残してあります。最初は普通に野菜を栽培するつもりでした。けれども翌年2013年6月の集中豪雨で水に浸かりました。どうするか考えたときにたまたま北國新聞で目にしたのが薬草栽培でした。洪水対策をしながら、匂い菖蒲の栽培を思い立ちました。昔の能登半島の水田では片隅に匂い菖蒲をあぜには「あぜ豆」を植えていました。匂い菖蒲だったらビオトープにも使えるし水田に戻すことも容易です。栽培する匂い菖蒲の苗は能登半島が718年に能登国として立国した頃は奈良時代だったので、奈良県の滝谷花しょうぶ園さんから取り寄せました。

5年経って株が育ってきた2018年からは穴水町の森本石油さんに匂い菖蒲の提供を始めました。

2020年からは北國新聞や北陸中日新聞さんが好意的に紙面で紹介してくれました。

滝谷花しょうぶ園さんには2021年にもお邪魔して増やした匂い菖蒲の販売とか栽培方法などを教わってきました。加工品となると大量の匂い菖蒲が必要なので、この場所の株を親株にして栽培面積を増やしていくつもりでした。これが能登半島地震が起こる前の2023年までの話です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前置きが長くなりましたが、本題です

このアメブロと「のとぴぃ」というサイトの更新は控えてきましたが、フェイスブックは簡単に投稿できるので備忘録代わりに使っていました。
私が最初に気がついたのがお彼岸前の草刈りをするために甲駅に行った3月18日です。
そこで石川県から建設工事を受注したオリエンタルハウスの現場監督さんと話をして穴水町役場に出向きました。すでに現場監督さんから石川県庁に話が行って、石川県庁から役場に電話が回っていました。
私からは仮設住宅建設は反対していないということと埋められた匂い菖蒲の掘り返しと移動された月桂樹の引き取りのお願いをしました。翌日にオリエンタルハウスさんのご厚意で匂い菖蒲の一部をミニバックホーで掘り起こしてもらいました。納期が厳しい中無理なお願いをしてすみませんでした。そしてありがとうございました。
 
(2023-07-03 去年のグーグルアースの画像です)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

全部で3回穴水町役場と話をして「もう無理だ」と結論づけた

3月25日に課長と最後の話をしました。この場所では無理だという結論に私はなりました。

以下は私のFBからの転載です(引用符の部分)。この時点で来年までもう1年続けるという話にまとまっていましたが、穴水町役場の対応を見るために今までアメブロを更新しませんでした。

 

3月25日に穴水町役場の地域整備課で話をしました。ざっくり言うと私が匂い菖蒲を栽培している農地の持ち主(金沢に避難してます)とは電話で話をして仮設住宅建設の許可をもらっているし、それをあなたに伝える必要はないです。

農地の貸し借りは借り主と貸し主(持ち主)の間に契約書があっても穴水町では毎年持ち主から許可をもらわないといけないので、あなたの言っている貸し借りの書類は無効です。

確かに私は借りてから10年以上経ちますが更新してないし地代にあたるお金も払っていません。

穴水町としては埋め立てて駐車場とかを作る計画だけど、水があって埋め立てには大量の土砂が必要だから今は止めてます。

でも農地の持ち主から使用許可が出ているのでどのように使おうと穴水町の自由です。あなたは関係ありません。

文章だとキツイ感じかもですが、話し方は穏やかだし、私が知っている人です。淡々と事務的に作業しましたということです。

私の方からは、植えていた月桂樹は返してもらえませんか?とお願いしたところ了解もらえました。

そして栗の木は私の手で切り倒して処分したいです、とお願いしたらこれも了解もらえました。

後はやることはここで栽培している匂い菖蒲を移せるだけ移して立ち去ることしかないと決めました。

これが25日の夕方までの話です。

その後でこの話を知った親父が、俺に何も言わないのはどういうことだと怒り出して(ここの持ち主と親父は若い頃からの知り合いで、親父の顔で借りていました)、夜に親父が金沢にいるその人に電話をかけました。そうしたら今まで通り私がしょうぶ栽培で使っていてもいいという話になりました。

ちょっとそれで私が借りている農地については、話が二転三転しているような状況です。

私の方は仮設住宅に反対しているつもりは最初からありません。ただ穴水町の強引なやり方(というふうに私には見えた)におかしくないのか?と疑問をもっただけです。

穴水町役場の職員には私の中学高校の同窓生もたくさんいます。私も職員も同じ被災者です。震災発生から不眠不休で疲労が蓄積してきているのも分かります。穴水町役場を責めているつもりはないことをこのFBを見ている方にはご理解してほしいと思います。

消防団はもう少したぶん向こうからクビ宣告が来るまで続くと思います。

今年の端午の節句のしょうぶについてはこれから考えます。

 

本当は親父を表に出したくなかった

今の穴水町役場は坂本明氏が町長をやっていた当時と当然違います。親父が出てくると話が大きくなるかもしれないが、親父の顔で借りている以上は返す時も私からひと言説明しないといけない。親父の人間性を考えれば、やっぱりこうなったかというのが私の気持ちです。私としては今年年内中には匂い菖蒲の移転先を見つけて穴水町とは違う場所でもいいので、移転させて匂い菖蒲の栽培を続けるつもりでいます。いまは日本有機農業研究会など私が会員になっている団体の人たちに精神的に助けてもらっています。

そして行政を相手にするときは政治力に頼るしかないと思います

仮設住宅建設の話をしていくうちにだんだんと私が変なイチャモンをつけているような流れになっていきました。いや、だから私は仮設住宅建設には文句など何一つ言っていません。穴水町役場の対応に疑問を持っているだけです。でも官僚や地方公務員の仕事ぶりはどこも似たようなものです。政治家は彼らが好き勝手しないように注文をつける役目もあります。住民の要望を役所に伝える政治家も必要だなと感じました。

簡単にまとめるつもりが長くなりました。最後までお読みいただきありがとうございました。

補足:日本有機農業研究会の会報に紹介してもらいました

ありがとうございました。
 
 
 
 
 

(2024-04-13)
 

(2024-04-13)