KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

対話をしようとする事は『暗黙の了解』への挑戦なのです


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 日本の社会も色々な考え方が可視化されてきて、これまでに存在されてきた価値観を何かと否定するようになってきました。

 

 性の多様性というのも、その1つであります。だいぶ浸透してきたように思われるのですが、主流になってきたかというと疑問ではあります。というのも特に男性の同性愛なんかは、ネットの匿名レベルの界隈では攻撃的な人もしくは嘲笑する人は多く見受けられるからです。

 

 学生の頃に『ホモビデオ』に出演したプロ野球選手を引退した今も『ネタ』にして嘲笑する人いますよね。

 

 じゃあ性の多様性を主張する人に面と向かって言えるのかといったら、たぶん言わないでしょう。第三者から人格を疑われますから。疑う方の人も疑うようなリアクションをしておかないと、これまた他の人に疑われてしまいますしね。

 

 そういうのは思っていたとしても口にするなよ。これこそが『暗黙の了解』というもので、そこに《対話の余地》はありません。対話の余地がないということは、考えるきっかけも生まれない。よって思考停止に陥るわけです。

 

 『暗黙の了解』は日本社会に多く存在すると思われます。哲学を学び対話を実践するうえで、『暗黙の了解』は無視して通れない障害物になります。これを問題視することはすなわち、《私は変人です宣言》をするようなものではありますが、変人である自分を意識して生きてみるのもまた一興でしょう。

 

今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。