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小野妹子の出身地に古代氏族の痕跡を訪ねる〜滋賀県カメラ散歩

滋賀県大津市小野の風景

飛鳥時代に遣隋使として中国に渡った小野妹子の出身地とされるのが、滋賀県大津市の小野です。

その集落は、JR湖西線でいえば和邇駅と小野駅の間にあります。旧街道の西近江路が集落を貫いていますが、今の幹線道路の国道161号は湖西線をはさんだ反対側です。交通量は少なく、静かに散策できるエリアです。

小野は小野妹子の出身地

「小野妹子」はだれでもが知っている名前でしょう。しかし、その割には残されている資料は多くはありません。ざっと振り返っておきます。

「日出処の天子」の国書を持っていったのは妹子

7世紀初めの外交官でした。聖徳太子に抜擢(ばってき)されて遣隋使となります。607年のことでした。そのころの中国は隋の時代で、暴君として知られる煬帝(ようだい)が皇帝でした。

「日出処(ひいづるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」の文言に煬帝が激怒したことでも知られる、聖徳太子からの国書も妹子が持参しました。

このときは翌年に帰国し、同じ年にもう一度、遣隋使となりました。これも翌年に帰国しましたが、その後の消息はわかっていません。

小野が妹子の出身地とされるわけ

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という書があります。嵯峨天皇の命で作られ、京畿(山城国や大和国など京の都周辺)の1182氏を、皇別(天皇家から臣籍降下)・神別(神代の諸神の後裔)・諸蕃(渡来人系)に分類し、各系譜を記したもので、815年に完成しました。

当時は偽の系譜を作る者が後を絶たなかったために、それを防止するために新撰姓氏録が必要とされたのでした。

これに、小野妹子は「近江国滋賀郡小野村に家した」と書かれています。しかし、妹子が生きていた時代よりも200年も後の記録です。これだけでは信頼性が疑問視されていたかもしれません。

しかし、江戸時代初めに妹子の子、小野毛人(えみし)の墓が、現在の京都府京都市左京区上高野で墓誌銘付きで発見されています。場所は京都盆地から琵琶湖畔の小野へと抜ける街道沿いです。このことから、小野氏と滋賀郡小野村とのつながりが自然なものと考えられているようです。

小野氏は外交官や学者を輩出

妹子以外にも、小野氏には歴史上の有名人が何人もいます。

篁や道風も小野氏の一族

遣新羅使では馬養(うまかい)や田守(たもり)、遣唐使では石根(いわね)や・滋野(しげの)など、妹子ののちも小野氏からは多くの外交官がでています。

また、篁(たかむら)は「経国集」「和漢朗詠集」などに漢詩を、「古今集」「小野篁集」などには和歌を残しており、学者や歌人として知られています。妹子からは6代後の子孫とされています。

さらに篁の孫の道風(とうふう、みちかぜ)は能書家として知られ、藤原佐理(すけまさ)・藤原行成(ゆきなり)とともに、「三蹟(さんせき)」とまで呼ばれました。それぞれの書風は異なり、三蹟は今風にいえば「書のスタイル、ベスト3」といった意味です。

「道風のいとこ」との説もある小野小町

また、小野氏の一員には小野小町もいます。特に「小倉百人一首」に採用された……

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふる眺めせしまに

……で知られる歌人です。

「篁の孫で、道風とは従兄弟」との説もあります。しかし、確かなことはほとんどわかっていません。

絶世の美女とされ、歌舞伎や謡曲などの題材に好んで取り上げられました。

小野氏の祖先はお菓子の神様

小野氏はもとは名門とはいえなかったようですが、その能力で最も栄えた古代豪族のひとつでした。滋賀郡小野村以外には、奈良盆地の北東部、山城国宇治郡小野郷、愛宕郡小野郷などにも分布しました。しかし、氏神といえば滋賀郡小野村にある小野神社です。小野氏にとって“本籍地”といえるのも小野村です。

また、逆に妹子から祖先をたどると、孝昭(こうしょう)天皇の子の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)にまで行き着きます。

ただ、孝昭は第5代の天皇とされ、日本書紀や古事記をもとにすると紀元前4世紀か5世紀の人になります。孝昭や天足彦国押人命、その後何代かは「神話の世界の人」と考えたほうがいいでしょう。

その天足彦国押人命の6代後の子孫が米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)です。こちらも「神話の世界の人」ですが、餅(もち)の原型である「粢(しとぎ)」を最初に作ったとされます。

粢は、団子状にして主食とするほか、砂糖などを混ぜると菓子にもなります。そのため、米餅搗大使主命は現代でも菓子業界の人々が信仰する神様です。

毎年、11月2日には粢(しとぎ)祭りも行われています。また、境内にある神殿で作られているのはもち米で、祭りの際に作られる粢に使われます。

小野の周辺は古墳の密集地帯

琵琶湖西岸は全体的に古墳の密集地帯です。日吉大社も白鬚神社も古墳群の中に作られています。小野神社も例外ではありません。周辺にいくつかの古墳群があるだけではなく、小野神社の境内でも円墳が確認され、石棺も発見されています。

この小野神社からは南に約1キロのところでは、周囲は大規模な宅地開発がされ、一部だけ雑木林が残されています。その中央に一部の石材がむき出しになった古墳と小さい社があります。唐臼山(からうすやま)古墳と小野妹子神社と唐臼山(からうすやま)古墳です。

古墳はすでに形が崩れ、石材が露出しています。また、石室の入り口付近からは土師器(はじき)の細片と7世紀前半ごろの須恵器(すえき)片が見つかっているようです。

神社はむしろ「祠(ほこら)」と呼ぶ程度の大きさで、背後の古墳をご神体としているようです。神社の名前はもちろん、古墳の被葬者が小野妹子であるのを前提にして名付けられているのでしょう。

しかし、現地にある案内板では、「小野妹子を被葬者とする伝承は、江戸時代の記録にはじめて見られる」としています。また、大津市歴史博物館の説明でも「伝説では、小野妹子を埋葬者とする説もあるが、可能性は低い」とされています。

表現は抑えているものの、考古学の専門家からの「唐臼山古墳と妹子を安直につなげないでくれ」の悲鳴が聞こえてきそうです。

古代の名残が見つかる小野周辺

現在の小野は、車であれば何も気が付かずにすっと通り過ぎてしまうぐらい、表通りには特徴がありません。

しかし、一歩わきに入ると、927年に完成した法典である延喜式にも登場する古社の小野神社、さらには多くの古墳があります。なによりも、小野妹子の出身地です。

規模は極めて小さいながら、よその土地であれば奈良の飛鳥あたりでないとない古代の名残が見つかるエリアです。

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