山尾悠子『飛ぶ孔雀』 | 空想俳人日記

山尾悠子『飛ぶ孔雀』

 山尾悠子を全然知らない。当然『飛ぶ孔雀』も知らない。彼女の作品は読んだことがない。では、なぜ読む気になったのか。
 もとは、筒井康隆『創作の極意と掟』の「妄想」の項で、川上弘美を絶賛していた。川上弘美は結構読んでいたが、最近読んでいないので、一冊読んでみた。それが泉鏡花文学賞を受賞した『大きなとりにさらわれないよう』だった。メチャ面白かった。
 そこで、ふと思ったのだ。泉鏡花は幻想文学の覇者じゃんねエ。ということは、「この文学賞貰った人は面白い小説書いてるんじゃねえの」とな。で、川上さんが受賞した翌年(2017年)は松浦理恵子さん。この人は知っている。知らん人の読んでみたいな。ようは、新規開拓、そんな気持ちで、翌々年(2018年)受賞した山尾悠子『飛ぶ孔雀』、先にも書いたが全然知らない。ちょっと調べたら、

・第69回芸術選奨文部科学大臣賞受賞
・第39回日本SF大賞受賞
・第46回泉鏡花文学賞受賞

 おおお、三冠達成!だよ。読んでみることにした。

山尾悠子『飛ぶ孔雀』01 山尾悠子『飛ぶ孔雀』02 山尾悠子『飛ぶ孔雀』03

 で、本を入手して巻末の初出を見れば、

Ⅰ飛ぶ孔雀 「文學会」2013年8月号、14年1月号
Ⅱ不燃性について 書き下ろし
単行本 2018年5月 文藝春秋刊

 とりあえず、「文學会」連載された「飛ぶ孔雀」で一つの物語かな。でも、「Ⅰ飛ぶ孔雀」を読んでて、ああ、キーワードは「燃えにくい」だということが分かり、「Ⅱ不燃性について」は続編かあ、そう思ったけど、感想は、ⅠとⅡをまず別々に書くね。

Ⅰ飛ぶ孔雀
 なんですか、これは!? シブレ山? シビレ山? のせいで「火が燃えにくくなっている」。そして、前半の和風とも古風とも、でも、どこかダジャレの香りのする、そして、後半になり、庭園での夜会、魔界、孔雀は飛ぶ。このハチャメチャというかハチャハチャというか、
「おおい、筒井先生、これ、読みましたあ?」って思わず叫んだよ。
 けんど、この後半のハチャヘチャ盛り上がり、そういや、「歌行燈」だったか「高野聖」だったか、その高まるムネノコドウは、よく似たり。うん、泉鏡花文学賞、わかるわかる。でも、日本SF大賞もどうなの、思ったけど、それ以上に芸術選奨文部科学大臣賞受賞??? マジか。いいの貰って。
 岩牡蠣などの低温調理がどんどん出てくるあたりから面白くなってくる。いやいや、その前がつまんないって言うんじゃないよ。冒頭から厳かに和風で古風の味わいを堪能しながら、100円ライターが出てきたし。
 老夫妻の夫が抜け駆けして一人でモーニング食べに行ったり、妻はそれを人妻とモーニング食べに行ったと思ったり。
 さて、庭園の宴というか大茶会?で火を運ぶ女に向かって孔雀が飛ぶ、孔雀って飛ぶか? いや、飛ばないのは鶏やダチョウであって、オスの飾り羽に気を取られて飛行を見たことがない方々も多いだろうが、実は飛行するための風切羽も持っている。そのため、長距離ではないがかなり飛ぶことができる。のだ。だから、これは、リアリズムだ。いや、シュールレアリズムだ。いやいや、この小説は、スーパーリアリズムではなかろうか。登場人物が脈絡もなく入れ替わり、会話も噛み合っていないばかりか、フェイドアウトしちゃったりして……。でも、噛み合う会話よりも噛み合わない会話のが現実多いのではないか。なので、スーパーリアリズム。しかも、現代っ子の日常言葉も飛び出てくる。
 結局、パレードと仮装行列は、本当にあったのか。
 後半、会話が証言というふうになっている話し言葉から、ちょっと引用。
《禽舎と旧馬場を通り過ぎて腰掛茶屋の四の亭舎。茶畑、梅林の伍の亭舎、桜森を経てさいごは島の突端の陸の亭舎に至る。ここを陸堂と呼びますのは、ですからもともとは島の六番目の亭舎という意味合いで、ひっそりと目立たず詫びた草庵ですが、下流側の眺めもよくて近くには大温室などもありますし、見合いの場には最適かとーいえいえあたくしの亭舎は別。いえいえ、鴨居が壊されたというのも別の亭舎です。それに比べれば、陸堂の若せんせいが不貞寝してしまったとかたいしたことでは、古いお品の柄杓の柄もへし折れたとか、あとで見に行ってみたら、確かに床が少し沈んでいましたね。手前畳がーあら何だか話がごっちゃになりましたかしら。》
 スーパーリアリズムである。
《連れの彼氏はぶつくさ言うし、疲れてもう帰ろうかと思っていたらカードの占いをやってくれたんですね。それがもう最っ低。だからね、喋りたくないの。何だか寝てしまって、目が覚めたら彼氏は勝手に帰っているし、暗くてあちこちぶつかってしまって痛いし。ええ、何だか芝草の山みたいなものがあって、あたし足を取られてそこにちょっと突っ込んでしまったんですけど、そんなことどうだっていいでしょ。》
「どうだっていいでしょ」なら、喋るなあ。
《それはどうしても大小があったり、結び目も男結びでなかったり不揃いになるんだけど。でも頑張りは認めるべきよね》《関守石を持ち去るのが孔雀でしょ。クチバシで吊るして》《空洞君と孔雀とは相いれない仲なのよ》《こう見えても園内には複雑な勢力地図があるの、芝をめぐっての三角関係とか》
 ラストのタエの行動とその成り行きがまた面白い。
 ボクたちは、知性や理性で納得しようとしてはいけない。感性でゆらゆらと楽しめばいいのだ。ここには、筒井氏曰くの「妄想」が左脳と右脳を脳梁通して行ったり来たりしながら現実の非論理的様相として描写されているわけなのであ~る。つまり、ボクは、理屈で理解しようと思うことを停止したとたん、とても面白い物語として流入してきたわけなのである。いわゆるフッサールの現象学の「エポケー」で読むべし、なのだ。
 以上、「Ⅰ飛ぶ孔雀」ね。

山尾悠子『飛ぶ孔雀』04

Ⅱ不燃性について
 このタイトルからして、Ⅰで何度も出てきた「火が燃えにくい」の正体見たり枯れ尾花が展開されるかな、最初は思ったが、そうは問屋が卸さんだろう、この小説は、そう覚悟を決めて読み始めたよ。
 ほら、やっぱり、冒頭辺りには、やたら「不燃の秋」と書かれてる。「Ⅰ飛ぶ孔雀」は夏の饗宴で終わった。そして、火が燃えにくい秋となったわけだ。では、どんな不燃性について書かれているか、最初に、Gが登場するが、状況説明だけに駆り出されたのであって、Gは、あっけなく退場・消失させられる。最後まで2度と出てこない。
「おい!どうなってんだあ!!」と憤りを覚える人は作者さんに怒ってね。でも、書下ろししたあとだから、どうにもならない。読者の意見で書き換えるわけがない。「あっ」思いついた。連載で、読者の意見を聞きながら、読者のアイデアを交えて連載に繁栄させるのも面白いかも。ねえ、筒井先生。
 失礼。そして、G消滅後は、Kを中心にした世界とQを中心にした世界が描かれる。なんでアルファベットとカタカナ名前が入り混じるの? それは知らんよ。著者さんの趣味だと思うよ。でも、Gを登場させ、読者をGにさせておきながら、消滅させたのは、次のKとQに感情移入して欲しかったんじゃないかな。いや違うな。Gの消滅で自意識を読者から棄てさせ、KとQの世界へ無意識のうちに分裂させたかったんじゃないかな。これも著者無視の勝手な解釈だけど。あのね、著者無視って言ったけど、本来、小説は発表された時点で書き手を離れ、読者が勝手に解釈するもの。だから、書き手や書評家の思惑に振り回されなくていいのよ。ボクなんか、この小説、荒唐無稽だけど、自分の妄想がどんどん膨らむことで楽しんだヨ。
 ただ、抑えていくべきなのは、Kの世界とQの世界は、路面電車がギリギリ擦れるような三角建物。そこから始まるけど、路面電車の運転手(最初は名前がないけど、ミリらしい。この小説、名前が曖昧だから、勝手に結びつけてもいいと思う)と仲良しになるK。
 三角の建物に住んでて、主に劇団の役者たちが住んでるんだけど、その一人Qは婚約相手がいて、相手が孕んだから(布切れを詰め込んであるらしい)結婚したんだけど、同じ仲間に誘われて、山の上の頭骨ラボで働くことに。
 頭骨ラボは結構人気らしく、いつもスゴイ人込み、そこで働くことになったQのための新人歓迎会みたいな盛り上がりが、「Ⅰ飛ぶ孔雀」みたいにあるけれど、それで終焉は迎えない。もう一人のKは重要人物。
 実は、途中で、KとQは同じ世界で生きていないというネタ晴らしがある。でも、行き来できるワンちゃんがいるみたいだよ。インチキエンディングに書かれてるよ。こういう、時々作者さんのネタ晴らしを見過ごすと、この荒唐無稽のエンターテイメントは楽しめない。
 あ、そうそう。気になる箇所がある。抜け駆け、もとい、抜き書きするね。
《あたしもそろそろ飽きてきたことだし、ここらでひとつ衣装替え、役の交代といきましょうか。信用ならない女予言者は本日これにてお役御免。そうと決まれば早速に、こうして脱いで、また脱いで。お召し換えならお手のもの、そこらに衣装がいくらでも。》
 リズムある劇のセリフでもあるし。
《「煙草屋で見たときより、あんた縮んでるよ」中略「サイズが変わってる。服、だぶだぶで余ってるし」
  これはお下がりだから。Bは抗弁したが、
 「だって、あれあんたの子どもだろ。いつも背負ってた赤ん坊」
 「違う、違う、おかあさんの」》
 ところで、Bって誰?
《勝手に話が進む様子を当の本人がどのように感じていたのか不明ながら、内心もっとも気にかけていたのはただ一点、犬の所在と無事であったことは確かなようだった。》
 ここの「当の本人」って作者さんじゃないの?
 ただ、ずつと味わっていれば、Qという人物を中心に動いている世界は、上へ。上へ、蠢いていく。それに対し、Kという人物は、下へ下へ、温水プールを下りていく。
 物語は「復路」が3つと真のエンディングで終わる。復路ならば、上に書いたように、往路なんだろうね。「復路」にこう書かれている。
《「奧山頂のさらに向こうへ進んでいった者たちは急進派と申しますのか、我々とはかなり方向性の異なる者たちでして。徹底した清掃こそが世界を正すー確かにそれが会の基本理念でありますものの、妙に律儀に文字通り解釈していると申しますのか。」》
 3つの「復路」ではKの世界とQの世界が入れ替わり登場する。接点ができるわけではないが。
 それそろ終わりにしたいが、「Ⅱ不燃性について」は、「Ⅰ飛ぶ孔雀」をなんの説明もしていない。
 真のエンディングの終わりは、姉妹の久しぶりの再会。それが「ミツ」と「セツ」とは言っていない。ただ、姉は女運転士と書かれ、妹は小娘と書かれ、「姐さんあたし、靴をなくしたの」で終わる。この終わり方は、ある意味、感動的だ。QやKも、出だしのGのごとく、フェイドアウトし、この二人でクローズアップして終わるのは、ボクらが日常、「こいつがヒーロー、広いんだと思って着目していたら、そうではなかった、ユデタマゴ以外に何を運んでたか知らないが、女運転士が再登場するのは目出度い、ボクは拍手喝采をした。しかも、妹の一言、「靴をなくしたの」には涙がそそられる。感情移入させない本小説なのに、いたく終わり方は気に入った。QやKで終わるよりもよろし。タエ登場で終わるのもあり家と思ったが。それは、作者さんが、読み手に対して、総スカン食らわしたい気持ち、これも痛く分かる。この小説が3つの賞のうち「第39回日本SF大賞受賞」「第46回泉鏡花文学賞受賞」は分かった。けど、「第69回芸術選奨文部科学大臣賞受賞」したのは分からない。文科省よ、ならば、この小説を、学校の教科書に載せろよ!
 これが感想の結論である。

 でね、解説を金井美恵子さんが書いてるんだけど、これも何を言ってるのかよく分からない。前に同じ泉鏡花文学賞を貰ってる人だけど、たぶん、この小説の何がいいか、分からないから、いろいろ紆余曲折で書いていると思う。この小説は、いいか悪いかじゃなく、楽しめるか楽しめないか、なんだ。そして、楽しめるにしても、ライトノベルズの類ではなく、敷居の高い幻想文学の類なのだ。ちなみに、幻想文学が何故に敷居が高いかというと、日常の世界にいる自分の心のままに読むと、幻想文学は、何言ってるのか分からない、あるいは、分かったら吐き気を催す、自分とは違う世界だ、そうなる。実は、図らずしも、この小説は、「Ⅰ飛ぶ孔雀」の前編で、「分からない人は去りなさい」、あるいは、「分からなくても楽しんでね、無理ならいつでもやめていいのよ」と言っている。こういう小説をいかに楽しむと言えば、日々の日常での楽しみ方じゃない面白さを見出すことでしょ。この本は、それに応える妄想小説だ。
 いかんせん、ある人の書評に対し「語り口は足穂以上に大人っぽく、とても若い女性の作品とは思えないほど堂々としており、皮肉なユーモアと観念性は安部公房にも近いものである」とあるのを読んで、なぜその先の石川淳までたどりつけないのかと苛立たされた、と書かれてるが、ボクは、書評で、他の作家さんを登場させて語るのは狡いと思う。何故って、読者は書評家さんよりも読書量は少ない。それをほかの作家を登場させて読書量でぎゃふんと言わせる、これ、読者に失礼である。
 しかも、この書評誰が言ったか知らないが、稲垣足穂の世界とは全然違う。ボクは、稲垣足穂の『一千一秒物語』にインスパイアされて書かれた倉多江美の『一万十秒物語』を愛読し、さらにそれにインスパイアされた志踳氏の『十万百秒物語』も知っている。この書評書かれた方はご存じなのだろうか。さらに、これこそ言いたいが、安部公房に全然近くない。ボクは思う。安部公房作品は、この作品と違って、決して荒唐無稽ではない。絶えず現代を裏返して、あるいは表層の殻をベリッと剥いて批評家精神旺盛な物語を紡いでいた。妄想は勿論膨大な脳みそにあったと思うが、妄想小説では決してない。それに対し、この小説の凄いのは、時代を批判するよりも、もっと妄想を世界化することに成功している作品だ。そうそう、むしろカフカの『城』に似ているかも。
 ただ小説とは、作家さんが発表した時点で作家さんの手を離れ、読者が自由に解釈していい、ものなら、ボクは、こう解釈する。
 火が燃えにくい、それは、酸素が少ないからだ。二酸化炭素が多いのだ。シビレ山かなんかの地殻変動。現実の気候変動。そこでライターにも火が付かない、イラつく人。いやいや、酸素不足でイラつく人かな。いらつきは、狂気の凶器を産み、狂喜の沙汰も金次第。はては、大茶会で暴走するタエは性転換しているが。続いてⅡでは、タエがどうなったかも描かれない(実は少しだけ作者が気にして出てくるけど、カエだったかタエだったかナエだったか、なんて)、そんな大きく二つの世界。
 おそらくⅠの世界からⅡの不燃の秋で思いついた作者さんが二つの世界を描き出した。それがⅡの「不燃性について」だ。
 Qの世界とKの世界。それは、どんどん石も建物も変形変質していく中、Kの世界は地下の温水プールでのミツ(市電運転手)との関係、そして、山を登るQたちの世界。ロープウェイやらケーブルカーやら。このパラレルワールドは、現代の進化と、そんな進化を追わない、真の実感の日常生活。これが、二つの世界でパラレルに描かれながら、最後には、何も起こらず、現実は非情で非常な世界であることを物語る、という解釈もできるのである。これは、作者さんは全く意図していないと思うが、先に言ったように自由に解釈すれば、出来るのだ。
 実は、他の見方もあるのだが、あれもこれも披露すると、それこそ、「荒唐無稽にもほどがある」感想になってしまうので、このへんでおしまいねえ。
 蛇足ですが、安部公房とは違うという点について、安部公房主要作品体系図を最後に載せておきますねえ。



 ということで、「I飛ぶ孔雀」だけ読むのもよし、「Ⅱ不燃性について」の「(偽)燈火」まででやめてもよし。でも、このファンタジーを思う存分味わうのなら、最後まで読みたいものである。せっかく姉妹が再会するんだし。タエはどうなったあ。
 なんか、この小説の続きを創りたくなったよ。題名は『燃えつきたチーズ』。森林火災が山で生じ、それが町まで燃え広がり、いつまでも消えない。とうとう、ⅠとⅡで登場した人たちは丸焼けになる。ところが、その中で一人、立ち上がり、「わたしタエ」「ぼくはタエ」、タエが両性具有となって甦る。そして、みんな丸焼けの中に犬を見つける。「チーズ、おまえもか」。丸焼けになった名犬チーズを、タエは貪り食う。彼女は名犬チーズを貪り食いながら、あることを誓う。この物語を紡いだ作者も丸焼きにして貪り食ってやることを。そんな話。お粗末様。
 
山尾悠子『飛ぶ孔雀』 posted by (C)shisyun


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