ベーム指揮ウィーン・フィル ブルックナー 交響曲第3番ニ短調(ノヴァーク版)(1970.9録音)

今ではトンと聴かなくなったかつての愛聴盤。
久しぶりに耳にして、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルの(どの楽章においても)引き締まった美音に納得した。

四半世紀前、ザンクト・フローリアンを訪れた。8月の暑い日のことだった。リンツからバスに揺られて数時間、彼の地に足を踏み入れたとき、僕は思わず感激し、空を見上げて感謝した。

ブルックナーが、こうした建物や部屋を「音楽化する」とか、それらを音楽の中で表現するといった意図を持っていた、などと考えるのはばかげているかもしれない。いやそうではない。ブルックナーという天才の精神的活力があまりに圧倒的なまでに大きな寸法に慣れていたために、「広々と」とも言ってよいほど「ゆったりと」作曲するほかはなかったのである。ザンクト・フローリアン修道院はその源泉であり、その温床であった。この修道院は、そこでブルックナーが育ち、またそこから、彼自身がそうした「気質」であり、そうしたことを得意としていたために、このような音楽を書くことができるし、またそうせずにはおられないと悟った世界であった。
ブルックナーの音楽の「根源」は、教会の空間と、その空間に対応しやすい彼の気質、つまりいわゆる「敬虔性」の中に存する。

レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P74-75

レオポルト・ノヴァークの分析は正当だ。
修道院が大宇宙とするなら、そこに彼の霊性・神性たる小宇宙が同期し、自ずと創造されたのがフラクタルたる交響曲群だったのである。
ブルックナーの交響曲はその最初のものから異質であり、他を冠絶した逸品であったが、番号を重ねるごとにその音楽は形式的にも精神的にも巨大なものに変貌していった。
中でも、リヒャルト・ワーグナーに捧げんとしたニ短調の交響曲は、特にその初稿におけるワーグナーの引用を軸とした前衛性という事実において他に類を見ない傑作となっている。しかし、大衆に拒否されたそれは、しばらく闇に葬られ、内心落胆したブルックナーは改訂を重ね、(前衛性は後退しているものの)冒頭に挙げた「引き締まった」様相で、僕たちの前に現出し、そして歓喜なる感動を与える代物として世界に聳えている。

・ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(ノヴァーク版)
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1970.9録音)

おそらく演奏するのにとても難しい作品なのだろうと思う(朝比奈御大もそのようなことをおっしゃっていたように記憶する)。録音から半世紀以上経過するベーム盤の素晴らしさは、そのオーソドックスな表現にあるのだと思う。
今となっては優秀な演奏は他にも多々あり、今さらという感も否めないが、それでもかつて繰り返し聴いた感動は忘れない。コンパクトな表現、そして当時のウィーン・フィルの美音。おそらくベームは何もしていない。まさにウィーン・フィルが自発的に成し遂げたであろう渾身の演奏がここにはある。

何より第2楽章アダージョの永遠。ここには自然を愛するであろうカール・ベームの命が懸かっている。


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