ちょいと思い立って山梨へ、県立博物館と県立美術館のそれぞれ企画展・特別展を見てこようと思いまして出かけたような次第でありますよ。まずは、中央本線石和温泉駅からバスで数分の山梨県立博物館に行ったのですが、甲府駅始発で博物館を通るバスは何とまあ、河口湖経由富士山駅(富士急行線のかつての富士吉田駅)行きだものですから、わんさかと乗客が乗り込んでおり…。そのうちには相当数の外国人観光客であったとは、昨今よく耳にするインバウンドをまざまざと、ですなあ。

 

ともあれ、博物館で下車したのはほんの3~4人でしたので、博物館がわさわさして「うむむ…」てな事態は憂慮するまでもなく、のんびりつ見て回ることができました。と、開催中の企画展は『物流と文化の大動脈 富士川水運の300年』というものです。

 

 

山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに「日本三大急流」に数えられた…ということだけ知っている富士川ですが、これまで(甲府と静岡県富士市を結ぶ)JR身延線の沿線にはおよそ縁が無かったもので、富士川自体、その流れを見たことは無いような。それでも、急流と言われた川で大動脈となる水運が行われていたとは、ちと興味のそそられるところがあり、出向いた次第なのでして。

 

展示をつぶさに見ていきますと、思いがけずもこんな人あんな人、さまざまにその名に聞き覚えのある人物たちが富士川水運に関わっていたことが分かり、極めて個人的満足度の高い内容であったなあと。ともあれ、山に囲まれた甲斐国にあっては、多くの物資を運ぶ際に川の流れ、すなわち舟運を使うとは誰でも考えるところですけれど、何せ急流と言われて難所も多い富士川でもって高瀬舟による通船が可能なように開削工事を命じた人物、これは徳川家康であったということですなあ。

 

関ケ原の勝利の後、晴れて?甲斐国の手中に収めた家康は江戸に幕府を開いて、やがて駿府に住まうようになるわけですが、甲斐国と江戸、あるいは駿府との物流はひとえに富士川頼みだったと考えれば当然といえば当然で。年貢米を運ぶことだけとっても、安定した通船は欠かせなかったのでしょう。

 

でもって、家康がこの富士川開削という大きな土木工事を請け負わせたのは、角倉了以であったというのですなあ。息子の角倉素庵ともども豪商であり、当代の文化人としても知られたこの人は、土木工事の技に秀でた職人集団を束ねた事業家でもあったとは。本展展示室には、京都の寺に伝わる角倉了以像が2体置かれてありますが、いずれの像も同じポーズで手には土木工事に関わる犂を携えていて、了以自身が像を作る場合はこの姿でと望んだとなれば、もしかすると了以にとっては土木事業が本職であると考えていたのかもですねえ。

 

そんな了以が工事を手がけ、実際に通船可能となったかどうか、気に掛けていた人物が大久保長安であるようで。幕府最初期に江戸城下の普請に関わり、後には各地の金銀山経営に奉行として辣腕をふるった(それだけに私腹を肥やしたとも妬みをかったともされて失脚しますが…)長安は富士川水運にも関わって、開削状況の検分と結果として船頭の手配を命じるといった手紙(の写し)が残されて、展示されておりましたよ。

 

ということで、急流制して舟運による組織だった物流が始まるのですが、最も大事な荷物は年貢米の輸送であったと。一般に、何々藩と言われる大名支配の各地では在地の領主の下へ年貢米を納めることになっていたところが、甲斐国の場合はちと様子が異なったわけで。徳川忠長(二代将軍秀忠の息子で、家光の弟)が甲府藩主となるも駿府に住まったままでしたので、上納する米は駿府に送らなくてはならない。その忠長が不行跡を責められて改易されて後、甲斐国は長く天領になりますし、時に藩主ができたとしてもほとんど甲府城に入ることはなかったそうですので、相変わらず年貢米は江戸その他に廻送されることになりますから、富士川頼みの構図は全く変わらないわけです。

 

ところで、富士川を伝っていく下り船は公用としての年貢米廻送にもっぱら使われましたけれど、上り船も決して空荷で帰ってくるわけではありませんですね。山国・甲斐に必須の塩はもとより、なかなか手に入りにくい品々を満載して、扱う問屋(商人)は大儲けしたそうな。下り船の荷が集まる河岸が設けられた鰍沢などは甲府を凌ぐ賑わいを見せていたとも言われますし。鰍沢と聞けば、葛飾北斎『富嶽三十六景』の一枚、「甲州石斑澤」が思い浮かんで、荒海とも見まごうような、激しく並みだった川面が富士川の急流ぶりを想像させたりもするところながら、町の賑わいとは全く結びつかない。それだけに、甲府を凌ぐほどの賑わい、権勢を誇ったとは俄かにイメージしにくかったりもしたものです。

 

ちなみに、急流の利を生かして?下り船は4時間ほどで駿河国側の河岸に到達するも、上りの方は「船頭たちの手によって4、5日がかりで曳きあげられてい」たそうですので、船頭さんたちは大変な重労働でしたろう。しかも、空船でなしに「塩や干魚など内陸地域では手に入らない物資が満載」されていたとあっては、なんと過酷な話ではありませんか。手掛けた商人にはうはうはですのにねえ。運び込まれた荷は、甲斐国のみならず、その先陸路を伝って信濃国、諏訪や松本の方へも売り捌かれていったようで。

 

とまあ、そんな大動脈・富士川の舟運は江戸期を通じて賑わいますが、実は明治になって最盛期を迎えるのだとか。何ごとにつけ、幕府の統制がなくなって自由な物流ができるようになったことがポイントらしいのですが、そんな矢先に登場するのが鉄道ですな。されど、東海道線が通ったあたりでは、むしろ富士川を下って東海道線に乗り継いで東京へ向かうというのが、山国からの最短ルートとなって旅客需要が大いに増えたのであるとか。あたかも鉄道との共存共栄にひとときであったわけですが、結局のところ富士川舟運に引導を私のもやはり鉄道であったのですよね。中央本線が甲府と東京を結ぶと、物流も旅客も持って行かれてしまう。さらに富士見延鉄道(現在のJR身延線)が富士川沿いに海と内陸とを結ぶに及んで、もはやこれまで…ということに。昭和3年(1928年)のことだそうです。

 

物流の用に供していたうちは、通船の便宜のために長い期間に何度も河川改修が行われた富士川ですけれど、物流が鉄道に渡ると、川の改修は急流たる暴れ川をなだめる治水の方向で行われていったようですね。結果として、日本三大急流に数えられたという富士川に今、かつての面影は無いくらいに水量も減っているのであるとか。そうはいっても、そのうちに機会を見つけて身延線沿いというか、富士川沿いにあちらこちらの探訪に赴かねばならんなあ…などと考えた次第なのでありましたよ。