日本百名城の旅

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日本百名城の旅
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日本の城郭と戦国武将が大好きです! バイクで日本一周を達成しましたので、今度は100名城登城にチャレンジです。
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  • 歴史 (100%) - 6 / 427人中
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※最新の記事

  • 養老渓谷の紅葉 2017
    『千葉養老渓谷・粟又の滝』紅葉が日本で一番遅いと言われる、千葉養老渓谷に入ってきました。昨年は11月末に行きましたが、少し早かったようですので、今年は1週間遅く12月11日 09時58分
  • 『女城主・井伊直虎』 その47
    『直虎訃報の知らせ』直虎が没したときに、万千代は甲斐にあって北条氏直の軍と対峙していた。信長が本能寺の変で倒れる3ヵ月前の天正10年(1582)3月11日、信長12月10日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その27
    『天下分け目の戦い』家康方と三成方は関ケ原で激突、天下分け目の合戦となり、家康方の完勝に終わって戦後処理が始まり、家康は忠興を機嫌よく迎えていった。関ケ原激戦の12月09日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その26
    『針のムシロの忠隆』ガラシャの自害は、たちまちのうちに西上している諸将に知れ渡り、ややもするとくじける諸将の気持ちを奮い立たせた。越中殿の御内室は自害された。わ12月07日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その26
    『ガラシャの悲報』「いまひとつは、御屋敷についてでございます。7月17日のこと。治部少の手の者が御簾中様(ガラシャ)を人質とし御簾中様(ガラシャ)を人質として御12月06日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その25
    『意味のない田辺城攻め』さらに、三成は“忠興憎し”の思いはつのる。どうしてくれようと歯ぎしりしながら思案しての結論はこうだった。忠興の田辺城(田辺城登城記は「こち12月05日 06時00分
  • 『女城主・井伊直虎』 その46
    『直虎没する』天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において織田信長が明智光秀の謀反にあって死んだ。この直前、安土城に招かれて信長の歓待を受けた家康は、凶12月03日 11時26分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その24
    『歴史のターニングポイント小山評定』世に名高い『小山評定』というのがあります。家康は野州小山に諸将を招いて評定を開き、『三成討伐』と総意をまとめ、上杉へ押さえと12月02日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その23
    『忠興、光千代(三男)との再会』ガラシャが自害した日、それは三成が家康に宣戦布告した日でもあったが、その日から4日が経った7月21日に、家康は江戸を発った。徳川12月01日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その22
    『ガラシャ自刃』三成は家康に宣戦布告した後、家来にいった。「今日は有無をいわさず、越中の奥を連れてこい」やがて暮れにさしかかろうとする時間に、家来は指示に従い、11月30日 11時05分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その21
    『千代の葛藤』ガラシャは同席している嫡男・忠隆の妻・千世に声をかける。「そなたはどうなされる?」毛利輝元(1553−1625年)死にたくはない。なにゆえ、こんな11月29日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その20
    『丹波に落ちないガラシャ』16日になると正式に三成の使者が来ていう。「与一郎(忠隆)殿の御内室(千世)ともども、御内室(ガラシャ)に御登城いただきたい」元足利幕11月27日 06時00分
  • 『女城主・井伊直虎』 その45
    『万千代寵愛の原点』築山殿の母方の祖父は井伊直平です。その縁によって万千代は出世したと見るのが自然なのでしょう。そして死んだ信康の存在も大きかった。徳川信康(111月26日 06時00分
  • 東京湾に沈む夕日
    『11月21日の夕日』夕方に時間が取れたので、東京湾の夕日を撮りに行ってきました。夕日に向かって走り、左手をサンバイザーにしながら袖ケ浦海浜公園に到着。しかし、11月25日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その19
    『ガラシャ大坂城入りを拒否』宇都宮から2里ほど北の在所にいた忠興・忠隆らが小笠原秀清からの手紙を受け取ったとき、ガラシャはすでに自害していた。宇喜多秀家(15711月23日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その18
    『三成の大坂入り』四日後の7月20日、大坂の留守を預けている老臣・小笠原秀清から、9日付けの書状が届いた。石田三成が蜂起して大坂に入るという風聞を伝えて、秀清は11月22日 06時00分
  • スマートいじり その6
    『スマートくんも冬支度』北国では大雪のニュースを報じていますが、わが家のスマートくんは冬支度がありませんでしたので、『冬のクツ』を準備しました。スマートくんのタ11月21日 06時00分
  • 『女城主・井伊直虎』 その44
    『築山殿の内通』築山殿は、夫・家康が義元を殺して今川氏が滅びるものとなった信長と手を握ったことが許せなかった。しかも、わが子・信康の嫁に信長の娘・徳姫を迎えたこ11月19日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その17
    『宇都宮に集結』この後、どう転んでも天下は徳川のものになる。だったら何事も家康の意のままに動き、家康に柔順であらねばならない。と思うと、あまりにも気を使わなさ過11月17日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その16
    『忠興と忠隆』忠隆と忠興は合流し、込み合う東海道をさけて中山道をとることにし、翌日は美江寺に泊まり、さらにその翌日は木曽川を渡って御嶽に泊まった。細川忠興(1511月16日 06時00分
  • ちくら潮風王国
    『道の駅でらびラン』宿泊したホテルにはドッグランはあるも、tiggerは利用できませんでしたので、広い芝生広場がある「道の駅 ちくら潮風王国」で、朝一番にらびランしま11月15日 06時00分
  • 南房総プチ旅行
    『太平洋を満喫』日々の喧騒から離れて向かった南房総プチ旅行の目的地は、南房総白浜でした。この地は冬でも暖かく、1月の下旬から露地栽培の花が出荷される地です。南国11月14日 06時00分
  • 房総紅葉の名所「小松寺」
    『房総の紅葉は12月』房総の紅葉は全国一遅い、12月の初旬だといいます。南房総紅葉の名所といわれる「小松寺」に立ち寄ってみました。お寺の入り口には観光バスも止ま11月13日 06時00分
  • 『女城主・井伊直虎』 その43
    『母・祐椿尼の逝去』すでに井伊家の中心は間違いなく万千代になっていたが、彼は元服をかたくなに拒んだ。なぜなら元服すれば、井伊家の家督を継ぐことになるからです。そ11月12日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その15
    『お人好しの千世姫の夫・忠隆』領国の丹後宮津に帰って出陣の支度を整えた細川忠興は、3千の将兵を二陣に分け、忠隆を第一陣の将として先発させた。慶長5年6月23日の11月11日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その14
    『鬼の女房には蛇のような女』ガラシャも気性が激しかったといいますが、夫の忠興も気性が激しく、あるとき台所で働いている男のふつつかさを咎めて一刀のもとに斬り捨て、11月09日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その13
    『気性が激しかったガラシャ』「ですから、治部少輔殿は大坂に戻られると真っ先に、憎っくき細川の奴原(やつら)と、われらを大坂城に連れ込むだろうとも噂されております11月08日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その12
    『軍門に下った利家の影響』五大老のひとり上杉景勝は会津に戻ると、領国経営に専念して、城などの改修復もはじめた。家康は景勝に上洛をうながし、かつ誓紙の提出を求めた11月07日 06時00分
  • 『女城主・井伊直虎』 その42
    『戦場の家康の隣には若衆姿の女がいた』直虎の若衆姿、また軍装を見て、家康は側室を戦場に伴うようになったのでは?家康には多くの側室がいたが、とくにお気に入りは阿茶11月05日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その11
    『家康のアメとムチ』家康はタヌキといわれる。抜け目がない。細川忠興に「誓紙をだせ」、「人質を寄越せ」、「前田家と縁者振りを断て」と厳しい条件を突きつける一方で、11月04日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その10
    『千世の葛藤』父・忠興が和解に奔走しなければ、家康と四大老五奉行は対立したままで、利家の死を迎えたはず。すると、四大老五奉行は結束せざるを得ない。いかに家康に力11月03日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その9
    『窮地の前田・細川両家』加賀に攻め下ると脅しをかけられて、利勝はおろたえた。老臣・横山長知を大坂に送って弁明させた。前田利長(利勝)(1562−1614年)家康11月02日 06時00分
  • 家康の過酷な命を受けた千世姫 その8
    『加賀攻めをほのめかす家康』三成や三成の与党に言わせると、家康と和解した利家や嫡男の利勝は裏切り者ということになる。増田長盛(1545−1615年)与党のひとり11月01日 06時00分