黒田裕樹の歴史講座

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793403
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黒田裕樹の歴史講座
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http://rocky96.blog10.fc2.com/
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現役高校教師による歴史ブログです。 本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―
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※最新の記事

  • 第61回「黒田裕樹の歴史講座」(東京&大阪講演)のお知らせ
    いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第61回)は「日本外交史 その弐」と題し、遣唐使から元寇に至るまでの、我が国の外交面における様々な歴史を振り返りま…06月29日 17時24分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その8
    お蔭様をもちまして、「黒田裕樹の歴史講座」も今回で第60回目を数えますが、これまでの講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけとは限らない、ということです。物事には「プラスとマイナス」があり、また「光と影」があ…06月29日 12時00分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その7
    また、今回の改定案の発表後に、現場でご活動なされた政治家の皆様も少なくなかったとお聞きしておりますが、そのうちの一人である参議院の山田宏(やまだひろし)議員(自民党)は、今回の「聖徳太子の呼称(こしょう)の復活」を喜ばれる一方で、SNSなど…06月28日 12時00分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その5
    今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われ、「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校…06月26日 12時00分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その4
    藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では、「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(…06月25日 12時00分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その3
    拓殖大学客員教授である藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について、「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか、「…06月24日 12時00分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その2
    これまで紹介したように、6世紀末から7世紀前半にかけての政治家であり、推古天皇の皇太子でもあった聖徳太子は、現代の我が国を形づくった英雄として、1300年以上ものあいだ、長く日本国民に慕(した)われてきました。ところが、新たに公表された次期…06月23日 12時00分
  • 「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 その1
    さて、遣隋使以後の我が国は、大陸文化の吸収のために朝貢はしても、冊封(さくほう)されない国、という立場をとりました。これを「不臣(ふしん)の朝貢国」といいます。これは、チャイナの冊封体制からの脱却を意味しており、聖徳太子の功績の大きさをうか…06月22日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その10
    聖徳太子が遣隋使で見せた気概は、隋の我が国に対する態度を明らかに変えました。そこには、国内において「和の尊重」や「話し合いの重視」という柔軟な姿勢を示しながらも、外国に向けては毅然(きぜん)とした態度で一歩も引かず、命がけで取り組むという厳…06月21日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その9
    この国書が意味することは非常に重要です。つまり、終始ぶれることなく対等外交を進めた聖徳太子のように、国の支配者が相手国に対して、主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負する隋であっても、まともに応じてくれることを…06月20日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その8
    さて、煬帝からの返書とは別に、斐世清が我が国からの歓待を受けた際に送ったとされる国書が日本書紀に記されていますが、その内容は、従来のチャイナの諸外国に対する態度とは全く異なるものでした。斐世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あい…06月19日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その7
    2回目の遣隋使を送る以前から、聖徳太子は朝鮮半島をめぐる動きや隋の現状などを徹底的に調査したことで、東アジアの正確な国際情勢をつかんでいました。その結果、隋が我が国を攻める可能性がゼロに等しいことを見越したうえで、対等外交を一方的に宣言した…06月18日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その6
    当時の隋は、高句麗との戦いによる出費で国力が低下していたのみならず、煬帝の圧政による政情不安もあり、国内が決して安定した状態ではなかったのです。さらに、我が国が島国であることから、攻めようとすれば無数の大きな船が必要になるなど、多額の出費が…06月17日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その5
    東アジアの超大国である隋に対して、これまでのように服属するのではなく、対等な立場での関係を希望するという「重大な決意」を聖徳太子は見せつけたわけですが、これは、我が国にとって命取りにもなりかねない、非常に危険な賭けにも思えました。我が国が隋…06月16日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その3
    この頃、隋の皇帝は二代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝が宮殿に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険しくなり、ついには顔を真っ赤にし…06月14日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その2
    聖徳太子といえば、我が国で初の女性天皇であるとともに自身の伯母でもある推古(すいこ)天皇の摂政として、我が国最初の成文法である「憲法十七条」を成立させたことでも有名ですね。604年につくられた憲法十七条は、現代に生きる私たちにもつながる「和…06月13日 12時00分
  • 聖徳太子がもたらした「対等外交」 その1
    「倭の五王」から時が流れた6世紀末に、東アジアにおいて大きな変動が起きました。北朝からおこった隋(ずい)が、589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗(こうくり)や百済(くだら)・新…06月12日 12時00分
  • 「邪馬台国」と「倭の五王」の外交について その6
    倭の五王のひとりである「武」と思われる雄略天皇の時代には、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)や埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土(しゅつど)し…06月11日 12時00分
  • 「邪馬台国」と「倭の五王」の外交について その4
    三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には、豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。それを知った大和朝廷は、4世紀後半には百済との友好関係を足がかりに、まだ統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。一方、北方の高…06月09日 12時00分
  • 「邪馬台国」と「倭の五王」の外交について その2
    卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、その後に男の王が立つと、国内は乱れました。そこで、卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ、別名として台与=とよ)を新しい王として立てると、争いはようやく治まった…06月07日 12時00分
  • 「邪馬台国」と「倭の五王」の外交について その1
    「三国志(さんごくし)」の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続き、邪馬台国の女王として「卑弥呼(ひみこ)」が諸国の同意によって立つと、ようやく争乱は治まり、30国ほどを従えた邪馬台国を中心とする連合…06月06日 12時00分
  • 「小国」が始めたチャイナとの外交 その5
    前漢のあとを継いだ後漢の歴史を記した「後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」には、紀元57年に倭の奴国(なこく)王が、後漢の首都である洛陽(らくよう)に使者を遣(つか)わして、当時の光武帝(こうぶてい)から印綬(いんじゅ)を授かったことが、…06月05日 12時00分
  • 「小国」が始めたチャイナとの外交 その3
    環濠集落は、いわゆる「弥生時代」の大きな特徴の一つですが、この他にも、瀬戸内海沿岸や大阪湾岸にかけての平野部や、海を広く展望できる丘陵(きゅうりょう)には、見張りや砦(とりで)などの機能を持つ高地性集落が見られます。このような環濠集落や高地…06月03日 12時00分
  • 「小国」が始めたチャイナとの外交 その2
    第56回歴史講座「日本文明の誕生」でも紹介したように、我が国は今から約16500年前という世界最古クラスの土器を持っており、また稲作も、焼畑(やきはた)耕作あるいは陸稲(おかぼ)によるイネの栽培は6000年前から、水田耕作が行われたのは今か…06月02日 12時00分
  • 「小国」が始めたチャイナとの外交 その1
    平成29(2017)年2月に行われた、安倍晋三(あべしんぞう)首相とアメリカのトランプ大統領との首脳会談をはじめとして、我が国では日常的に活発な外交が繰(く)り広げられています。周りを海で囲まれた我が国では、早い時期から他国との積極的な外交…06月01日 12時00分
  • 第60回「黒田裕樹の歴史講座」大阪講演の報告
    5月27日に行いました第60回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その壱」(大阪講演)には、41名の皆様がご参加くださり、盛況となりました。我が国の古代の外交史を学べば学ぶほど、聖徳太子の偉大さが理解できるとともに、その聖徳太子を「抹殺する計画…05月29日 12時01分
  • 歴史講座60回を迎えて その16
    「歴史修正主義」の意味ですが、実はもう一つあります。それは以下のとおりです。「改訂と称して歴史を歪曲(わいきょく)すること。批判的文脈で使われた場合は、通例この意味」。ひょっとしたら、例のHPは、こちらの意味で私を非難しようとしたのかもしれ…05月28日 12時00分
  • 第60回「黒田裕樹の歴史講座」東京講演の報告と大阪講演のお知らせ
    5月14日に行いました第60回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その壱」(東京講演)は、直前のキャンセルなどの影響もあったのか、8名の参加者を集めることとなりました。人数的には決して多いとは言えないものの、初めての参加者の方もいらっしゃいまし…05月15日 22時15分
  • 歴史講座60回を迎えて その3
    第59回「東條英機」は、5つの章に分かれていますが、そのうちの2番目の「日米開戦を導いた『アメリカの思惑』」に関しては、東條氏の名前は最後の文章に一回出てくるだけで、それ以外はすべて「当時の我が国とアメリカをめぐる歴史」に終始しました。今ま…05月15日 12時00分
  • 第60回「黒田裕樹の歴史講座」(東京&大阪講演)のお知らせ
    いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。我が国では日常的に活発な外交が繰り広げられていますが、当講座では、今回から数回に分けて、我が国の外交面における様々な歴史を振り返ることにしました。第一回目となる次回(第60回…05月05日 23時02分
  • 東條英機元首相の遺書 その2
    しかし、関係者の努力によって、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収することが可能となり、静岡県熱海市の興亜観音(こうあかんのん)に運ばれ隠された後、昭和35(1960)年に愛知県の三ヶ根山(さんがねさん)の殉国七士廟(じ…05月04日 12時00分
  • 東條英機元首相の遺書 その1
    終戦直後の昭和20(1945)年9月11日、GHQから「戦争を始めた国家指導者」という意味でのA級戦犯として逮捕指令を受けた東條は、拳銃自殺を図りましたが、急所を外れたために未遂に終わりました。その後、戦争犯罪人として東京裁判にかけられた東…05月03日 12時00分
  • 無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」発行のお知らせ(4月13日創刊・毎…
    いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。私は今春より、新たに大阪府内の公立高校で非常勤講師(社会科)を務めることになりましたが、これを機会に、これまで蓄積してきたブログにおける通史の内容を、「まぐまぐ!」様のシステ…05月01日 12時01分
  • 「百万人の歴史講座」開始のお知らせ(10,000円で永久会員です)
    (注:この記事は当分のあいだTOPに掲載します)※以下のサービスに関して、最新の講演「日本文明の誕生」のレジュメを、サンプルとして無料で配布しております。詳しくはこちらをご覧ください。いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うご…05月01日 12時01分
  • 大東亜戦争は「無謀な戦争」だったのか その8
    ところで、大東亜戦争において我が国が劣勢に転じつつあった昭和18(1943)年、ビルマ(現在のミャンマー)やフィリピンが日本軍の支持のもとで独立を宣言し、インドでは自由インド仮政府が樹立されるなど、それまでの欧米列強による植民地支配から脱し…05月01日 12時00分