何らかの現象があるならば必ずそれ相応の原因があります。
逆に言えば「相応の結果の無い原因なんて何処にもない」ということです。
それがここでいうところの『因果応報』です。
なので、因果応報というものはこの世の全てに遍くあります。
ただ、一人の人間の時空間中にスッポリ収まるとは限りません。
また一人の人間の時空間の中に収まっても、切り取られた特定の時間の中にだけ分かりやすく収まるとは限らないのです。
時に個人の認識できる時空間のスケールを遥かに超えて、原因に対する結果はやって来ます。
それを私は『因果のツケ』と呼んできました。
『因果のツケ』が何故起こるかというと因果応報が時間と空間と次元のすべてを跨いで起こるものだからです。
当然一人の人間の認識に見合ったサイズでだけで因果応報が起こるわけではありません。
人間万事塞翁が馬って故事があります。
幸は不幸となり、不幸はまた幸となり変転止まるところを知らないって諺です。
その変転が結局どういう結末を迎えるか最初から分かる人間など何処にも誰もいないのです。
『因果のツケ』がいつ如何なるカタチで完結するかを知る者は、人間の世界には一人もいないということです。
なのに、多くの人が『単純明快な答え』を遮二無二求めようとしがちです。
それは、唯物論的な思考の結果ではないかと考えます。
唯物論的な思考をすればするほどベースになる考え方が近視眼的になります。
人の命は長くてだった80年、他の物の寿命も地球サイズでみれば刹那の如しです。
だから、性急に単純明快な答えを求めるのでしょう。
心にあるモノサシのサイズか元々短いのですから、否応なくそうなります。
ただ、世の中白黒ハッキリした所謂『正解』が何時も何処かに用意されているなんてことはないのです。
大体はボンヤリとした曖昧さの中を手さぐり足さぐりしながら一歩一歩進んでいくしかないわけです。
なので、『ハッキリくっきり』した答えを求めすぎるといつも世界を『ハッキリくっきり』見たがるようになっていきます。
そうなると答えが『ハッキリくっきり』しなければ、間違っているような気分になるのです。
ただ、その何でも『ハッキリくっきり』させるって行為は、コンビニ弁当ような濃い味の食べ物に唐辛子を山ほどかけて毎日食べ続けるみたいなモノです。
遅かれ早かれ感覚がおかしくなります。
味覚でいえばバカ舌になるってことです。
それに、何でもハッキリくっきりさせていると変な万能感に囚われてしまいかねません。
『ハッキリくっきり』ばかりに囚われると自分の考えに固執し、絶対正しいと凝り固まってしまうので、曖昧模糊とした不条理な現実が受け入れられなくなるからです。
そういう傾向の人々が最近は随分増えているような気がします。
心がバカ舌にならないように気をつけた方がいいでしょう。