先日の記事を読み直してみまして
確かに人はそれほど自分の事を見ていない。
でもそれを「悪い意味」にとらえることはないのだと思います。
気にかけてくれる人や、応援してくれる人は
案外そばにいて、分かり辛いのかも知れないけれど
きっと「そばにある」という一面を
いつかは自身の感覚として持てるようになるといいなと感じます。
忠太の事では親同士の揉め事に巻き込まれ
スタッフさんを励まし支え
結構骨が折れましたが^^;
決して彼をキライではないし
むしろ好きなのかも知れません。
その生き方下手には
どうしようもなさという強い自然の魅力があり
どうしてそんなにも・・っと毎回思ってしまうほど
原始的な輝きも感じるのです。
何も身につけていない、丸裸な感じ。
気づけばそんな姿勢に惹き付けられてはいるのです。
子どもの写真や子どもが好きだという人が多いには
そんな理由もあるのかもしれません。
出来上がっていない魅力を彼らがまんさいに持っているからです。
近寄りすぎるとしんどい思いはしますが
それでも彼は懸命に生きているのだと
つい応援したくなってしまいます。
彼が運動会で走る間もずっと
「忠太頑張れー諦めるな」っと
心の中で祈っておりました。
単なる近所のおばさんでも
そんな風に眺めている人が居るのだという事を
忠太は気づかず大きくなっていくのでしょうが
それでも私はできうる限り彼を守りたいし・・
わが子も含め、みんなが過ごす放課後の環境を
ずっと静かに見守りたいとは思ってはいるのです。
言うほど人は見ていないやっ・・・っとふてぶてしくなるのではなく
そこは是非、良い意味にとらえて
自分都合でもいい、そうそう人は自分の事を責めてきたりはしない、悪いところばかりのチェックをしている訳でもない。みんなそれぞれの人生を生きるのに一生懸命なだけなんだよ。ただ自分ひとりが評価される側の舞台に立たされているわけではないよ・・。
というようにとらえられたらな・・と思う訳なのです。
しかしキャッチの能力が低い忠太は
そのような目に見えない多くの善意は
ずっととらえられずにあがくのかも知れません
自分の事など誰も分かってくれないと
中学生頃には思う可能性もありますし
このこじれ加減は思春期から青年期にかけて
更なる波紋を呼び起こす可能性も高い。
私自身も30代後半くらいまでは
かなり尖った精神性だったように思います。
自意識過剰も酷かったはずです。
今思えば気にしないでもいいようなことも気にしたし
行き過ぎてどつぼにハマルことも多々
それは選べず先天的に持っていた神経質さもありましょうが
後天的に磨いていってしまったところもあります。
神経の細かい子の親もこれまた神経がとても細かいことは結構あり、そういう研磨で研ぎ澄まされていってしまうのです。良い意味でも悪い意味でも・・・。そして神経の細かい人は神経の細かい友人や恋人、パートナーを選びがちでもあり、必要以上に傷つけあう
不安や緊張は強くなり
こじれた表現も出やすくなる
だからこの手の子どもに「安心」という土壌が
ものすごく大事なのはよく分かります。
そして出来れば自己表現できる何かがあると
ぐっと落ち着くのかなとも思いました。
周囲の人に常に見張られていると思うと
すごく緊張もするでしょうが
見守られていると思い込むことで、
健やかな形で生きられるよな・・っという独り言でした。