Wednesday, May 8, 2024

シアトルの春 ベールの彼方の生活(三) 過ぎにし昔も来る世々も

life beyond the veil



一九一七年十一月十三日 火曜日

 以上、父なる神の愛の流れ、天界の水とその効用、そして音楽について述べました。そこで今夜は最高界で定められた厳令を下層界へ向けて行使することを責務とする神霊によって目論まれた、ある特殊な目的の為のエネルギーの調節について少しばかり言及してみたいと思います。

こう言えば、地上という最前線にて生活する貴殿(*)には、地上に割当てられる責務が遥か天界の上層界の神霊によって、その程度と目的を考慮して定められていることがお判りであろう。役割分担によるそうした計画が下層界へ向けて末は地上に到るまで伝達されます。

その感識の仕方は各自異なる。感識の度合いも異なる。ある者は鮮明に、ある者は不明瞭に感識する。それだけ用心の度合いが劣るということです。

しかし地上生活という生存競争の渦中にいる者には、もし自ら求めて人生とは何か、自分はいかなる目的に向けて導かれているかについての確証を得たいと望むのであれば、人生の秘密の巻物を読むことが許されます。

(*そろそろリーダーと名告る高級霊、実は第一巻でアーノルの名で紹介された霊が強く表に出はじめ、文体が古めかしさを帯び始める。──訳者)

 とは言え、遠き未来まで見通すこと、あるいは垣間見ることを許される者は極めて少数に限られます。イエスがかつて述べた如く〝今日一日にて足れり〟(*)が原則なのであり、人間の信頼心が堅固にして冷静でありさえすれば、確かにそれで足りよう。

未来が絶対に知り得ないものだからではない。知り得るのであるが、人生の大目的を知り得るのは余程高度の能力と地位の者に限られているからに過ぎない。

吾々の能力も僅かに先のことを知り得る程度のものであり、平均的人間の能力に至っては一寸先も見えないであろう。

先ほど述べた神の大計画も、数多くの界層を通過して来るからには当然、各界の色合いを加味され、いよいよ地上に至った時はあまりの複雑さのために究極の目的が曖昧模糊として見分け難く、吾々のように地上に関わってある程度のコツを身に付けた者にとっても、往々にして困難なことがある。そこに実は信仰の目的と効用があります。

すなわち自分の義務は自覚できても、それ以上のことは判らない。そこで計画を立てた高級界の神霊にはその目的が瞭然と見えているに相違ないとの確信のもとに勇気を持って邁進するのです。

その計画遂行の手となり足となるべき者が信念に燃え精励を厭わなければ、計画を立てた者にとっては目的成就の為の力を得たことになる。が、もし信念を欠き精励を怠れば、成就は覚束(おぼつか)ないことになる。

なぜなら全ての人間に選択の自由があり、その問題に関するかぎりいかなる者も意志を牛耳られることはないからです。信頼心をもって忠実に突き進んでくれれば目的成就は固い。

が、たとえ計画からそれたコースを選択しても、吾々はそれを強制的に阻止することはしない。教育的指導はするが、それも穏やかに行う。そしてもしそれが無視されるに至った時は、もはや好きにやらせるほかはない。

一人ぼっちになってしまうという意味ではありません。すぐに別の種類の霊的仲間が付くでしょう。数に事欠くことはありません。

(*マタイ6・34。〝この故に明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。〟)

 具体的に説明してみよう。たとえば科学に関する書物が必要になったとします。するとまず〝科学〟を基調とする界層の霊団が内容の概略を考える。

それが〝愛〟を基調とする界層へ届けられます。そこで和(やわ)らかい円味(まるみ)を吹き込まれ、今度は〝美〟を基調とする界層へ送られます。すると調和と生彩を出すための解説が施され、それがさらに地上人類の特質を研究している霊団へ送られます。

その霊団はその内容を分析検討して、それを地上へ届けるのに最も相応しい(霊界の)民族を選択します。選択すると、最終的に託すべき界層を慎重に選ぶ。と言うのは、仕上げとして歴史的事例を付加する必要があるかも知れないし、詩的風味を注入した方がよいかも知れないし、もしかしたらロマンス精神を吹き込む必要があるかも知れません。

かくして、ただの科学的事実として出発したものが、地上に辿り着いた時は科学的論文となっていたり、歴史的梗概(こうがい)となっていたり、小論文となっていたり、はては誌とか讃美歌となっていたりするわけです。

 ちなみに貴殿がよく親しんでいる讃美歌を右の言説に照らして見直されると、吾々の言わんとするところが僅かでも判っていただけるでしょう。例えば〝神の御胸はいとも奇(くす)し〟(二八番)は宇宙哲学あるいは宇宙科学の解説的論文として書き変えることが出来る。

また〝誰(た)れにも読める書(ふみ)あり〟(**)、〝過ぎにし昔も来る世にも〟(八八番)などは神の摂理の歴史的研究の根幹を成すものであり、その研究を基調とする界層において、多分、最初の創作の段階でそうした誌文に盛り込まれたものに相違ない。

貴殿もすぐに理解がいくことと思いますが、そうした計画は一つの界層において全てが仕上げられるのではなく、数多くの界層を経過するのであり、しかも一つの界から次の界への伝達の仕方も必ずしも一様でない。

また頭初は書物として計画されたものが、幾つかの界層を経るうちに、あるいは議会の法令となり、あるいは戯曲となり、時には商業上の企画に変わることすらある。

その方法・手段には際限がない。とにかく、神の創造の大業の促進と人間の進化のための計画に関わる者が決断したことが実行に移されるのです。

かくて人間は高き世界より監視し指導する神霊の仕事を推進していることになる。ならば、そうと知った者は背後に強大な援助の集団が控えることを自覚し、何ものをも恐れることなく、途中で狼狽(うろた)えることなく、勇気を持って邁進することです。


 カスリーンより。以上は私が代筆したものですが、私自身からも一言付け加えたいと思います。

 右のメッセージは私より遥かに多くの知識を持つ方々が、世の為に働くさまざまな人間のために贈られたものです。ですが、私の観るところではあなたの今の仕事にも当てはまるものと考えます。いかなる人間のいかなる仕事も、天界の指導と援助を受けないことはありません。お別れに当たって私からのこのささやかなメッセージをお受け取り下さい。ささやかではありますが、これはカスリーン本人からのものです。

 (**これは英国の詩人キーブル John Keble の作品であるが、日本語の讃美歌集にも英語の讃美歌集にも見当たらないところをみると、讃美歌ではなく誌歌なのであろう。「オックスフォード引用句辞典」にその一節だけが載っている。その意味は、宇宙には真理を求める者、心清き者、キリストの心を持つ者であれば誰でも読める書が用意されている、ということ。──訳者)

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