集計が出た。
しめて一万二千四百十三件。この数字こそ1930年、元号にして昭和五年を通じての、九州火の国熊本一県下に於いて成立したる婚姻数に他ならぬ。
「減ったなァ」
「ああ、去年と
「不景気に歯止めがかからぬ以上、仕方あるまい」
「結局それか。聞いたかね、岐阜の山奥あたりでは、貨幣経済が崩壊したぞ。物々交換が商取引の主流として復活したとの評判だ――」
実務に当たった吏員の間で、こんな会話が、きっと取り交わされたろう。
ちなみに昭和五年から数えてちょうど九十年目、令和二年時点に於ける熊本県内婚姻件数はというと、調べてびっくり「六千七百九十三件」!
五桁を逃すどころではない、九十年でほとんど半減しかけてる。
人口自体は五割を増している筈なのに、この
古人もさぞや驚かれるに違いない。日本人が結婚しなくなったというのは最早疑う余地もない、あからさまなる事実のようだ。
……そういえば結婚繋がりで、むかし『都新聞』が愉快な記事を載せていた。
結婚媒介所の特集である。
(Wikipediaより、都新聞社屋)
客層の時点でもう面白い、
「結婚媒介所へ来る人は女よりも男の方がずっと多い、男の年齢も二十歳前後の青年は極く少数で三十を越えた働き盛りの四十前後が最も多く、たまたま六十の白髪頭尚ほ矍鑠たる老人も見受ける、女の方には肩上げの筋のまだ消えない生々しいのもたまにはあるが、初婚は極く少数で所謂何々未亡人と称する色香たっぷりなうば桜の再婚者が一番多い」
云々と。
文中、白髪頭のあたり、じじい大概にしやがれと口を挟みたくなるのだが、そういえば昭和五年の熊本県でも六十代後半に到達した老翁と二十代前半の淑女との結婚式が現に挙行されていた。
一件ではない、二件も、である。
だが、それ以上に凄まじいのは、男と女両方ともに七十代のカップルで、晴れて結納まで行ったやつが四組もあった事実こそ。
式の雰囲気を想像するだに胃が痛い。
形式通りに「高砂やァ…」とやったのだろうが、滑稽とも悲愴ともつけれらない情景だ。
老いてますます盛んなりを地で行っちまう方々は、存外多いようだった。であるが以上、迂闊に口を挟んでは、却ってこっちが火傷する。
自重するに如くはない。
(フリーゲーム『イミゴト』より)
それより『都新聞』の続きを追うべきなのだろう。
「若い女達が呉服屋へ買ひ物に行って僅一反買うのにも数十反の縞柄の中から彼れ此れと勝手に選び廻ることが出来るやうに至極簡単に嫌ひなら嫌ひ、好きなら好きと答が出来るし、嫌ひだと云へば『それではこの方は如何様で、見料は金一円也』と直ぐ後口の会見者が待ってゐて別口から別口へと幾度でも会見自由だから、…(中略)…沢山の架空的な希望条件を持ってゐる若い者には自然会見の度数が重なるのも当然である」
こういうところの基本的なシステムは、世紀を跨げど原理に於いて大差ないと思い知る。
「目下小石川に五軒、青山に四軒、四谷に三軒、麹町に二軒と云ふやうに種々の名称で散在してゐるが結婚申込数の十分の一が成立すれば余程成績の好いものとしてゐる」
人生の悩みは食欲二割、残る八割、性欲由来と説いたのは、果たして誰であったろう。
少なくとも外国人ではなかった筈だ。日本人の何者か、性教育の重要性を訴える文脈中の一部だが、はて、名前がどうにも出てこない。
まあ別に、思い出すまでもないことか。それより熊本陸軍幼年学校、こちらの方が重要だ。せっかく「熊本」に触れた以上は、この軍学校の集会所の内壁に
そこに記されていた内容は、
「是非宮本先生ニ私淑セヨ。
是非清正公ニ没入セヨ。
是非菊池一族ニ帰一セヨ。
是非阿蘇ノ雄大ニ同化セヨ。
是非大西郷のきん玉ヲ握レ。」
こんな具合であったとか。
明治時代にここを
ただ、いいことを言っている。土地の特色もたっぷりで、青少年の若い血をさぞや沸かしたことだろう。
それだけは、どうも、確かなことだ。
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