対等な関係であるために『意地を通す覚悟」とは?

 たとえ非効率だとしても

例えば、正論や正攻法ではなくても、その人の生き方としてのこだわりなら、意地を通して生きるのも否定しません。

ただ、それで押し切って欲しいという希望はあります。

その時、「そのやり方では厳しいですよ!」と言われて、「いや、自分のこだわりなので」と言ったなら、それは自身の「スタイルを尊重する」という部分に考えを向けるのではなく、「厳しい」と指摘された部分に対しても「でも変えるつもりはない」と検討しなければいけません。

実は昨晩のこみち家の話ですが、こみちたちは午後8時晩御飯を食べます。

それまでは同居する両親たちの食事時間だからです。

少なくとも、7時前には晩御飯を作り始めておかないと、食事時間と使った食器を洗って片付けるまでを8時に終えられません。

しかし、8時前まで食べている様子がなく、「もう終わったのか?」と思っていたら、作る時間もやる気もないから「弁当でも買って来る」と母親が言い出しました。

まぁ「母の日」ですから、その日くらい誰かが用意してくれたらとでも思ったのかもしれません。

最も、朝食はいつも通り、こみちが作りましたし、昼も何か惣菜などで食べているようなので、晩御飯を作るにしても買って来るにしても、負担が大きいということではなかったでしょう。

しかし、母親の立場になれば、毎日、仕事もして家のこともして、晩御飯も作ってというスケジュールにちょっと疲れを感じたのかもしれません。

つまり、5年前、10年前にこのままでは厳しいから「生活を見直そう」という提案に、「いや、自分たちの生き方がある」と言い切ったのは両親でした。

それ以降も、「厳しい」と感じる局面が何度もあって、その度に例えば「午後8時」という約束を破ることで、自分たちの生き方誤魔化しながら押し切って来ました。

極端な話、「約束」はこちらのスケジュールや予定を決める根拠なので、簡単に破って欲しくはありません。

しかし、そうすることで、両親が自分たちの生き方で生きられるなら譲る気持ちもあります。

ただ、今回の件で、ギリギリのタイミングまで自分たちだけで問題を抱え込み、最後に「できない」という結論で放棄してしまうのは、ちょっと心配したい状況です。

「意地を通す」なら、必死になってでも通し切って欲しいのです。

年を重ねてくればそれが大変になるのは誰もが知っていることで、だからこそ、「(そのままでは)厳しい」という話だったので。

「そんな話あった?」

最近、この件ではありませんが、上手く行かなかったりするとこんな言い訳を使います。

「知らない」「記憶にない」

似た言葉として、これらも使います。

本気でそうなのかもしれません。

でも、「老い」とはある意味でそういうことが起こり、だから少しずつ生き方を見直さなければいけないのです。

でも「今」しかない両親は、「過去」から学ぶことも「未来」を予想することももうできないでしょう。

「だから言ったのに!」

「あら、そう!?」

そんな会話しかなくなってしまいます。

「美味しそうだからイチゴを買って来たの!」

自分たちが思う「今」に思いつくことはまだできますが、「何時まで終わらせるために何時から始めなければいけない」というような予定が立ちません。

ここまで老いてしまう前に、もっと積極的にこみちも両親の生き方に干渉するべきだったのかもしれません。

「コレはしたの?」

そんな風に管理したくないし、自分たちで考え相談して生きて欲しいという想いだったのですが、今となっては何も両親の生き方に変化や改善はなかったので、自主性を尊重した時点で、そのままの生き方を続けて来たということでしょう。

「自由」と「責任」という言葉がありますが、そのどちらかだけでは上手く継続できません。

「自由」を得るからこそ、そこに「責任」や「覚悟」もあるわけで、ずっと昔にそんな話をした時にもあまり意図が理解できていなかったのは、「自由」だけ、「責任」は…という考え方から変えられなかったのでしょう。

最近、父親を見て、現役時代もこんな感じで生きて来たのだろうか?と思う行動があります。

例えば、何かすると周りがどんなに邪魔に感じていても、譲るという気持ちや遠慮する気持ちを示しません。

「もう少しなので」

譲る気がなくても、そんな風にひと言言えば、相手の印象もかなり変わります。

何より、逆の立場になれば、「使いますか?」と場所を譲ってもらえるかもしれません。

与えられないと機会も減り、さらに状況判断が悪いので「マイペース」しかできない。

そんな風に社会や会社で振る舞って来たのかと。

「家族だから」という言い訳も、こみちだって社会経験があるので、意図して省いたのか、もう状況判断できていないのかくらいは気づきます。

「母の日」は、テレビでも何度も放送されていて、「そうか、今日くらいは…」と父親が母親のために「弁当」を買って来てもいいはずです。

何もこみちの分までとは思っていないので、二人でそうやってくれたら、あとは勝手にこみちたちの分は済ませます。

でも、いつものように自分のペースでテレビを見て、時間が来ても用意しない母親がいても、永遠と待つことで「責任」を果たしている気分になってしまう。

「受け身のままでは生きられない」ということをずっと伝えているのに、自分がそうだとは思っていないのか、それではまわりも大変だということに気づいていないのでしょう。

それこそ、先に母親に介護が必要になって、父親が何か介護できるのかと心配です。

具体的な行為以前に、母親の存在を消してしまわないかと。