信州の入笠山で山歩きをしてきたお話が長くなってしまってますが、最後の最後にすずらん以外の花のお話を…といって、やおら花ではないことに触れることに。何せ入笠山の山中は蝉時雨に包まれていたものですから。

 

6月のあたまに1700mあまりの高地で蟬?とは思ところでして、どうやらハルゼミの仲間らしいですなあ。仲間らしいと申しますのも、鳴き方にバリエーションが感じられたのでありますよ。やかましさ控えめのアブラゼミのように、あるいは少々元気のいいヒグラシのように、さまざまな鳴き声が入り混じっていたよう思えたのですなあ。とまあ、蟬の話はともかくも花の話のほうに。

 

山の植物といえば(まさに日本すずらんがそうであったように)足元にひっそりと小ぶりの花を咲かせる印象がありますけれど、最初に「おお、咲いとる咲いとる」と気付かされたのは、視線の高さが平常時からやや上といったところにあったのでして。

 

 

「エゾノコリンゴ」というリンゴの一種のようですけれど、入笠湿原ではこれが今を盛りと咲いているせいか、ちっちゃなハチがちと多め。昼食をとった山小屋の方曰く「刺さないけれど、耳元にぶんとくるので嫌がられる」とままさに!でありました。と、また昆虫の話に傾いたところで軌道修正いたします。

 

 

ちっちゃな花がちぱちぱちぱっと、落下寸前の線香花火の咲いているのは「マイヅルソウ」かと。これぞ山野草といった姿をしておりますねえ…と、さも知った風なこと言っておりますが、実はゴンドラリフトの乗車券を買いますと「散策ガイドBOOK 入笠に咲く花」というフルカラーの小冊子がもらえるのですな。ところどころに、花の名を記した看板は立っているものの、いろいろ入り混じって咲いているので俄かに同定しがたかったりもするところで非常に役立つのでありますよ。以下、花のことについてはこのガイドブック頼みです(笑)。

 

 

こちらのまるまっちい花は「コバノイチヤクソウ」でしょうか(接写に失敗して、ちとボケてますが)。ツツジ科に属すとは植物の分類は難しそうですなあ。続いてこれは…と、よくよく見れば色づいているのは花ではなくして葉っぱだったようで…。

 

 

花ではないとなると「入笠に咲く花」というタイトルのガイドブックにも載っていないわけで、いったい何であったのでしょう…。

 

 

いささかくたびれ気味に咲いているのは「サクラソウ」ですかね。よく聞く名前なので「いささかありきたり?」と思えば、「乱獲により絶滅危惧種となっている」とガイドブックの説明に。このほか、希少種と思しき2種がちょうど開花を迎えているということでしたので、見てきましたですよ。採られちゃ困るのでしょう、囲いの外から眺めるような恰好でした。

 

 

蘭の仲間で、その名を「釜無ホテイアツモリソウ」と。釜無というのは近くを流れる釜無川のことだとすると固有種なのかも。それだけに、地元では手厚い保護をしているようですね。

 

 

で、もう一種はまたずいぶんと離れた場所に生育しているようで、この時期ならではの道標がそこかしこに。どうぞ見ていってやってください、てなもんですね。

 

 

「イチヨウラン」というのは「自然界における発芽率が極めて低い希少種」らしく、鑑賞エリアとされている場所で10年前に発見されたときには数株しかなかったのを、やはり手厚い保護活動で数十株まで増やせたのだとか。それでも見つけるのに苦労するくらい小さい花でありましたよ。ですので、また接写を試みます。

 

 

ま、どっしり感のあるホテイアツモリソウよりはちっちゃいイチヨウランの方が山野草らしくてかわいいですけどね。ともあれ、そんなこんなで入笠山の山歩きをしてきたわけですが(一応の注釈として今回はピークを目指すことが目的ではありませんでしたので、あと30分ほどの地点まで行って頂上には登っておりません)、すずらんはこの時期であるせよ、お花畑感を存分に味わうにはも少しあとの方が良いのでしょうなあ、きっと。また出向く楽しみもあるというものでありますよ。

さてとお話は、京都・伏見の十石舟遊覧で戻り舟を待つ間に三栖閘門資料館を覗いた…ということの続きです。資料館や周辺を見て回って、あっと言う間に戻り舟が迎えにやってきたのでありますよ。

 

 

戻りは乗船場所までもと来たルートを反対方向に辿っていきますけれど、向きが逆の方が見えやすいもののありまして、ここが角倉了以が開削した高瀬川との合流点であるそうな。

 

 

左側の杭が建てまわしてあるところが高瀬川、右側が濠川(琵琶湖疏水)ということなのですが、もそっと間近で見なくてはという思いを募らせつつ、下船場所まで戻って来た次第なのですなあ。ちなみに、この船は「千姫」と名付けられており、別の一艘は「秀吉」ということなんですが、なんだか組み合わせがしっくりこない…。ま、他に「秀頼」とか「淀君」とかいう船があるのかしれませんけどね…。

 

 

ともあれ、掘割沿いの遊歩道も心地よさそうであることに釣られて、先ほど船から見た高瀬川と濠川の合流点までぶらぶら歩いてみようということにしたのでありますよ。

 

 

船着場のすぐ裏手からこのあたり右手にはずっと、大きな酒蔵が見えています。伏見発で全国区の銘柄である月桂冠ですな。この日は時間的に記念館が閉館していましたので、これはまた後に訪ねるとして取り敢えず水路に沿っていくことに。しばしの後、さきほど十石舟で通り過ぎた濠川(琵琶湖疏水)との合流点に到達、三つ又になった流れを跨ぐ橋から見ますと、正面が船着場に至る水路(宇治川派川)、左手から濠川が流れてきています。

 

 

ここまで来れば高瀬川の合流点ももうすぐですな。何せ、傍らには「角倉了以翁水利紀功碑」が建てられてあって、水路の変遷を説明する解説板も設置されていますし。

 

 

 

年代としては、左から順に江戸時代、大正11年、昭和11年の水路のようすを示したもの。にところから、。一番左側に上からまっすぐに下りてきている水路が高瀬川になります。ここでちょいと、三栖閘門資料館の解説を引いておくといたしましょう。

高瀬川は京都の豪商・角倉了以と息子の素庵により開削されました。工事は1611年(慶長16)から約3年をかけ、二条から伏見港までを結ぶ幅約8m、全長11.1kmの大運河となりました。底の平らな十五石積みの高瀬舟が行き来し、京の町への水上輸送手段として活躍しました。

で、今ではすっかり幅が狭まってしまっていますが、石碑の裏側を高瀬川が流れて濠川に合流しておりましたよ。

 

 

今やとても高瀬舟の往来は望めないでしょうけれど、ちとこれを上流方向へ遡ってみることに。

 

 

水路の変遷で図示されていますように、ほどなく高瀬川は左(西方向)に、そして続いて右(北方向)カーブして京の町につながって…いたわけですが、昭和11年の図に見えているとおり、すぐ脇を新高瀬川(あるいは東高瀬川)が並走し、高瀬川の方は途中で流れが途切れるように描かれておりますねえ。

 

 

左側に東高瀬川の流れがある土手では、旧来の高瀬川は右手の草陰でもはや存在感は無し…という具合。埋め立てられてしまわないのが不思議なくらいですけれど、これも歴史の重みを受け止めるお土地柄なのかもしれませんですね。

 

 

ぼんやりと川面を眺めつつ、「これを遡れば京の町なかであるか…」と。ま、今回の旅ではそっち方面には一切近づかなかったのですけれどね(笑)。

信州・富士見町の入笠山は花の宝庫であるということで、ゴンドラリフトに揺られてたどり着いた山頂駅からしばし山道を歩いてきたところからお話の続きということで。

 

 

丁度、入笠湿原の入り口に差し掛かったところでして、湿原を取り巻いて中にはいる道筋にはそれぞれ鹿除けゲートが設けられていますので、これを開け閉めして通り過ぎることになりますな。

 

 

ちなみに昨今は、あちらこちらの山中はおろか里山の際まで熊の出没が話題にされますですが、ここ入笠山でも「目撃情報あり」の看板が立てられておりましたよ。そうしたことから、登山者の方々は従来はおよそ聴こえてくることの稀であった熊鈴をザックに下げて歩いていたようで。まあ、油断はならないのでしょうけれど、ことこの時期の入笠山に限っては道々に人の流れが途切れることがありませんから、熊も出てこられんでしょうなあ。

 

 

 

 

と、入笠湿原の心地よさそうな景色を眺めたところで、いい加減に花の話に向かいませんと、すずらん、すずらんと言っているのが看板倒れになってしまいますなあ。どうやら目の前に見える大きな斜面が「すずらん群生地」であるようです。振り返りみると、思いのほか斜度のありましたなあ。

 

 

でもって群生地と言われて思うイメージでは、すずらんの花のそれこそ鈴なり状態が一目瞭然!かと思うと、一面みどりに伸びた葉の間を覗いてみればひっそりと、でもたくさん…てな印象であるような。どうでしょう、なんとか判別できますでしょうか?

 

 

このままではもやっと感が募ってしまいますので、クローズアップで愛いやつを狙うことにしたのでありますよ。

 

 

 

 

てな具合に、控えめな印象を受けたすずらんですけれど、入笠湿原の斜面に群生しているのは「日本すずらん」なのであると。湿原までは大した距離ではありませんけれど、歩いてたどり着かねばなりませんが、ゴンドラリフトの山頂駅直近には(山歩きしなくても見られるように)たくさんすずらんが植えてあって、そちらは「ドイツすずらん」であると。違いのほどが、解説板になっておりましたよ。

 

 

要するに「日本すずらん」は葉の下に、「ドイツすずらん」は葉の上に花を付けるというのが決定的な違いですな。前者が深窓の御令嬢的な控えめ感があるのに対して、「ドイツすずらん」は「わたしを見て!」とフォトジェニックさを前面に出しているというか(例えが昭和風ですいません…)。ともあれ、後回しにしていたドイツすずらんの方も見ておくといたしましょう。植わっている環境も日本すずらんの群生地とは大きく異なって、八ヶ岳一望の明るく開けた斜面にあるのですなあ。

 

 

そんな日向で伸びやかに、ひと目ですずなり感あるようすをドイツすずらんは見せているのでありますよ。

 

 

 

と、ここまでの書きようからしますと、日本すずらんは奥ゆかしく、ドイツすずらんは目立ちたがりといった印象にもなるところながら、よくよく考えて見ると、日照条件のあまりよろしくないドイツにあっては葉の陰に隠れてなどおられない、お日さまが出ていたら精一杯浴びるのだ!という、環境ごとに異なる成長戦略の故であるかなと。なんにつけ、短絡思考ではいけませんでせすねえ。

 

ということで、入笠山で日本すずらんとドイツすずらんの違いをつぶさに見てきたわけですが、富士見パノラマリゾートHPに曰く、入笠山は花の宝庫だといことですので、他にもさまざまな花が咲いておりまして、中には絶滅が危惧される種類もあると。次回にはその辺を振り返っておこうと思っておりますよ。

京都・伏見の三栖閘門から今の宇治川の流れを見下ろしたところで、改めて三栖閘門資料館で見聞したところを振り返っておくことに。

 

 

三栖閘門自体は昭和初期の土木遺産ということですけれど、資料館の解説は伏見港を整備した豊臣秀吉からその歴史を紐解いておりましたですよ。伏見港を整備するための前提として、秀吉は長い堤を築いて宇治川と巨椋池の切り離し、宇治川に独自の川筋を作り出したことのようですな。

 

 

解説では三栖閘門の治水機能とともに明治から昭和に至る淀川関係の河川改修などに触れる流れの中で、元々、秀吉の工事からして巨椋池の氾濫対策とも治水のためというようにも紹介されていたような。

 

三栖閘門最寄りに京阪電車の中書島駅がありますけれど、この「中書島」という地名自体、かつてはこのあたりが巨椋池の片隅に浮かぶ島であったのであると。戦国の頃、秀吉配下で賤ケ岳七本槍のひとり、脇坂安治が島に屋敷を作ったことから、脇坂の任官名・中務少輔の唐名・中書をとって中書島と名付けられたとか。

 

ですが、為政者・秀吉の思い描いたところは民衆を水害から守るためという以上に、伏見・大坂間の舟運に適う川筋を作り出さんがためということにあって、こちらの解説文にこそ!という印象ですかね。

  • 豊臣秀吉の伏見城築城により、伏見は城下町としてた反映しました。その一方で秀吉は宇治川を改修し、この地に港の機能を持たせます。
  • 当時は、伏見~大坂間が淀川の舟運、伏見~京都間は陸上交通というのが一般的であり、伏見は舟運と陸路の中継点として重要な役割を果たしていました。淀川には秀吉が運航許可を与えた過書船が行き来していました。

文禄三年(1594年)宇治川を改修し、伏見城の築城を始めた太閤秀吉、京、大坂、奈良の結節点にあたる伏見にあって周囲に睨みをきかせたわけですけれど、一気に大きな城下町を造ったものですありますねえ。「東西約6km、南北約4kmの広大な地域を区画整理し、城を取り囲むように580以上もの武家屋敷を配置し」、さらに「城の西には商人町や職人町が設けられ、にぎわいをみせたそうで」であるということです。

 

 

それも4年ほどで命運が尽き、まさに伏見城でもって太閤は亡くなってしまう…となれば、登場するのは徳川家康でありますね。伏見においても、家康が別格であったことは上の絵図でも窺い知れますですね。

 

中央の一番下にある島のような場所に三つ葉葵の紋が描かれておりまして、「徳川大納言源家康公御屋敷」と。本丸、二ノ丸、三ノ丸まであって、あたかも城のようではありませんか。関ケ原前夜、加藤清正や福島正則ら、いわば武闘派の諸将が石田三成を襲撃せんとした折、三成は徳川屋敷に逃げ込んで…といったことが伝わりますが、ここを襲うのはもはや城攻めにも等しいことかと。

 

体よく?三成を佐和山に押し込めた結果、関ケ原の勃発となるわけですが、これに勝利した家康は「秀吉のまちづくりを引き継ぎ、伏見は江戸時代になっても依然として日本最大の城下町であり、政治都市でもありました」…とは解説にあるも、江戸時代になっても日本最大とは言いすぎなのでは?と思ったり。

 

ですが、舟運の交易拠点という位置づけは江戸期になっても変わらないどころか、いよいよ隆盛を極めることになるのは、あの!(「富士川水運の300年」展@山梨県立博物館で知る所となった)角倉了以の登場によるものかと。

 

 

先にも話に出ていたとおり、「大坂から船によって運ばれてきた物資は、伏見港で荷揚げされたのpち、陸路を利用して京都へとどけられてい」ところながら、慶長十九年(1614年)、角倉了以による高瀬川の開削が状況を一変させたのであるということで。「この運河の完成により、伏見港に集積された物資は船を使って京都の町へと運ばれ」ることになったわけでして。

 

てなことで三栖閘門資料館といいつつも、話はすっかり伏見港のことに終始してしまいましたですなあ。せめて三栖閘門が昭和初期の土木遺産であることに関わる展示物としてひとつ、かようなものがあったとは付け加えておきましょうかね。

 

 

これはかつて三栖閘門の操作室で鬼瓦として使われていたという部材だそうですけれど、「内」の文字をデザインした紋が入っていて、これは内務省を表しているそうな。内務省というと「明治?」てなふうにも思ってしまいますが、日本に内務省は1947年(昭和22年)日本国憲法の施行により廃止されるまでは続いていたのでしたか。

 

と、いささか無理やり三栖閘門の話に持って来たものの、角倉了以の方のお話がいささか中途半端であり…。ですので、そちらの話の続きは資料館を後にして伏見十石舟の戻り舟のついでに、はたまた下船後には高瀬川のあたりをぶらりとした散策のついでにも少し触れるといたしましょうね。

 

ふと思い立って信州・富士見町の入笠山に行ってきたのでありますよ。6月に入った時節柄、「入笠山ではすずらんが…」と思い至った次第。頂上直下までゴンドラリフトを運行する富士見パノラマリゾート(要するに冬はスキー場となる施設です)のHPを見れば、ちょうど「すずらん祭り」が開催中とは、思い立ったが吉日ではありませんか。ということで、どうやら山小屋を意識したふうでもあるJR中央本線の富士見駅に降り立ちました。

 

 

ここからは富士見パノラマリゾートの送迎バスでゴンドラ乗り場へと向かうのですが、思い返せばもう10年ほども前になりますか、冬の富士見パノラマスキー場たるこの場所に出向いたことがあったなあと思い返したりも…。

 

 

その時の送迎バスはぎゅうぎゅう詰めでしたが、この日も10時発の段階ですでに2台が先発するほどの人出であったそうな。「すずらん祭り」、おそるべしです。ともあれ、バスに揺られること10分ほどでゲレンデ(って、夏場はスキー場ではありませんが)に到着とあいなります。

 

 

スキー場といえば冬しか稼働しないわけでして、ましてや昭和の頃とは異なりスキー人口は格段に減っておりましょうから、なかなかに経営に苦労しておろうかと想像しますが、ここではスキーのオフシーズンにはマウンテンバイクが林間を駆け抜け、大空にはパラグライダーが舞うと、そういうアクティビティー展開を行っているようですな。

 

 

マウンテンバイクの方は日頃何かと自転車移動を多用しているので特に心動くことはありませんですが、パラグライダーの方は予て一度はやってみたいものだ…と思っておりまして。元来、プチ高所恐怖症であるにも関わらず不思議なものですな。もっとも、本当にやろうと思えばいつでもできないわけではありませんのに未だに…というのは、やはり高いところ怖いの意識と映画『最高の人生の見つけ方』の二人(モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソン)のように切羽詰まった感がないからでもありましょうかね。

 

 

と、パラグライダーはともかくも、今回はゴンドラリストに乗って山頂へ向かうわけでして、ゲレンデ下を右手の方へ(冬場ならばスキーを履いたまますいすいと)進みますと、ゴンドラリフトの山麓駅に到達することに。

 

 

送迎バス3往復が運んできた中高年登山者の人たちをやり過ごしたおかげで、ゴンドラリフトに乗る際はさして並ぶこともなく。ちなみに平日だっただけあって、登山者はものの見事に中高年でしたなあ…と言ってる本人も中高年ですが。中には、見ている方が怖くなるほど足元が覚束ない方々も、二本のポールを駆使して山を目指していく。意気軒昂たるや良しですけれど、山の事故が絶えないのもむべなるかなと思ったり。

 

 

ともあれ、かくてゴンドラリフト上の人となったわけですけれど、以前スキーで来たときの印象はすでにすっかり薄れておりまして、このリフトがこんなに長いものだったとは記憶に無くて…。ちなみに途中の支柱は27本でして、高度があがるごとに八ヶ岳の眺望が広がり、やがて右手方向に富士山、さらには甲斐駒ヶ岳の頭までが見えてくるのですなあ。

 

 

 

てな具合で標高1,780mのゴンドラ山頂駅に到着。山麓駅との標高差はおよそ700mで、さすがに空気はひんやり爽やか。山歩きはほどよい気候でありましたよ。いよいよ山道に分け入って、すずらんはじめ、花の宝庫とも言われるらしいところを巡ることに…なるわけですが、ここまででちと長くなってしまいましたので、後半へ続く…ということでご容赦のほどをお願いいたします。