有難いことに仕事が立て込んでいたため、
すっかり更新が遅れてしまいましたが、
今回は嬉しいことに映画のリクエストを頂きました!
ありがとうございます
リクエスト頂いた作品は『勝手にしやがれ』。
(フランス語のタイトルは à bout de souffle ア ブ ドゥ スーフル、英語ではbreathlessで、息切れしたの意)
1959年製作、翌年に公開されたこの作品は、言わずと知れた巨匠ゴダールの長編デビュー作にして、映画史に文字通り革命を巻き起こした、ヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的傑作です。
自動車泥棒のミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、マルセイユからパリへ向かう道中で警官を殺してしまい、警察に追われる身となります。そこで、アメリカ人のガールフレンド、パトリシア(ジーン・セバーグ)と共にイタリアへの逃亡を画策するものの、パトリシアは逃亡前日、自らの愛を確かめるためにミシェルの居場所を警察に通報してしまいます。彼女はその事実をミシェルに告げ、彼に独りで逃げるよう促すものの、本人は「牢屋に行く覚悟は出来ている」と、逃げることを拒みます。
そしてやってきた警察にミシェルは射殺されてしまうこととなるのですが…技術的にも、芸術的にも、あらゆる意味でそれまでの映画の常識を覆した本作品は、そのラストにおいて最も斬新で、ミステリアスな衝撃を残しています。
とても興味深いシーンなので、まずは直訳と照らし合わせてみてみましょう。
ミシェル: c’est vraiment dégueulasse.
セ ヴレモン デギュラス
本当に最低だ
パトリシア: Qu’est-ce qu’il a dit ?
ケ ス キラ ディ?
彼は何て言ったの?
警官: Il a dit : Vous êtes vraiment une dégueulasse.
イ ラ ディ、ヴ ゼット ヴレモン ユヌ デギュラス
あなたは本当に最低な女だと。
パトリシア: Qu’est ce que c'est dégueulasse ?
ケスク セ デギュラス?
最低って何のこと?
実は、このシーンについて解説された資料を参照すると、ものによってはミシェルが『俺は本当に最低だ』とつぶやいたことになっていたり、パトリシアに向かって『お前は本当に最低だ』と呟いたことになっていたりと、実に曖昧な解釈が散見されます。それもそのはず、よく見てみると、ミシェルのセリフは警官によって意図的に歪曲されており、観る者の解釈を難しくしているのです。
ミシェルの最期の言葉は、
c’est vraiment dégueulasse.
セ ヴレモン デギュラス
でした。
dégueulasse デギュラス とは、dégueuler デギュレ=吐くというグロシエ(俗語)から発生したファミリエ(口語表現)で、「吐き気を催す程汚いもの」を表します。ここでは字幕で採用された邦訳に従って「最低だ」と訳しましたが、実際には「最低」という言葉よりも、うんと強い嫌悪感を表す単語で、非常にインパクトが強い表現です。このような単語が映画のラストシ-ンに用いられること自体、当時の常識では考えられない手法で、観る者に大きな衝撃を残しました。
さて、ここで注目したいのは、ミシェルは心変わりしたパトリシアの密告のせいで銃弾に倒れることになったにも関わらず、
T'es vraiment dégueulasse.
テ ヴレモン デギュラス
お前は本当に最低だ
とは言っていないという点です。
ミシェルの'c'est vraiment dégueulasse' セ ヴレモン デギュラスという最期の言葉を紐解いてみると、それが’c'est’セ、英語でいう所の 'It's' ではじまっていることから、漠然とした状況を指すセリフであったことが分かります。従って、ミシェルが「本当に最低だ」と言ったのは、彼の人生全体に対する感情の吐露だったと受け取ることもできれば、銃弾に倒れて幕を閉じることとなった最期の状況に対して投げつけた言葉だったと受け取ることもでき、その解釈は観る者の判断にゆだねられる訳です。もし仮にこれがパトリシアに対しての言葉だったとしても、この文章が’c'est’ セで始まっている以上、「警察に密告する」という行為そのものに対する批判では有り得ても、彼女自身を責める言葉では有り得なかったのです。
実際、ミシェル自身、牢屋に行く覚悟は出来ているとパトリシアに告げた際、「疲れた、眠りたい」と語っており、更に警官が駆け付けた際にも、まるでわざと自らが射殺されるような逃げ方をしている点からも、パトリシアをとり立てて責める意図はなかったものと推察されます。
反対に、パトリシアにミシェルの最期の言葉を尋ねられた警官は、意図的にミシェルの言葉を歪曲し、あたかも彼がパトリシアをののしって逝ったかのように伝えます。警官がパトリシアに伝えた言葉は、
Il a dit : Vous êtes vraiment une dégueulasse.
イ ラ ディ、ヴ ゼット ヴレモン ユヌ デギュラス
でした。
dégueulasse デギュラス とは、それ自体非常にインパクトが強い言葉ですが、それが un アン や une ユヌ といった冠詞と共に用いられると、ある特定の人物を侮辱する表現となり、それが一定の状況や行為に対して用いられる時よりもさらに過激で攻撃的な表現となるのです。従って、ここで警官がパトリシアに伝えた言葉は、「彼は『あなたは本当に最低な女だ』と言ったのです」という意味になり、ミシェルがdégueulasse デギュラスという言葉で言い表したかったことが何であれ、敢えてパトリシアに向けての直接的な表現を用いないことで、彼女をかばおうとした彼の意志に反する内容が伝えられてしまったのです。
ここでなぜ警官が意図的にミシェルの言葉を歪曲したのかは、一つの大きな謎です。しかし、更に大きな謎は、パトリシアの最後のセリフ
Qu’est ce que c'est dégueulasse ?
ケスク セ デギュラス?
です。
このセリフは、字幕の邦訳だけを観ると、あたかもパトリシアが「最低って何のこと?」と、「最低」という概念自体に疑問を投げかけたかのように感じられますが、より正確には、「dégueulasse デギュラス って何のこと?」と尋ねているのです。それはもちろん、dégueulasse デギュラス という概念自体に対する疑問であったかもしれないし、あるいは単純に、外国人である彼女がdégueulasse デギュラス という表現を知らなかっただけとも受け取れるのです。
前者の場合、パトリシアがdégueulasse デギュラス という概念、または善悪の基準そのものに対する疑問を投げかけて去っていったこととなり、後者の場合は、ミシェルがその最期にdégueulasse デギュラス という言葉を用いたのは、パトリシアがその表現を知らないことを知っていて敢えて選んだものだったという仮説も成り立つ訳です。
ゴダールは後に、「この映画は、死を考える青年と、死を考えない若い女性の物語だ」と語っています。刹那的な生き方をしながら死を見つめていた青年と、そんな彼から去っていくことを決めた若い女性。dégueulasse デギュラス とは、そんな2人の状況を象徴する言葉だったのかもしれません。
いずれにせよ、多くの解釈の余地を残したこのミステリアスで衝撃的なラストシーンは、映画史を新たな時代へと導く1ページとして、多くの人々の記憶に残ったのでした。
ちなみに、dégueulasse デギュラス は上記の通り非常にインパクトの強い、何かを侮辱する表現ですが、日常会話において、そのコンテクストによっては、より軽い意味合いで使われることも多々あります。例えば、気の置けない友人同士、お互いにdégueulasse デギュラス という表現を用いても、それが相手を侮辱するための言葉ではないと理解しあえる仲である、という前提においては、友人がちょっとした抜け駆けをした際などに、
c’est dégueulasse!
セ デギュラス!
などと言ったりすることがあります。この場合は、単に「もう、ひどいなあ!」という程度の表現になり、かえってdégueulasse デギュラス という単語を使っても支障のないほど仲の良いことを示す目安にもなります。
また、dégueulasse デギュラスの代わりに、これを短縮した表現、dégueu デギュを用いることもありますが、これはdégueulasse デギュラス という単語の持つ強烈なインパクトを和らげるための表現です。
こちらもフランス映画でよく出てくる表現なので、この単語を耳にしたら、それがdégueulasse デギュラス なのかdégueu デギュ なのか、またどのようなコンテクストで用いられている表現なのか、注意してみると面白い発見があるかもしれません。
勝手にしやがれ [DVD]/ジャン=ポール・ベルモンド,ジーン・セバーグ
¥1,500
Amazon.co.jp
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今回は嬉しいことに映画のリクエストを頂きました!
ありがとうございます
リクエスト頂いた作品は『勝手にしやがれ』。
(フランス語のタイトルは à bout de souffle ア ブ ドゥ スーフル、英語ではbreathlessで、息切れしたの意)
1959年製作、翌年に公開されたこの作品は、言わずと知れた巨匠ゴダールの長編デビュー作にして、映画史に文字通り革命を巻き起こした、ヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的傑作です。
自動車泥棒のミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、マルセイユからパリへ向かう道中で警官を殺してしまい、警察に追われる身となります。そこで、アメリカ人のガールフレンド、パトリシア(ジーン・セバーグ)と共にイタリアへの逃亡を画策するものの、パトリシアは逃亡前日、自らの愛を確かめるためにミシェルの居場所を警察に通報してしまいます。彼女はその事実をミシェルに告げ、彼に独りで逃げるよう促すものの、本人は「牢屋に行く覚悟は出来ている」と、逃げることを拒みます。
そしてやってきた警察にミシェルは射殺されてしまうこととなるのですが…技術的にも、芸術的にも、あらゆる意味でそれまでの映画の常識を覆した本作品は、そのラストにおいて最も斬新で、ミステリアスな衝撃を残しています。
とても興味深いシーンなので、まずは直訳と照らし合わせてみてみましょう。
ミシェル: c’est vraiment dégueulasse.
セ ヴレモン デギュラス
本当に最低だ
パトリシア: Qu’est-ce qu’il a dit ?
ケ ス キラ ディ?
彼は何て言ったの?
警官: Il a dit : Vous êtes vraiment une dégueulasse.
イ ラ ディ、ヴ ゼット ヴレモン ユヌ デギュラス
あなたは本当に最低な女だと。
パトリシア: Qu’est ce que c'est dégueulasse ?
ケスク セ デギュラス?
最低って何のこと?
実は、このシーンについて解説された資料を参照すると、ものによってはミシェルが『俺は本当に最低だ』とつぶやいたことになっていたり、パトリシアに向かって『お前は本当に最低だ』と呟いたことになっていたりと、実に曖昧な解釈が散見されます。それもそのはず、よく見てみると、ミシェルのセリフは警官によって意図的に歪曲されており、観る者の解釈を難しくしているのです。
ミシェルの最期の言葉は、
c’est vraiment dégueulasse.
セ ヴレモン デギュラス
でした。
dégueulasse デギュラス とは、dégueuler デギュレ=吐くというグロシエ(俗語)から発生したファミリエ(口語表現)で、「吐き気を催す程汚いもの」を表します。ここでは字幕で採用された邦訳に従って「最低だ」と訳しましたが、実際には「最低」という言葉よりも、うんと強い嫌悪感を表す単語で、非常にインパクトが強い表現です。このような単語が映画のラストシ-ンに用いられること自体、当時の常識では考えられない手法で、観る者に大きな衝撃を残しました。
さて、ここで注目したいのは、ミシェルは心変わりしたパトリシアの密告のせいで銃弾に倒れることになったにも関わらず、
T'es vraiment dégueulasse.
テ ヴレモン デギュラス
お前は本当に最低だ
とは言っていないという点です。
ミシェルの'c'est vraiment dégueulasse' セ ヴレモン デギュラスという最期の言葉を紐解いてみると、それが’c'est’セ、英語でいう所の 'It's' ではじまっていることから、漠然とした状況を指すセリフであったことが分かります。従って、ミシェルが「本当に最低だ」と言ったのは、彼の人生全体に対する感情の吐露だったと受け取ることもできれば、銃弾に倒れて幕を閉じることとなった最期の状況に対して投げつけた言葉だったと受け取ることもでき、その解釈は観る者の判断にゆだねられる訳です。もし仮にこれがパトリシアに対しての言葉だったとしても、この文章が’c'est’ セで始まっている以上、「警察に密告する」という行為そのものに対する批判では有り得ても、彼女自身を責める言葉では有り得なかったのです。
実際、ミシェル自身、牢屋に行く覚悟は出来ているとパトリシアに告げた際、「疲れた、眠りたい」と語っており、更に警官が駆け付けた際にも、まるでわざと自らが射殺されるような逃げ方をしている点からも、パトリシアをとり立てて責める意図はなかったものと推察されます。
反対に、パトリシアにミシェルの最期の言葉を尋ねられた警官は、意図的にミシェルの言葉を歪曲し、あたかも彼がパトリシアをののしって逝ったかのように伝えます。警官がパトリシアに伝えた言葉は、
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でした。
dégueulasse デギュラス とは、それ自体非常にインパクトが強い言葉ですが、それが un アン や une ユヌ といった冠詞と共に用いられると、ある特定の人物を侮辱する表現となり、それが一定の状況や行為に対して用いられる時よりもさらに過激で攻撃的な表現となるのです。従って、ここで警官がパトリシアに伝えた言葉は、「彼は『あなたは本当に最低な女だ』と言ったのです」という意味になり、ミシェルがdégueulasse デギュラスという言葉で言い表したかったことが何であれ、敢えてパトリシアに向けての直接的な表現を用いないことで、彼女をかばおうとした彼の意志に反する内容が伝えられてしまったのです。
ここでなぜ警官が意図的にミシェルの言葉を歪曲したのかは、一つの大きな謎です。しかし、更に大きな謎は、パトリシアの最後のセリフ
Qu’est ce que c'est dégueulasse ?
ケスク セ デギュラス?
です。
このセリフは、字幕の邦訳だけを観ると、あたかもパトリシアが「最低って何のこと?」と、「最低」という概念自体に疑問を投げかけたかのように感じられますが、より正確には、「dégueulasse デギュラス って何のこと?」と尋ねているのです。それはもちろん、dégueulasse デギュラス という概念自体に対する疑問であったかもしれないし、あるいは単純に、外国人である彼女がdégueulasse デギュラス という表現を知らなかっただけとも受け取れるのです。
前者の場合、パトリシアがdégueulasse デギュラス という概念、または善悪の基準そのものに対する疑問を投げかけて去っていったこととなり、後者の場合は、ミシェルがその最期にdégueulasse デギュラス という言葉を用いたのは、パトリシアがその表現を知らないことを知っていて敢えて選んだものだったという仮説も成り立つ訳です。
ゴダールは後に、「この映画は、死を考える青年と、死を考えない若い女性の物語だ」と語っています。刹那的な生き方をしながら死を見つめていた青年と、そんな彼から去っていくことを決めた若い女性。dégueulasse デギュラス とは、そんな2人の状況を象徴する言葉だったのかもしれません。
いずれにせよ、多くの解釈の余地を残したこのミステリアスで衝撃的なラストシーンは、映画史を新たな時代へと導く1ページとして、多くの人々の記憶に残ったのでした。
ちなみに、dégueulasse デギュラス は上記の通り非常にインパクトの強い、何かを侮辱する表現ですが、日常会話において、そのコンテクストによっては、より軽い意味合いで使われることも多々あります。例えば、気の置けない友人同士、お互いにdégueulasse デギュラス という表現を用いても、それが相手を侮辱するための言葉ではないと理解しあえる仲である、という前提においては、友人がちょっとした抜け駆けをした際などに、
c’est dégueulasse!
セ デギュラス!
などと言ったりすることがあります。この場合は、単に「もう、ひどいなあ!」という程度の表現になり、かえってdégueulasse デギュラス という単語を使っても支障のないほど仲の良いことを示す目安にもなります。
また、dégueulasse デギュラスの代わりに、これを短縮した表現、dégueu デギュを用いることもありますが、これはdégueulasse デギュラス という単語の持つ強烈なインパクトを和らげるための表現です。
こちらもフランス映画でよく出てくる表現なので、この単語を耳にしたら、それがdégueulasse デギュラス なのかdégueu デギュ なのか、またどのようなコンテクストで用いられている表現なのか、注意してみると面白い発見があるかもしれません。
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