第65章 令和元年 懐かしい「空91系統」で夜景を堪能~バス趣味を満たしてくれたリムジンバス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:京浜急行リムジンバス「空91系統」羽田空港-横浜線、東京空港交通バス羽田空港-中野・練馬線、東急バス「反01系統」、横浜市営バス「7系統」、東京空港交通バス羽田-新宿線、リムジンバス羽田空港-吉祥寺線】



横浜の煌びやかな夜景を目にすると、自宅へまっすぐ帰るのが疎ましくなった。


当時の僕は杉並区に住んでいて、令和元年6月の週末に桜木町で所用が生じ、仕事後の交流会でいささか酩酊していたのも一因かもしれない。

小雨がぱらつく蒸し暑い夜で、時計の針は午後9時になろうとしている。


横浜から杉並に戻るには、JR東海道本線や京浜東北線で東京駅に出て中央線の快速か各駅停車に乗り換えるか、もしくは湘南新宿ラインで新宿駅に出るといった経路が主流であろう。

現に、往路は中央線と湘南新宿ラインを使っている。

その他にも、東急東横線で渋谷駅に出て京王井の頭線に乗り換えたり、東横線が乗り入れている地下鉄副都心線から地下鉄丸ノ内線に乗り換えるといった方法もあり、選択肢は豊富である。


ところが、僕は、バスに乗りたくなったのだ。

首都圏をバスで移動するならば、一般道を走る路線バスか、空港リムジンバスしかない。



昭和60年に上京したばかりの頃、品川区大井町に住んでいた僕は、路線バスで東京を出て神奈川県に足を踏み入れる行為に嵌まったことがあった。


もともとバスに乗るのは好きだったので、大井町から渋谷、品川、大森、蒲田に出掛ける際も、電車の何倍もの時間を費やして路線バスを使ったものだったが、大井町の近くにある東急バス荏原営業所に、「川崎駅」と行先表示を掲げるバスが出入りしているのを目にして、バスで県境を越えられるのか、と驚いたことが始まりだった。
僕の故郷の長野県には、当時、県境を越えるバス路線が存在しなかったので、県を跨ぐならば鉄道しかない、と思い込んでいたのである。

荏原町営業所で見掛けたのは、第二京浜国道を行き来して五反田駅と川崎駅を結ぶ「反01系統」である。
このバスが走る第二京浜は、工業地帯を貫く第一京浜の乾いた車窓に比べれば、山の手らしく落ち着きがあるが、反面、退屈でもある。
河川敷が広い多摩川を渡って川崎市に入ると、何やら大事業を成し遂げたかのような達成感が込み上げてきたことが、昨日のようにありありと思い浮かぶ。
川崎駅前には古びた映画館が並んでいる区画があり、新宿や渋谷に出掛けるよりも手頃だったから、観たい映画があれば「反01系統」に飛び乗ったものだった。

もっと先まで足を伸ばせないかと、「反01系統」が発着する川崎駅の東口から西口へ渡ってみると、横浜市営バスの「7系統」が、第一京浜国道を走って横浜駅東口まで通じていることを知った。
横浜まで合計2時間近くを費やしたので、乗り継いだのは1度だけだったが、楽しい思い出である。

後に高速バスファンになってから、東京から全ての道府県庁所在地にバスだけで行くという目標を定めることになるのだが、横浜は、僕のバス趣味のごく初期に到達した県庁所在地なのである。


30年以上も前の記憶を懐かしく反芻しながら、桜木町駅から京浜東北線で横浜駅に向かい、東口のバスターミナルに歩を運んだ。


横浜駅東口バスターミナルは、横浜シティエアターミナル(YCAT)と一体化したような構造で、一般路線バスや長距離高速バスの他に、羽田空港や成田空港へのリムジンバスが発着している。

昭和53年の新東京国際空港(成田空港)の開港に伴い、横浜港に面した「ポートサイド地区」に建設されたYCATは、横浜駅から1kmほど離れており、京浜急行バスが、成田空港へのリムジンバスとともに横浜駅を結ぶシャトルバスの運行を始めている。

シャトルバスに昭和61年に投入された車両は、関東初となる大型ノンステップバスだったという逸話もある。



平成8年に、そごう横浜店と横浜駅東口バスターミナルが入る横浜新都市ビルと隣接する、現在の横浜スカイビル1階に移転した。
だが、平成13年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに、米国連邦航空局の通達によって北米線の搭乗手続きや出国手続きが空港以外では出来なくなり、他の航空路線のセキュリティ強化も相まって、横浜ばかりでなく、東京、大阪にも設置されていたシティエアターミナルは、その役目を終えた。

YCATには、今でも外貨両替店が置かれているものの、リムジンバスに乗る前に搭乗手続きが可能だった日本航空や全日本空輸などの航空カウンターも平成23年3月に廃止され、旅行代理店も期を一にして営業を終了しているため、YCATは、リムジンバスのターミナル機能だけとなっている。


僕は、横浜駅東口バスターミナル=YCATと思い込んでいた時期があり、リムジンバスも他の長距離高速バスと同じホームを発着するので、隣り同士とは言え、異なるビルとは思いも寄らなかった。



長々とYCATについて述べたが、僕がここに初めて足を踏み入れたのは、羽田空港と横浜駅を結ぶ京浜急行バスの「空91系統」に乗った時である。

相前後して、東急バス「反01系統」や横浜市営バス「7系統」に乗っているのだが、「7系統」が横浜駅東口バスターミナルに入ったのかどうかは忘却の彼方である。


僕は、東京に出てきたばかりの昭和58年に高速バスファンになったが、その頃の高速バス路線は、現在と比較にならないほど少なく、気晴らしに乗れる高速バスに飢えていた。

首都高速道路を使って羽田空港と横浜駅を結び、運行本数も多い「空91系統」は、貴重な存在だった。

羽田空港を出入りするリムジンバスも、東京空港交通の成田空港、東京シティエアターミナル、新宿、池袋、赤坂方面と、京浜急行バスの「空91系統」だけという時代で、おそらく、僕が初めて利用した空港リムジンバスではなかったか。



昭和57年の時刻表を紐解けば、巻末の会社線のページ、定期観光バスのページの後に航空路線の時刻表が続き、その末尾に各空港のアクセスの一覧が掲載されている。


ぎゅっと細かい文字が詰まったページで、見るだけで目が痛くなりそうなのだが、「関東の各空港」の欄に掲載されている羽田空港アクセスは東京モノレールと「空91系統」だけで、残りは東京シティエアターミナル(TCAT)、東京駅、銀座、新宿、池袋、赤坂、YCATなどを発着する成田空港リムジンバスばかりであった。

面白いのは、羽田と成田の首都圏二大空港を結ぶリムジンバスで、今は独立した路線になっているものの、当時はYCATと成田空港を結ぶバスが羽田空港に立ち寄っていたようである。



昭和62年の時刻表では、羽田空港と新宿駅を結ぶリムジンバスの欄が加わり、昭和63年に羽田空港と成田空港に欄が分けられて、羽田空港を発着するリムジンバスは新宿、赤坂、成田空港、川崎駅、横浜駅の5路線となった。
羽田空港と赤坂を結ぶリムジンバスは、都心側でホテルばかりを発着するので、ホテルにも航空機にも縁のないバスファンとしては敷居が高く、未だに乗車を果たしていない。
同じ頃に、羽田空港から池袋方面のリムジンバスが掲載されていて、乗りたくなった記憶があるのだが、もっと後年だったのかもしれない。

 

羽田空港に、これしかリムジンバスが走っていなかったのか、それとも他方面の路線も存在しながら掲載されなかったのかは定かでないが、おそらく前者なのであろう。
首都圏各地に数十路線が展開している現在から振り返れば、30年前は、まるで地方空港のように侘しい羽田空港リムジンバスの路線数であった。


僕が、日本航空の東京-大阪線で、初めて空の旅を体験したのは、この頃である。

伊丹の大阪国際空港に降り立ち、梅田、新大阪、難波、阿部野橋といった大阪の中心街をはじめ、堺、京都、神戸など各方面にリムジンバスが走っているのを目にして、無性に羨ましくなり、路線が少ない羽田空港が恨めしかったのを覚えている。

伊丹空港のリムジンバスに乗りたくて、関西に行く時は、財布の底をはたいてでも航空機を選んだ。



乗り慣れた首都高速と異なり、阪神高速道路は何処を走っても新鮮だったし、それだけで大阪見物をした気分に浸れたものだった。


中でも、京都行きは名神高速道路を走るので、存分に高速バス旅を堪能できた。

おそらく新幹線を利用した方が安く便利だったはずで、さすがに馬鹿らしくなってやめてしまったが、一時期、京都を目指すのにも航空機を使ったのは、リムジンバスが原因である。

羽田-伊丹間の航空機から京都行きリムジンバスに乗り継ぐ利用者は、おそらく僕くらいではなかったか。


一方で、伊丹空港と新大阪駅を結ぶリムジンバスだけは、案に相違して一般道を走るだけだったので、何となく損をした気分にさせられたから、僕も頭の固いバスファンだったのだな、と思う。



大井町に住んでいた僕にとって、「空91系統」は、最も手軽に乗れる高速バスだった。

当時、航空機は高嶺の花で、滅多に乗れる代物ではなかったが、用もないのに羽田空港に足を運び、展望デッキから航空機を眺めるのが好きだった。

「空91系統」に乗るのも、わざわざ羽田空港に出掛けていく動機の1つだった。


現在に至る高速バスブームの黎明期の話だから、程なくして、雨後の筍のように高速バス路線が増えると、僕は「空91系統」に見向きもしなくなった。



令和元年6月の夜、さすがに横浜市営バス「7系統」や東急バス「反01系統」に乗る気力はなかった。
横浜駅東口バスターミナルと言うべきか、YCATと呼ぶべきか、とにかく乗車ホームで僕が待ったのは、羽田空港行きリムジンバス「空91系統」である。

この路線に乗るのは何年ぶりだろうか。

昭和60年前後の「空91系統」は、近距離・短時間路線だけあって、東京空港交通のリムジンバスに比べると小柄な車体で、扉が1つだけという点を除けば、街路を走っている路線バスと大して変わらない外見だった。

この日、乗り場に横付けされたバスは、「KEIKYU LIMOUSINE」と横っ腹に大書されていなければ、そのまま長距離高速バスに使ってもおかしくないような大型のハイデッカーである。



午後9時を過ぎた頃合いに空港へ向かう客がいるのか、と危ぶんでいたが、案の定、僕が乗車した21時12分発の便の客は、僕1人だった。

羽田空港には深夜に離陸する航空便もあるので、YCAT発リムジンバスの最終便は21時57分発まであるが、羽田行きは、空港発の便のための回送のような役割なのかもしれない。


当然、最前列の座席の座席もあいていたが、僕は遠慮して、前から3列目の右側席に腰を下ろした。

30年前の若かりし頃ならば、僕は迷わず最前列席を占めて展望を楽しんだことであろうし、たった1人の乗客となって運転手と会話が尽きなかった経験もあるのだが、この日は運転手と顔を突き合わせるのが何となく億劫だった。

運転手にしても、酔客が最前列に陣取るのは迷惑であろうし、趣味よりも遠慮が上回るとは、それだけ僕が歳を取った証なのだろう。



バスは、横浜駅東口とスカイビル、新都市ビルを囲む帷子川に面した道路を回り、横浜駅東口ランプから首都高速横羽線下り線に駆け上がった。

左手のビル越しにランドマークタワー見上げながらみなとみらいランプを過ぎると、首都高速は東横浜トンネルで地下に潜り込み、大岡川をくぐって桜木町、関内の繁華街を抜けていく。


首都高速狩場線と交差する石川町JCTの先までは、路肩が殆んどないような狭い幅員と連続する急曲線にも関わらず、車の流れは異常に速く、自分でハンドルを握っていても嫌な区間であるが、プロの運転手がハンドルを握っているのだから、バスの走りは至って滑らかで、安心して任せられる。



地表に飛び出した首都高速狩場線は、ぐいぐいと高度を上げて、視界を遮るビルや倉庫の合間からマリンタワーが見えると、山下埠頭の手前で東京湾に沿い、左前方にベイブリッジが煌びやかな姿を見せてくれる。


本牧JCTで左に進路を変えたバスは、首都高速湾岸線に合流して、ベイブリッジを渡り始めた。

横浜駅を出てからベイブリッジまでの、目まぐるしく変化に富んだ都市景観は、このリムジンバスの車窓の畢竟であろう。



僕が頻繁に利用していた昭和60年代の「空91系統」がたどったのは、この道筋ではなかった。


京浜急行バスの羽田空港-横浜線の運行開始は昭和43年で、当初は、東神奈川ランプから羽田ランプまで首都高速横羽線を使っていた。

地図を見れば、首都高速横羽線は、横浜から川崎にかけての市街地と、湾岸の埋立地の境目を走っていて、トンネルのない高架道路であるものの、汐入、鶴見、浜川崎と進んでも、延々と続く防音壁の上や合間に覗くのは工場や倉庫ばかり、車内にいても鼻の穴が煤けるのではないかと心配になるほどである。

これが日本を支える京浜工業地帯か、と学校で習った地理の知識を思い浮かべながら俯瞰するには、格好の路線である。


沿道のかなりの割合を、JFEスチール東日本製鉄所が占めているのは、驚かされた。

この地に日本鋼管が川崎製鉄所を建設したのは昭和21年で、昭和22年に鶴見製鉄所、昭和34年に水江製鉄所が操業を開始、昭和43年に3つの製鉄所を統合して京浜製鉄所となった。

平成15年に日本鋼管と川崎製鉄が合併してJFEスチールと改名したのだが、首都高速横羽線の車窓から「JFE」の看板を目にして、我が国の製鉄業の変遷に思いをめぐらせながら、日本だってまだまだ物作りでは負けていないぞ、と嬉しくなるのも、「空91系統」の醍醐味である。



木々の緑など全く目に入らないし、この上なく味気ない車窓であるのは間違いない。
それでも好んで「空91系統」に乗りに出掛けたのだから、僕にとっての高速バスの魅力とは、車窓よりも、車中を楽しむことだったのかもしれない。


変化と言えば、最後に高速大師橋で渡る多摩川河口で視界が開けるくらいで、間もなくバスは羽田ランプを駆け降りて、環状8号線で羽田空港の敷地に足を踏み入れていく。

この間、およそ20分あまり、誠に呆気ないバス旅であったが、僕にとっては楽しいひとときであった。 


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平成6年12月に首都高速湾岸線大黒JCTと空港中央ランプの間が開通し、「空91系統」は現在の湾岸線経由に変更された。

かつての首都高速横羽線経由で横浜駅東口から羽田空港まで約21km、現在の湾岸線回りで28kmと、距離は伸びているので、最初は首を傾げたものだったが、所要時間は逆に短くなり、経路変更は定時性の向上が目的であると事業者も発表しているらしい。


平成10年に京浜急行羽田線がターミナルビルまで延伸開業すると、平成14年から羽田空港駅と横浜方面の直通運転が開始されたが、空港での移動距離が地下にある鉄道駅より短く済むのと、必ず着席できることが支持されて、リムジンバスの利用者も多く、現在は1日130往復を超える我が国でも有数のリムジンバス路線となっている。



先程まであそこにいたのだな、と思いながら、ランドマークタワーやみなとみらいの大観覧車の夜景を眺めた後は、車窓が一変して変化に乏しくなる。
いきなり周囲の灯が少なくなって、まるで人里離れた田舎の道路を走っているようで、何だか心細くなる。

首都高速湾岸線が貫くのは、大黒埠頭、扇島、東扇島、浮島と、巨大な人工島ばかりである。

道幅も路肩も極めて広く、多少の上り下りはあるものの、一直線に敷かれている贅沢な道路で、横羽線より遥かに伸びやかな乗り心地なのだが、坦々として欠伸が出る。

横浜と羽田空港を結ぶ道路は、間違いなく進歩しているのだが、進歩と単調さは比例するのかな、と思う。



扇島には製鉄所や石油備蓄基地など重要施設が置かれているため、首都高速湾岸線で通過する以外は、一般人の立ち入りが禁止されているという。

製鉄所は24時間操業とはいえ、人が住んでいないのだから、地方に増して灯が少ないのは当たり前である。


ここにある製鉄所もJFEで、いったいどれほどの規模なのか、と思う。

それでいて、JFEの生産高は我が国で日本製鉄に次ぐ第2位、世界では第12位に過ぎないというのだから恐れ入る。

扇島第1高炉に火が入ったのは、日本鋼管時代の昭和51年だった。

新旧を問わず、羽田と横浜の行き来に製鉄所は避けて通れない景観であり、昭和60年代から「空91系統」に繰り返し乗ってきた僕は、我が国を支えた京浜工業地帯の歩みを目の当たりにしてきたのだな、と思う。



大黒埠頭から扇島へは鶴見つばさ橋、扇島と東扇島は極めて接近しているので橋と気づかないような高架道路で渡り、東扇島から浮島へは川崎航路トンネルへ潜り込んでいく。

浮島と羽田空港を隔てる多摩川も地下トンネルになっているのは、航空機への影響がないようにする配慮だと聞いたことがある。


多摩川トンネルを抜けた「空91系統」を迎えたのは、それまでと打って変わって光の洪水だった。

空港中央ランプで高速走行を終えれば、バスは照明が散りばめられた広大な空港の敷地を回り、第2ターミナル、第1ターミナルの順で降車扱いをする。



この日、僕が第2ターミナルでバスを乗り捨てたのは、もちろんANAに搭乗する訳ではない。

どちらかと言えば、航空機を初体験した30年前からJALのファンなのだが、ライバル会社のターミナルで降りたのは、乗り継ぎを考慮してのことである。


羽田空港を発着するリムジンバスは、周回する一方通行の連絡路の都合であろうか、空港着の便も空港発の便も、第2ターミナル→第1ターミナルの順で停車する。

どちらから乗車しても、定員制であるから必ず席にありつけるのだが、混雑していると、第1ターミナルでは通路側の席しかあいていないこともある。

航空機利用ではなく、バス旅が目的で羽田空港発のリムジンバスに乗る場合、僕は必ず第2ターミナルを使うようにしていた。



3階の出発ロビーでバスを降りると、さすがに、この時間帯で客を降ろしているリムジンバスは少ない。

急ぎ足で2階の到着ロビーに移動しながら、航空機を利用せず、この巨大空港をバスの乗り継ぎに使っているのは僕くらいだろうな、と苦笑いが込み上げてくる。


到着ロビーのリムジンバスのカウンターで、僕は、たった今、飛行機で着いたばかりです、と言わんばかりの澄ました顔で、壁に掲げられている出発案内を眺めた。

ずらりと並ぶリムジンバスの一覧を目にすれば、僅かな路線しかなかった30年前とは隔世の観がある。

ここで、今日はどの路線で自宅に帰ろうか、と思案するのは、いつも楽しい。

いい時代になったものだと思う。



都心方面で圧倒的に本数が多いのは新宿駅西口行きで、中央線の電車に乗り換えれば帰宅できる。

東京空港交通のHPの沿革に羽田空港-新宿線の開業年月日が記載されていないので、同線が、時刻表に掲載され始めた昭和60年前後に開業したのかは、判然としない。


この路線も、「空91系統」と同様に思い出多き路線で、首都高速湾岸線が開通していなかった時代から、幾度か気晴らしに利用したことがある。



空港西ランプから首都高速1号羽田線を昭和島、平和島、勝島と進み、浜崎橋JCTで首都高速都心環状線外回りに進路を変え、芝公園と東京タワーを右手に眺めながら、ビルの谷間を飯倉、三宅坂、霞が関トンネルをくぐって、三宅坂JCTで首都高速4号新宿線に逸れ、赤坂のホテル街、赤坂御所、新宿御苑を過ぎ、半径80mという参宮橋カーブを筆頭に連続するきつい曲線を巧みにすり抜けると、高層ビル街の新宿ランプに着地する、という経路は、東京見物にもってこいであった。


当時の運賃が400円だった「空91系統」に比べれば、羽田空港-新宿線は1000円と懐に痛く、乗る機会はそれほど多くなかったけれども、沿道に緑地も多く、首都高速横羽線より潤いのある車窓に心が洗われた。



杉並区を越えて、吉祥寺駅に向かうリムジンバスもあるが、こちらも乗車経験がある。


数年前、新宿に住んでいた頃に吉祥寺で高校の同窓会があり、一次会で、山口の「獺祭」などの高級酒で気分が良くなり、二次会で1杯100円の安酒をしこたまあおったところまでは覚えているのだが、ふと目覚めると、ホテルの一室にいた。

上着は脱ぎ捨ててあるものの、Yシャツにネクタイを締めたまま、ズボンも履いたままでベッドに倒れ込んだようである。


後で友人に聞くと、「大丈夫、だけど今夜はホテルに泊まる」と言いながら、スマホで吉祥寺駅前のホテルを予約し、心配して同行してくれた友人の目の前で、きちんとチェックインもしたと言うのだが、全く覚えていない。

カーテンを開けると、とっくに夜が明けていた。



安酒はいかんな、と後悔しつつ、二日酔いでふらふらしながら吉祥寺駅まで歩くと、ガード下のバス停に、ちょうど小田急のリムジンバスが横づけされていた。

ずらりと利用客の列が並び、車体の収納庫の前に大きなトランクが積み込みを待っているが、どちらも、続けて発車する成田空港行きのようであった。


羽田空港行きの車内が適度にすいているのを見て取った僕は、あろうことか、ふらりと乗り込んだのである。

どのような経路で羽田に向かうのか、興味津々であったが、バスは井の頭通りを延々と東に向かい、環八に右折して、高井戸ランプで首都高速4号新宿線に駆け上がった。

眼下に広がる住宅街の屋根にきらきらと反射する陽の光が、酔眼に眩しかった。



今回も、吉祥寺ほどではないにせよ、酔いに任せての気まぐれ旅なのだから、どの路線でも構わず、手っ取り早く杉並に戻るのに選択肢はそれほど多くないのだけれど、「空91系統」やリムジンバス羽田空港-新宿線を楽しんでいた頃と異なり、僕は未乗のバスを好むようになっている。


これだけリムジンバスが発達しているのに、自宅の最寄駅に立ち寄る路線がないとはけしからん、などと憤慨しながらも、結局は、中野駅・練馬方面のリムジンバスの乗車券を購入した。

中野駅ならば杉並区の手前だから、混雑する中央線の電車に乗るのは短区間で済む。



ずらりと乗り場が連なっているターミナルビルから外に出れば、午後10時を過ぎていると言うのに、各地へ向かう帰宅客が右往左往し、様々な事業者のリムジンバスがひっきりなしに発車している。

「練馬方面」と前面に掲げた東京空港交通バスに乗り込んだのは10人に満たなかったが、次の第1ターミナルで座席の半分程度が埋まった。


10分前に新宿方面のバスが発車していったのを見送っているので、僕が乗る中野・練馬方面のバスも、同じ道筋を追いかけて行くことになるのだろう。



空港中央ランプから首都高速湾岸線に乗り、夜の埋立地を走って大井JCTから首都高速中央環状線に歩を進め、山手トンネルに入り込んだ。

モグラになったような気分で、曲がりくねった薄暗いトンネルを突き進み、中野長者橋ランプで地上の山手通りに飛び出すまで30分もかからない。

かつてのリムジンバスは新宿まで1時間以上を要したのだから、便利になったものだ、と舌を巻いた。


バスは更に北上して、中野坂上交差点で青梅街道に左折する。

青梅街道はJR中央線の南側を並走しており、地下には地下鉄丸ノ内線が走っている主要街道で、JR線とは離れていても、丸ノ内線の駅の周辺には繁華街も多く、沿道の明かりはなかなか華やかである。

車で何度も走ったことがあるけれど、こうしてバスの高い視点で眺めれば、見慣れた夜景も新鮮に感じる。


新中野駅に近い杉山公園交差点を中野通りへ右折すれば、途端に狭隘な道路に変わり、路上駐車や右折車両に進路を妨げられることも多く、もどかしくなる。

それでも、僕が降りる中野駅前まではおよそ1kmあまり、5分も掛からなかった。



バスが停車したのは、中野駅のホームをくぐるガードを潜り抜けた先の、中野サンプラザの脇であった。


時刻は午後11時半になろうかと言う頃合いで、羽田空港でかなりの待ち時間があったとは言え、横浜から2時間以上を費やしたことになるが、懐かしい路線と、未乗の新路線を組み合わせたささやかな行程と、夜景を堪能できたことに、僕は満足していた。

バスを降りると生暖かい雨がまだ降り続いていて、酔った足には駅までちょっと遠いな、と恨めしくなったけれども、沿道には様々な飲食店が、ちょっと寄りませんか、と誘うように軒を並べている。


交流会でしこたま腹に詰め込んでいるのだぞ、と自戒しながら、僕は鞄から折り畳み傘を取り出す手間も惜しんで、駅へと歩を速めた。





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