狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

バイデン大統領次男ハンター氏に有罪評決 現職大統領の子息の有罪は初

2024-06-12 13:47:26 | 政治

 

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バイデン大統領次男ハンター氏に有罪評決 現職大統領の子息の有罪は初

 

米バイデン大統領次男に有罪評決、薬物依存を隠して銃を購入 再選に向け痛手

11日、米デラウェア州の連邦地裁を後にするハンター・バイデン氏(中央)(ロイター=共同)

【ワシントン=渡辺浩生】バイデン米大統領(81)の次男ハンター氏(54)が薬物依存を申告せずに不法に銃を購入したとされる事件で、米東部デラウェア州の連邦地裁の陪審員は11日、ハンター氏をめぐる3つの罪状全てに有罪の評決を下した。現職大統領の子に対する有罪評決は米史上初めて。11月の大統領選で再選を目指す民主党のバイデン氏の選挙戦に痛手となる可能性がある。

先月末には、共和党の指名を確実にしたトランプ前大統領(77)が自らの不倫口止め料の会計不正処理事件で、大統領経験者として初めて刑事事件の「有罪」となった。今月27日には第1回の候補者討論会が予定され、それぞれの評決をめぐり、バイデン氏とトランプ氏の非難の応酬が激化するのは必至だ。

ハンター氏への量刑は120日以内に言い渡される見通し。大統領選前に言い渡されるのは確実だ。バイデン氏は声明で「裁判の結果を受け入れ、司法手続きを尊重する」との考えを示した。米メディアには以前、恩赦する考えはないとも答えている。

起訴状によると、ハンター氏は18年10月、デラウェア州で拳銃を購入した際、連邦申告書の「薬物依存である」との項目にチェックを入れなかった。検察側は、実際にはハンター氏が銃購入の前後に薬物を購入し、使用していたと主張。また、18年の銃購入後、ハンター氏が死亡した兄の妻にあたる交際中の女性に対し、薬物密売人を待っていることやコカインを吸引しているとのメッセージを送信していたことも明らかにされた。

米メディアによると、ワイス特別検察官は「銃と薬物の組み合わせは彼の行動を危うくした」と指摘した。ハンター氏はカリフォルニア州で脱税などで起訴されている。トランプ氏も他に3つの刑事事件に問われているが、陣営は声明で「バイデン犯罪家族」とバイデン氏の責任を追及。反撃を強める可能性がある。

読者の皆様には大変ご心配おかけしましたが、念願の拙著『沖縄「集団自決」の大ウソ』(第2刷)が完成いたしました。

皆様のご支援感謝申し上げます。

 

慣れぬ仕事で配本名簿にミスが生じる可能性もあります。

そこで、ご注文、御献金の方で来週末までに本が未着の場合、下記メルアドまで配送先及び冊数をご一報くださいますよう再度お願いします。

メルアド⇒ ezaki0222@ybb.ne.jp

                 ★

『沖縄「集団自決」の大ウソ』、好評発売中です

  •  

新聞「アイデンティティ」2月1日号に拙稿「沖縄を歪めた沖縄戦後史の大ウソ」が掲載されました。

 

沖縄を歪めた戦後史の大ウソ

~『沖縄「集団自決」の大ウソ』~発刊をめぐり~

 江崎 孝 (ブロガー:「狼魔人日記」管理人)

 

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   * 名義:江崎 孝
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沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」⑲

2024-06-12 06:33:03 | ★集団自決

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予定では今日19日は関西の旅を終え、新幹線で東京に向かっています。今日から24日まで東京泊の予定。

今夜は東京では新婚一か月の長女夫妻が晩飯をおごってくれるというが、Wカップの日本vsオランダ戦が今夜の予定なのでどうなるやら・・・。

本日も予約更新です。

                      ◇

 

沖縄紙に限らず新聞ががデタラメ記事を確信犯的に書いて、抗議を受けたら後で小さな訂正記事で逃れるのはよくあること。 

その実例を、過去記事を編集して再掲する。

沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」

読者の前慶良間人さんから、沖縄タイムスの捏造記事に対する「お詫びと訂正」記事のコメントがありました。

捏造記事とねじ曲げの実態 (前慶良間人)
 
2007-07-22 10:34:13
 
7月21日(土)タイムス朝刊の社会面の一番下「おわびと訂正」を見て下さい。ひどい捏造の実態と、タイムスの願望が明らかです。渡嘉敷島の取材記事についても非常に疑問です。 

 

                     * 
 
沖縄タイムスには呆れる! (狼魔人)
 
2007-07-22 18:16:04
 
前慶良間人さん

コメントありがとう御座います。

>「おわびと訂正」

県議団の現地調査がデタラメなのを白状した訂正記事ですね。

「軍命令はなかった」と断言している金城武徳さんの証言も、沖縄タイムスの記事にかかると

≪金城さんは「軍の命令があり、村民は集落から移動した。・・・・」≫ー沖縄タイムス6日夕刊

と、いかにも「軍命令があった」と印象操作する沖縄タイムスはもはや、新聞の名に値しないですね。

又貴重な意見を聞かせてください。 
 
 

この沖縄タイムスの捏造記事は次のようになっていました。

見出しが、

隊長「死になさい」

<軍命ない限り悲劇おこらぬ>

座間味体験者、切々

これが誤報だったというから驚きだ。

しかし実際は誤報だった。

しかもこの訂正記事が小さなベタ記事で、よっぽどで無いと気がつかない。

こうなると、沖縄タイムスの確信的犯行と思わざるを得ない。

【追記】7月23日

上記見出しの該当記事を下記に引用します。

《「軍の命令がない限りは、日本兵が入ってこなければ、そんなこと(『集団自決』)はなかった」。6日、県議会文教厚生委員会(前島明夫委員長)の聞き取り調査に応じた座間味村の「集団自決(強制集団死)」体験者6人は、それぞれの体験を率直に証言した。聞き取るのがやっとの小さな声で話したり、じっとうつむいたり。語り、向き合うにはつら過ぎる62年前の記憶を口にしたのは、「教科書からの軍関与削除は絶対に許せない」との思いを伝えるためだった。》《吉田春子さん(81)は1945年3月25日、妹を連れて日本兵がいる壕に避難した。翌26日になり壕が米軍に攻撃され、夜になったら脱出しようと相談し、その夜に玉砕命令を聞いた。だが「母と会うまでは死ねない」と逃げだし、助かった。》
《当時25歳だった大城澄江さん(87)は座間味島への米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、壕内で「忠孝碑の前に集まれ」との声を聞いた。一度は忠孝碑の前に行ったが、その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。逃げ場を失い、自決しようとしたが爆発せず、生き延びた。》 《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(
沖縄タイムス 7月7日)

 【付記終了】

問題の記事の前日6日の沖縄タイムスでは「軍命はない」と証言し続けている金城武徳さんの県議員団の聞き取り調査も次のとおり報じている。

集団自決」の現場では、体験者の金城武徳さん(76)と吉川嘉勝さん(68)が当時の状況を語った。金城さんは軍の命令があり、村民は集落から移動した。米軍の迫撃砲が着弾する中で村民が集合し、村長が『天皇陛下万歳』と叫び、手榴弾が破裂した」と証言した。(沖縄タイムス)「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】

単に集落から移動したことを、「軍の命令があり」と印象操作する卑劣さである。

知らない人がこの記事を見たら金城さんは「軍の命令で集団自決をした」と証言したとミスリードされる。

琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。

【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o

                    ◇

 

産経新聞那覇支局長の小山さんのブログで沖縄タイムスの「誤報」「訂正記事」についてエントリーしているので、丸ごと引用させてもらいました。

以下引用。

訂正記事というのは、人ごとではないので、あまり追及したくないのですが…。

沖縄タイムス(7月7日)の1面、社会面でこのような記事が掲載されました。
見出しは、隊長「死になさい」。

座間味島の集団自決に関する県議会の聞き取り調査で、
軍命を出したと言われている梅沢裕部隊長が、
村民を集めて「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでいるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話した、
との証言が84歳の女性からあった、と紹介されています。

梅沢氏はふだんから、そういう言動をしていた人物であるという印象を強調する効果のある記事です。




ところが7月21日朝刊には、次のような「おわびと訂正」が掲載されました。
要するに「舌をかみ切って死になさい」と言ったのは、
梅沢氏ではなく、別の日本兵であり、記者が聞き間違えたという内容です。

梅沢さんの人権にかかわる胸の痛む誤報です。



それでも当然とはいえ、訂正記事を出したことは評価していいです。
「鉄の暴風」ではもう1人の赤松氏がいまだに実名で鬼のような隊長として描かれたまま、書店に並んでいることに比べれば…。

ただし、問題があります。
沖縄タイムスのデータベースを検索したら、ほぼ2日経過した今も、誤報記事がそのまま出てきました。
何の注釈もなしです。
これをもとに、やはり梅沢氏は非情な性格だったという人物像が、ふくれあがっていき、
集団自決の軍命を下したに決まっている、という世論誘導につながっていくとしたら、心配です。

早急なデータベースの対処を望みます。

 

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コメント (2)

全ては『鉄の暴風の大ウソ』から始まった

2024-06-12 04:27:49 | 政治

 

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❸『鉄の暴風』もう一人の執筆者、牧港篤三の告白

2022-05-19 08:39:51 | ●●沖縄の黒歴史
 
本書のタイトルが『沖縄を歪めた戦後史の大ウソ』と記載されているのは前著『「沖縄集団自決」の大ウソと深く関連しているから。
一言えば『鉄の暴風』が」ウソ塗れだから、ということだ。
 
ここで『鉄の暴風』がばら撒いた大ウソの中で特筆すべき大ウソを紹介しよう。

敗戦直後の昭和24年。

交通手段も通信設備もすべて米軍により破壊された。

そんな沖縄で出版された『鉄の暴風』には、数々の謎をはらんでいる。


 先ず、第一の謎はこれだ。

何故素人同然の太田記者に沖縄タイムスは『鉄の暴風』の執筆という重責をゆだねたのか。

交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で素人の太田氏が「(集団自決の)体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等全ての手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられない。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。ちなみに当時の又吉那覇市長の名ににちなんで「又吉通り」とよばれていた。

 その頃の那覇の状況は、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。

■三ヶ月の取材
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も「米軍の支援」を考えれば、納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国際通りに面した映画館「国映館」の近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、現在の浮島通りにその名前を残している。 浮島ホテルは当時としてはそれほど大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 

当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。

『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」(沖縄タイムス)が集め、「社」のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、当時GHQに勤務していたアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、その一方敵軍のアメリカに攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。

しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

008年12月11日(木)

名誉毀損の基準をめぐっての戦い

『沖縄戦記・鉄の暴風』(沖縄タイムス 昭和25年8月15日 初版)が軍の命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと記述し、さらに『慶良間列島・床敷の戦闘概要』(昭和28年3月28日渡嘉敷村遺族会編集)にも隊長による集団自決命令が出たと記載されている。これらが、『沖縄ノート』(大江健三郎著)など後の書物に子引き孫引きの形でそのまま引用されていった。

■曽野綾子の疑問

渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長の自決命令に対する疑問について曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにしている。

曽野氏は軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われた最初に記載したのが沖縄タイムスの(鉄の暴風)、これを基に作成したのが『渡嘉敷の戦闘概況』と推測している。その理由として『渡嘉敷の戦闘概況』に『鉄の暴風』と酷似する文章、表現が多数見られ、偶然の一致であはあり得ないこと、引用した際のものと思われる崩し字が『渡嘉敷島の戦闘概況』に見られうることを挙げている。さらにこれを基に作成されたものに『渡嘉敷島における戦争の様相(渡嘉敷村・座間味村共編)

■後でウソであることを確認した自決命令

ところが、『渡嘉敷島の戦闘概況』には記載のある部隊長の命令『渡嘉敷島における戦争の様相』には記載されていない。渡嘉敷島が作成した資料にはこれほど重大な事実が、不注意で欠落することは考えられない。 結局『渡嘉敷島の戦闘概況』作成当時には部隊長の自決命令を確認しないまんままであったが、『と化し敷島における戦争の様相』作成当時には部隊長の自決目命令がないことが確認できたから、記載から外したことは明らかである。つまり渡嘉敷村も隊長命令が無かったことを認めている。

■豊平良顕―沖縄タイムス元社長

沖縄タイムスの豊平良顕から依頼され『鉄の暴風』を作成した太田良博は証言者二人の話をもとに作成したと語っている。

証言者は当時座間味村の校長の山城安次郎氏と南方から復員して帰っていた宮平栄治氏であった。しかし、宮平氏は事件当時南方にいて、現場を見ていない。

また山城氏が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である。座間味島の集団自決を目撃したとしても、渡嘉敷島の集団自決の目撃者にはなり得ないのは明白である。

しかも太田氏はこれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷島の集団自決を含む沖縄全体の戦史を三ヶ月で作成したと言い。「時代が違うとと発言しますと見方をも違う」と発言します。見方が違ったから事実があったりなかったりするのでは戦史としての意味はなく、単なる物語と言われても仕方がない。

■地元出身ー知念元少尉の証言

地元出身の知念元少尉の証言は、決定的であった。

曽野綾子氏をして「見てきたような講談」と言わしめた知念元少尉はこう証言している。

「西山A高地に人知を移した3月27日地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食料を確保して、持久体制を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している」とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり,慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」という記載がある。

■『鉄の暴風』の」問題部分

曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにし『鉄の暴風』の渡嘉敷島の集団自決に関する問題部分をさらに詳しく挙げると次の通りである。

➀直接体験者でない山城安次郎と宮平栄治からの伝聞証拠い過ぎないものを基に作成している。

②『鉄の暴風』と『戦闘概要』『戦況報告書』は記載内容が酷似しており、別の文章とは思われない程の類似性があること、結局、子引き、孫引きであり、最初が間違えていれば、次々と間違いが繰返される構図である。

③『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないこと。

④将校会議の開かれた地下壕で知念少尉が聞いたという赤松隊長の自決命令がないこと。

⑤渡嘉敷島への米軍上陸が昭和20年3月27日午前9時であるところ、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦況報告書』は何れも3月26日と記載しており、多くの人の命日となった集団自決が3月28日であるところ、前日の米軍上陸の期日という重大な事実を偶然しても3件とも間違えたのは不自然である。

⑥自決命令を村長に伝えたはずの安里順駐在巡査が自決命令のなかったこと明言している。

■著者太田氏の大ウソ

太田氏は、伝聞証拠でないことを示す証拠を明らかにするとして沖縄タイムス(昭和60年4月8日付)上で反論を開始した。

『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する証拠を誰に聞かれて取材したかと曽野氏に聞きかれた時、太田氏は「ハッキリ覚えていない」と答えたことを認めるものの(4月9日分)ただ、宮平栄治氏と山城安次郎両名が、沖縄タイムスに訪ねてきて赤松隊長の暴状について戦記に載せてくれと頼んだことは認めている。

さらに太田氏は、『鉄の暴風』は沖縄戦の全容の概略を伝えるための者であり証言集ではない。だから名前を記録しなかった。あるいはさらに一度に多数の人に会って事情を聞いたので、誰であったかいちいち覚えていないという。

しかし、生死の境をくぐってきたばかりの証言であるから虚偽が介在する可能性がないと決めることは信用性吟味視点が全くなかったことを明らかにしているし、そもそも誰が証言したかは明らかではないということは、住民の証言の信用性を確認する方法がないことに他ならない。

加えて、太田氏は「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、実体験者であない者の伝聞証拠を採用するはずがないという。(4月10日分)

■曽野氏「新聞ほどウソつきはいない」

沖縄タイムス出生の秘密!「新聞が嘘つくはずないさ~」はキケンです。【2】

曽野氏はこの点を、新聞社の集める「直接体験者の証言」なるものの中には、どれほど不正確なものがあるか分からない、例えば、朝日新聞は中国文化大革命の時代に林彪失脚の情報が世界に喧伝されるなか、朝日新聞の北京特派員が取材した林彪の健在の誤報を流し続けた例もある、と太田氏を批判している(5月3日)。

結局、太田氏の曽野氏に対する批判は、弁解と些細な揚げ足取りと論理のすり替えに終始している。

全ての原点である『鉄の暴風』が主張する「渡嘉敷島の集団自決が、の隊長命令」が、全くの大ウソであるあったことを『鉄の暴風』の著者自らが明らかにウソをついたと白状している。

■追い詰められた沖縄タイムス

『鉄の暴風』の記述が大ウソであるととが暴露されると困る人達が続出した。

『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないと記載されていること。

『自決命令がなかったとすると沖縄の言論界は軍と住民の対立構図のもと、軍は加害者で悪、住民は犠牲者で全の構図が崩れる。

軍は住民を守らないということの象徴である「自決命令」が無くなってしまえば沖縄の反軍、反日本という支柱が崩壊してしまう。

さらに命令による自決によって零歳児でも戦傷病戦没者遺族等(援護法)の申請時に集団自決が隊長命令で援護金を貰っている人もいる。

追い詰められた沖縄タイムスの第一は昭和20年3月20日に渡嘉敷島17歳未満の少年と役場の職員に手りゅう弾が配られ、一発は敵との戦いに一発は自決用に配られたという記事が、昭和63年6月16日に朝日新聞に當山真順という人物の語ることとして掲載された。

富山真順という人物は渡嘉敷島の兵事主任で、何度も沖縄戦につい資料に登場しているが、昭和20年3月20日に手りゅう弾が配られたということをそれまで一度も話したことは無かった。

■富山真順の大ウソ、渡嘉敷島史料編(昭和63年3月31日)

渡嘉敷島史料編では富山真順の戦争体験の陳述があるが、「十七歳未満の少年に手りゅう弾を配った」という事実のそのものの記載が全くない。

それが昭和62年になって唐突に手りゅう弾配布を持ち出した。

そして部隊長による自決命令を主張する者は、手りゅう弾を配ることは自決命令を下したことを意味するという論法をたてた。

これが『「沖縄集団自決」の真実』(ワック刊)以降、渡嘉敷島の隊長命令が無かったことを定説化しつつあった流れを、揺り戻す試みとして持ち出された。

富山真順が、これほど重大な事実を当時、経験していたのであれば、昭和63年作成の村史資料編の富山真順の戦争体験の陳述書にも、その他の資料にも当然その事実を記載するべきであった。ところが村史料編などにそれまで全く記載されていない。全く不可解である。

渡嘉敷村史資料編と同村通史編のいずれも戦争編は、安仁屋政照沖縄国際大学教授が記載している。

■証言を変えた証人たち

梅澤隊長の自決命令についても、援護金請求のため、隊長命令があったと虚偽を申し立てたと詫びの証文を入れた宮村幸延氏は島の長老に責められて、その証言を騙されて書かされた」言いだした。

さらに泡盛で泥酔するまで酔わされて書かされた証言だとか、宮村幸延氏の筆跡とは異なるものであり、梅澤氏が書いたものだと言い出す始末だ。

しかし筆跡は明確なものであっり、泥酔した者が書けるものではない、私の文章ではないと後日、書面を寄せた宮村幸延氏の筆跡と極めて酷似した筆跡である。

また証文には梅澤裕の「裕」の文字が間違って書かれている。梅澤隊長が記載したのなら、自分の名前を間違えるはずはない。

ところがこの裁判が始まり、文科省の教科書改訂が平成19年3月20日に行われ、沖縄県市町村議会の抗議運動の中で沖縄県市長村議会は議長らの現地調査があった。平成19年6月24日宮村幸延氏の妹である宮村春子氏が兄の盛秀氏から「軍から命令が出た」と聞いたというのである。

また宮城晴美氏は、自著『母の遺したもの』で同氏の母宮城初枝が厚生省援護課の事情調査で梅澤隊長の自決命令はあったかとの問いに「はい」と答え、雑誌『家の光』に投稿し「梅澤隊長から自決命令が下った」と書いたのはま違いだった」と明確に指摘している。

おそらく、初枝氏は、隊長命令を覆したことから沖縄で批判され、宮村幸延氏は梅澤隊長に証文を出したことから座間味村で遺族会長を更迭され、座間味村だけでなく沖縄の多くの人から非難に晒されたことが推測できる。

『ある神話の背景』で曽野氏の検証的態度を高く評価した大城将氏は、その後、前言を撤回している。沖縄戦で事実を語ることが如何に難しいかを如実に示す例である。

■法廷での大江健三郎

沖縄タイムス著作による『鉄の暴風』で、次々と証言者が証言を変え、沖縄戦で真実を証言することの困難さを思い知らされた。

そんななか、最も重要な証言者大江健三郎氏が証言台に立つことになった。

大江氏と言えばノーベル文学賞でその名を知られ、大江・岩波訴訟の被告として『沖縄ノート』で「屠殺者」「罪の巨魁」など元軍人を散々罵倒しておきながら、いまだに内容を変えず重版を重ねている人物だ。

その最重要証人が証言台に立つというのだ。

これには沖縄論壇の左派「軍命派」も右派「軍命無し派」も、どのような絶対的証言が飛び出すかと、色めき立った。

そして、結局大江健三郎氏は、勝訴した。

『沖縄ノート』で主張した「軍命の有無」ではなく、名誉棄損で敗訴した。

大江氏は勝負(裁判)に負けたが勝負(軍命)に勝った。究極の証言「軍隊の縦の構造」という勝負で・・・。

 

大江氏を支援し『沖縄ノート』を重版してきた岩波書店も共犯者であり、同じく伝聞記事で大江を扇動した沖縄タイムスも共犯者である。彼らが戦後60年あまり振り撒いてきた「非武装中立」の幻想は、きわめて有害なものだった。結局大江氏と岩波書店は勝訴したが、彼らは裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた。『沖縄ノート』の大部分は、『鉄の暴風』の”見てきたような”嘘を文学的に加工した「創作」である。『沖縄ノート』は、事実に目を伏せる「進歩的文化人」の知的不誠実の証拠として永久に歴史に刻まれるだろう。

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■究極の「軍命」-縦の構造■沖縄タイムスのセカンドレイプ記事、1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

2024-06-11 10:37:05 | ●●沖縄の黒歴史

 

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■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果
 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。

一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去った。

赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。

この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。

■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。 

後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。

ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を免責している。

沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。

■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場

この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。

過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

 

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。

金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。

≪1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった肉親を殺し、自分も死ぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》

                   ◇

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

沖縄県民は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄県民の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。

金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。

金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。 

「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
    そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。 
 私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
  そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))

上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。

しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。

銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。

では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。

渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。

ところが想定外の事が起きた。

金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。

これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。 

この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。

「合計何人殺しましたか」

しかし、金城は沈黙して、答えない。

そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。

今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。

「証人がいいたくないことを、それ以上問い詰めるな」と。

この裁判長が介入した場面について、秦郁彦は曽野綾子との対談で、こう述べている。

「これは、全裁判を通じての決め手かと思った。 要するに金城牧師は、一種の「殺し屋」だったということ、しかも彼は他の人も殺したのを今までかくしていたんですよ。 それを認めちゃった。 ですから、彼の証言は、すべて当てにならないということにもなります。彼はその後も集団自決は軍の命令と声高に叫び続けているのです。偽善者の典型ですね。」(『「沖縄集団自決」の謎と真相』)

歴史の専門家の秦郁彦が「勝負あった」と感じたこの場面で、秦は金城重明が偽善者の典型と見抜いたのだ。秦は慰安婦問題で詐欺師・吉田政治の嘘を現地調査で嘘と証明した実証的歴史家として知られている。

一方、作家の曽野綾子は金城重明の印象をどう見ていたか。

曽野は、「自分は勘だけはが良い方だ」と断りながら金城牧師の初めて会った時の印象は「なんて変なひとだろう」と思ったという。

曽野が金城牧師に面談し時、金城が「一人の人間は地球より重いとイエスが言われた通り」と述べたので、同じクリスチャンの曽野は「イエスはそんなことおっしゃっていません」と反論した。曽野は、金城が牧師でありながら聖書もよく読まずに聖書を平然と間違って引用する態度を見て、信用できない人という印象を受けたという。 曽野は金城に面接取材した時も「この方は後で『そんなことは言ってなかった』と言われそうだと思った」ので、金城重明の証言だけ特別に録音していた。

金城重明に関しては歴史の専門家の秦郁彦も作家の曽野綾子も期せずして慰安婦問題の詐欺師・吉田政治と重ねて偽善者の印象を持っていたようだ。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」などと弁明しながら肉親や他人を殺害し、その一方で「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と自己弁するのは責任転嫁の典型であり、吉田政治と同様の詐欺師と言われても仕方がない。

 さらに金城重明は「軍の命令」を証言するには不適格な人物と言える発言をしている。

2007年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのだ。

証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)

金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。(「Viewpoint  August 2008」よりー太字強調は引用者) 

 仮に「自決命令」が事実だったらどうなるか。

自決命令を出した相手が生きてウロウロしている姿を発見したら、命令した日本軍は、「命令違反」として即座に射殺するか斬殺するだろう。

ところが『鉄の暴風』が「鬼の赤松」と決めつけた赤松大尉は、実際は傷の手当ばかりか、薬の世話までしてくれたのだ。

玉砕で死んだと思われていた赤松隊長に会った時の状況を金城は後にこう語っている。

一緒に死ぬはずが、どうして生きているのか。裏切られた思いが出てくるわけです。実は私は赤松隊長に山の中で偶然二度あっているのです。一回目会った時は硬い表情で、一言も話さなかったのですが、二回目に会った時は『われわれは、大本営に報告しなければいけないから、生き残らなければならないんだ』と、言っていました」(『僕の島は戦場だった』佐野眞一著)

結局、赤松隊長は生き残った金城重明を見ても、追加の命令は出していない。軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であったことを自白したに等しい。

 

■軍命令はすべて推論■

軍命令をにおわす証言については、金城氏はこれまでいろんな場面で証言しており、それが62年も経った今頃になって新しい証言が出たらかえって信憑性を疑われるだろう。

結局、金城証言のどこを見ても「体験者」としての証言ではあっても「軍命を聞いた」証人ではない。

琉球新報によると「軍命あり」と断定する部分は次の点だ。

①村長が音頭を取った「天皇陛下万歳」とは玉砕の掛け声。 村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。

②村長が「天皇陛下万歳」唱える前、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。

③軍から手りゅう弾が配られた。 

琉球新報の論理に従えば、村長が独断で自決命令を出すのはありえないので、軍から命令が出たに違いないということ。

「Aが○○をすることはあり得ないから、Bがやったに違いない」。

これは原告弁護団がいみじくも言うように金城氏の「推論」であり、彼の証言は「悲惨な体験」の証言者としては価値があっても、金城氏が集団自決隊長命令を語る証人として資格が無いことがはっきりした。

■耳打ち「それが軍命だった」ー伝聞の又伝聞■

ところが元々論拠があやふやな金城の軍命説を補強するために、被告側は渡嘉敷出身の吉川勇助氏の証言を法廷で金城の推論の補強に使った。

少し長いが、伝聞による金城重明の証言を補強する証言が、更なる伝聞であるというデタラメな「軍命」証言を知る意味で、以下に全文引用する。

≪吉川勇助さん -上- (2007年6月14日沖縄タイムス朝刊総合3面)
村長の「陛下万歳」合図に
(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 渡嘉敷島。西の御嶽と日本軍の北山(にしやま)陣地の谷間。一九四五年三月二十七日、米軍上陸後、各地に避難していた住民が、軍命でフィジガー、後に第一玉砕場と呼ばれる場所に集められた。

 

 住民は家族や親族、集団ごとにまとまっていた。当時六歳で、母親と妹と来た新崎直恒(69)。グループには手榴弾がなく、知り合いの集団に加わった。その輪には直恒らが「皆から、とても信頼をされている人」と話す、当時十五歳で役場職員の吉川勇助(78)がいた。

 

 勇助の家族で七、八人、直恒らも合わせると、輪は合計二十人になっていた。輪には勇助が二発、兄が二発、計四発の手榴弾があった。「役場に集められてもらった。一つはあまりに旧式だと、村長に九七式という新しい型に換えてもらった」と説明する。

 

 米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。

 

 役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。
 しかし、村長は、防衛隊員の言葉に「うん、うん」と何度もうなずいた。おもむろに立ち上がり「天皇陛下万歳」と叫んだ。
 それが号令となった。フィジガーのあちこちで、手榴弾がさく裂した。バン、バン、バン。勇助の輪でも手榴弾を爆発させようとしたが、すべて不発だった。
 しかし、周りでは血だらけの遺体、手や足が吹き飛ばされた人、悲鳴、泣き声、地獄図だった。
 そのうちに、生き残った者たちが生き地獄を逃れようと、群れを成し北山陣地を目指し始めた。
 勇助たちも陣地になだれ込んだ。「それを見た、隊長はものすごい勢いで怒った」。村長に伝令した防衛隊員も、本部に来ていた。住民が殺到する混乱の中で、腰に下げた、銃剣用の剣が手榴弾に当たり、「しまった」という言葉と同時に爆死した。
 村長の傍らで一部始終を目撃した勇助は「住民が勝手に死ぬことはあり得ない。村長に伝えられたのは軍命だった」と語気を強めた。=敬称略(編集委員・謝花直美)》

 

吉川氏によると村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令(らしきもの)が伝えられ、村長が号令をかけた事実だけは判明する。

しかし金城氏は軍の命令を直接聞いていない。 しかも、他人の伝聞、それも「耳打ちしたのを見た」であり、耳内の内容を聞いたわけでも無い。

金城氏は伝聞のその又伝聞を自分の「推論」の補強にしているに過ぎない。

推論が推論を呼ぶともはや法廷の証言者としては欠格である。文学の世界では興味深い逸話でも、これが法廷での証言のもなると法廷を混乱させるだけである。

おまけにその耳内を目撃した吉川勇助氏の証言によると、耳打ちの最中にすさまじい迫撃砲や艦砲射撃の爆発音で、その伝聞の伝聞さえ爆音で聞き取れなかったのだ。

このような状況での「耳打ちを目撃」した吉川証言に頼らざるを得ないほど金城氏は「隊長軍命令」を語るには不適格な証言者なのである。

■究極の「軍命」-縦の構造

元々曖昧だった金城重明の「軍命」を、補強する意味の吉川勇助の「耳打ち軍命説」が登場するに及び、軍命説が総崩れの様相を呈してきた。曽野綾子や星雅彦が現地で聞き取り調査した結果「軍命があった」というコメントは一度も聞いていないという。のだから当然の結果である。

しかし、ここで登場するのが裁判の被告人が語る究極の「軍命」だ。2007年11月9日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷した。

大江は、「軍命令はあったと考えている」「(『沖縄ノート』の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えた。

日本軍の縦の構造とは、命令系統が縦割り社会という日本軍組織の特徴を意味し、軍隊の最高司令官が下した訓示などに「決死」とか「玉砕」などの文言があれば、それは「自決命令」を意味することであり、現場の隊長の個々の「軍命」など必要ない、という極めて乱暴な主張である。

 

■真実の吐露■

「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」と題するフォーラムで集団自決の現地取材に深く関わったジャーナリストの鴨野守氏が「集団自決の生き残りという人がいろんな証言をしているが、出来ることならジャーナリストとして集団自決で死んだ人たちの胸の内を聞いてみたいとを語った。

なるほど、いろんな沖縄戦の体験者が連日新聞の特集欄を賑わしているが実際の集団自決の生き残りの証言は少ないし、ましてや生き残ることもかなわず死んでいった人々の胸の内を聞く事は誰も出来ない。生き残りの証言者たちは集団自決の生き残りではあっても実際には自決しなかった。

もし、軍の命令を主張するのなら彼らは「軍命違反」して生き残ったことになる。

軍命令違反は軍法会議か即処刑だろうが、それはさて置いても生き残った者に複雑な心理的葛藤が起きても不思議ではない。

本人の意識、無意識に関わらず証言には自分が手にかけた家族への贖罪の気持ち、音頭を取った村長としての自責の念など、これらが渾然一体となって微妙にその証言に影を落しても不思議ではない。

宮平さんの「論壇」の次のくだりを思い起こしてほしい。

≪彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族以外の何物でもなかったのだろうと考える。≫県民大会開催に反対する 

金城氏は被告側証人として「軍命があった」を証言する筈だったのが自分が手をかけた家族のくだりになると「本心」を吐露して上記引用の宮平さんの意見を裏付ける証言をしている。

≪金城さんは家族を手にかけたときの気持ちについて、「米軍が上陸し,(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常に恐怖で、愛するが故に殺した」と語った。≫(琉球新報一面)

この部分は新報記事の「金城氏の証言骨子」には何故か記載されていないが、計らずも金城氏は、「集団自決は軍の命令や強制ではなく、家族への愛だった」と、真実の証言をしてしまったのだ。

 

参考までに沖縄タイムスで金城氏の「家族に手をかけた」くだりを見ると、

「手をかけなければ、非人情という思いがあった」と簡単に記するに留めている。戦隊長下の軍命証言/「集団自決」沖縄法廷

タイムスがあまり触れたくない金城氏のコメントは被告側にとっては致命的な「本音告白」だったのだろう。

金城氏の証言は被告側にとって思わぬ自殺点(オウンゴール)になってしまった。

■金城兄弟は父親殺害を隠していた■

もう一つ疑問がある。

金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。

多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下した。

だが、注目すべきは、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害している点である。

これは集団自決の場合でも他に類を見ない例である。

やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。

 

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

2008-07-11

2008年の雑誌『WILL』増刊号で、集団自決問題の真相解明に精力的に調査活動を続けているジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」が掲載された。

3月28日の大阪地裁の判決文には、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、裁判長がわざわざ沖縄まで出張して尋問(非公開)した金城重明への言及が全くなかった。

裁判前後から集団自決体験者の生き残りとして、県内二紙が絶えず金城の一挙一動を大きく報じ、県内各地は勿論本土各県にも講演に出かける、いわば集団自決証言者のシンボルともいえる金城氏の、わざわざ出張までして行った法廷証言が何ゆえ判決文では無視されたのか。

これに着目した鴨野氏は、彼のこれまでの証言などを掘り起こしながら、なぜ金城証言は無視されたかを検証し、金城氏がすでに語ったものとは違う「集団自決の真相」に迫った。

雑誌『WILL』増刊号に寄稿した鴨野氏の渾身のレポートはこのような動機で書かれた。

重要ポイントになる一箇所のみを引用する。(強調は筆者)

< 昨年九月十日午後、福岡高裁那覇支部で行われた所在尋問(出張法廷)で、金城氏は証人として証言した。この尋問は非公開であるが、そこでのやりとりは反訳されて文書にまとめられている。自決の場面を、氏は次のように語っている。
  「多くの家族がそれぞれ身内の者を殺していく。その主役を演じたのは父親です。しかし島では父親は軍隊に行ったり、県外、海外に出稼ぎに行ったりして数は少ない。したがって、そのかわり祖父がその役割を演じる。自分では死ねない幼い子供、女性、老人、そして最終はみずからも死んでいく。そういう手法でした。私たち家族に関しては六名家族ですけれども、父親は離れて、おりません。
ですから手をくだす人はいないわけです。二つ上の兄と私は男性ですので、これは当然自分たちがやるべきことだと、・・・

金城氏は出張法廷で、他の家族は力のある父親や祖父が身内を手にかけていったが、自分の家族は父親は離れていたので、仕方なく自分と兄が家族に手をかけたのです、と“釈明”している。

ところが鴨野氏の調査によると、金城兄弟は父親も殺しており、その後沖縄紙の発言や講演などでも父親殺しは隠して発言している。

金城氏は何ゆえ一家の大黒柱の父親を殺害していながらそれを隠し続けてきたのか。 鴨野氏は告発する。

渡嘉敷島の住民たちのほとんどは、金城兄弟の父親殺しを知っていたが、一家の大黒柱をその子供が殺害することは隠し置くべきタブーとして口を噤んでいたという。

沖縄のマスコミが決して報じることのない、鴨野氏のレポートを読んで、一番胸のつかえの下りた人たちは、渡嘉敷島の集団自決被害者の遺族の方々ではなかっただろうか。

彼らが言いたくてもいえない「真相」を、鴨野記者が代弁してくれた形になったのだから。

 
 
                      ◇
■『沖縄ノート出版差し止め訴訟

 大江健三郎と岩波書店は厚顔無恥にも、『沖縄ノート』の誤った記述を変えないまま発行し続けており、梅澤・赤松両氏への「報道被害」はその後も続いている。
 そこで、2005年8月、梅澤氏と故・赤松氏の実弟が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。

『母の遺したもの』は本来なら隊長命令がなかったという証拠になりえたはずだが、2007年7月27日の公判で宮城晴美氏は、軍命令はあったと見解を変えて出廷した。原告側の徳永弁護士による尋問により、宮城晴美氏は見解を変えたのはわずか1か月前であることを証言した。そして、梅澤氏が命令を出したという証拠があるわけではなく、軍に責任があり、そうなら部隊長の梅澤氏に責任があると考えるようになったに過ぎないことを認めた。1か月前に考えを改めたことに対して、深見裁判長は「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどの180度の証言変更だった。

 梅澤氏は2007年11月9日午前に大阪地裁で行われた口頭弁論で、「(自決用の弾薬などを求める村民に対し)死んではいけないと言った」と改めて証言、軍命令説を強く否定した。また、梅澤氏は「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」とも語っている。産経11/9産経iza11/9本人尋問詳報はこちら)。
 
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ついに明かされる師匠の正体とは…!?【廃材で作業台#2】

2024-06-11 09:44:05 | 政治

 

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77歳独身男性に「1万円を使い切って」とお願いしたらまさかの使い道【きよし師匠編】

高所での作業が怖すぎる…【DIYウッドデッキ#17】

 

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❸狩俣信子★続・沖縄タイムス「集団自決」に幕引きか、結論ありきの現地調査

2024-06-11 06:47:03 | 資料保管庫

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沖縄タイムスは例年3月26日前後、集団自決特集を組む。

きょうの紙面も集団自決の記事は一面社会面を調べたが一行の記載もなかった。

やはり自分が火を点けた「軍命論争」を、曖昧にしたまま幕引きする魂胆か。

 

【新聞が報じない現地調査の実態!】 県議団調査団の醜態2007-07-10

昨日の記事でこう書いた。

<二つの新聞、即ち沖縄タイムスと琉球新報は、沖縄の“民意”を歪め、沖縄の“民意”を創作する。

そして「『集団自決』が軍命令によることは歴史の事実である」と扇動し続けた。

これをキーワードに、全県を揺るがす大キャンペーンを展開した。

だが、良識ある県民の目は節穴ではない。

徐々に歪められた民意の綻びが目立ち始めた。>

知らぬは「報道の自由」の座に胡坐を書く新聞だけだった。>

             ★

 

沖縄2紙の連日の扇動報道に突き動かされた沖縄の全市町村議会、そして県議会が「教科書検定意見書撤回」の議決にまでこぎつけ、政府に意見書提出した。

政府(文科省検定委員会)にこれを拒否されると県議会の文教委員ら16名による、現地調査をおこなった。

本来なら県議会決議の前に、現地調査を行うのが筋のはず。

ことの順序が、後先(あとさき)なのはここでは問うまい。

問題は現地で「集団自決」の生き残りとして現地を案内し貴重な証言をした二人の証言者のことである。

県議会文厚委 検定撤回へ現地調査

 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。

(7/6 16:05)全文 >>> 

「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村

上記の新報記事の写真でも自明の通り、調査団を先頭で案内した当時14歳の金城武徳さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に削除された。

(写真で県議調査団の先頭に立ち、両手を広げて説明している眼鏡の帽子着用の人物が金城武徳さん。金城さんの説明を聞いているライトグリーンのカーディガンの女性は調査団団長の狩俣信子県議(社民党))

一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。

ところが、当日現地調査に立ち会っ渡嘉敷在住の読者の前慶良間人さんから貴重なコメントを頂いた。前慶良間人さんは県議会が現地調査した当時渡嘉敷村役場職員で、独自に集団自決体験者の調査をしており、県議調査団の案内もしていた。

[論点のすり替え (前慶良間人)  2007-07-08 16:56:32
 
 
問題の始まりは、タイムスの「鉄の暴風」にある。 タイムスは非を認めたくないがため、キャンペーンを張って作り話を実話風に仕立てあげている。

 「命語い」シリーズで地元出身者に語らせているが、冤罪訴訟の争点、「軍命について」は、誰一人として期待に叶う証言はしていない。渡嘉敷島の軍命の有無についてはこのことから既に明らかである。

 最近では論点をすり替え、軍国主義、軍隊の駐留そのものが悪かったと論調を変えつつあるのは、「古傷に触られたくない」ことの証であろう。
 
 県議会の渡嘉敷島視察で、金城武徳さんに対する質問で次のような発言がありました。
 要旨、「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」等…明らかに田舎の老人と見下し、赤松さんと親交があったと言うことで、彼の代弁者と見なしていました。
 15歳!で生き残ってきた証言者に対しての、「決め付け」発言に、これが元教師かと正直思いました。
 又、その席で吉川先生から、次のような発言もありました。「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」

 県議の中には、みんなが認めていることだから云々と唖然とする発言者もおりましたし、自民議員も早く話しをまとめようとするばかりで、真相を確かめようとする熱意はほとんど感じられませんでした。

 

>、「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」等…

先ず、県議文教委員の調査団の中には「元教師」、或いは教育関係者がいたことが分る。

沖教組といえば「平和活動」、「日本軍残虐説」の牙城。

しかも彼らは「社会化の教師でこの問題の専門家」として調査団の意見をリードし、予断に満ちた調査だったことが伺える。

このような極左思想の議員たちで構成される調査団の結論は調査前から決まっていた。 

他にも「皆が認めたのだから、早くまとめて帰ろう」といった予定調和の議員もいたようだ。

県議の中には、みんなが認めていることだから云々と唖然とする発言者もおりましたし、自民議員も早く話しをまとめようとするばかりで、真相を確かめようとする熱意はほとんど感じられませんでした。

自民党議員の中には最後まで議決に反対した良識ある議員もいたと聞いたが、自民党でも文教委ともなると,

「皆で決めれば怖くない」だったことがわかる。

このように初めから結論ありきの調査団だったら、税金の無駄遣いだ。

少なくとも県民の血税を浪費して、偏向マスコミに協力することは沖縄県民の「民意」ではないはずだ。

 

>その席で吉川先生から、次のような発言もありました。「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」

まずこの吉川さんが元教師だった事実が判明しており、しかも新聞報道とはニュアンスが異なり「自決命令は、無かったかもしれないが・・」となっており、明らかに「軍命令を否定している」ではないか。

「軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」という証言はサヨク学者の定番で、何もわざわざ現地聞き取り調査をして述べる証言では無い。

さすがに琉球新報記事では二人の「軍命令はなかった」という証言で逆の結論の記事は書くのは困難と見たのか、別の証言者を引っ張りだして焦点をずらした内容になっている。

 

だが、沖縄タイムスは恥知らずにも、こんな報道をしている。

「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。

そう、タイムスは自分が創作した“県民の総意”が重要であり、重要証人の証言などどうでも良かったのだ。

沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は又しても封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。
  
◆沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】

 

付け加えると、この元教師の吉川さんは、最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm

このように沖教組関連の「平和教育」にどっぷり使った文教委員議員団の調査は、形だけのアリバイ作りのためだけの噴飯モノあった。

ちなみにこの吉川さん、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。

そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもあったのです。

いくら語り部でも、日本軍の残虐さは語って語っても「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だったのでしょう。

参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 カメラ  (7/5 16:05)

 

この吉川さんが証言するのは今回が始めてではない。

今年の慰霊の日の朝日新聞の記事で証言している。

だが、「軍曹が命じた」と巧妙に作文された朝日記事でも

吉川さんは一言も「軍の命令」とは証言していない。

 

http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB200706230011
.html

62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分

 沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。

 62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。

 那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。

 「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。

 吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。

 母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。

 母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。

 その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。

 富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。

 沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
 
朝日新聞は、既に「集団自決」の「軍命令論争」で敗北していることを承知している。

子分ともいえる沖縄タイムスが暴走するの止められず、当たり障りの無い記事でしか援護できない、・・・というより、既に敵前逃亡を決め込んでいる。(朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 

 

最後に、一読者(前慶良間人)のコメントを鵜呑みにした記事を書くな、という方のために、次の事実を指摘しておこう。

ちなみに、前慶良間人さんは県議会が現地調査した当時渡嘉敷村役場職員で、独自に集団自決体験者の調査をしており、県議調査団の案内もしていた。

先ず、県議調査団は当時14歳の金城さんの証言を封殺し、当時6歳の吉川さんの証言のみを取り上げた。

これまでも学術調査団が何度も現地調査を行っており、「軍命令はなかった」という多くの証言者がいたが、これらは地元マスコミに載ることはなかった。(例えば宮平さん→★文末に引用)

以下の金城さんの証言を聞けば、コメントの内容の信憑性が裏付けられる。

■【動画と“新聞証言”の違い】

いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)

琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。

【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o

 

連日紙面を飾るのは「多くの悲惨な証言がある」と言う極めて曖昧な記事のがオドロオドロしく報じられる。

確かに沖縄戦で悲惨な体験をした人は数多くいるだろう。

だが、「数多くの悲惨な証言」を必死で「軍命令で集団自決した」の結論にもっていこうと紙面づくりに追われているのが地元二紙だ。

信頼できる研究者と、良識ある証言者達は皆「その事実」に気がついている。

王様気取りで民意をもてあそぶ地元二紙はさだめし「裸の王様」と言えよう。

【おまけ】

神奈川県の教師服部先生の聞き取り調査

■「軍命令のはずがない」http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_hattori1.html

座間味島で一夜を明かし、翌21日朝、最初の聞き取り調査に応じていただいたのは、宮平敏勝さんである。昭和3年生まれの宮平さんは、20年2月末、17歳で戦隊本部付きの伝令として徴用された。「軍属です。左腕に星(☆)ひとつですよ」とおっしゃっていた。「17歳でですか」の質問に、生まれ月が早い者は防衛隊に任命されたとのことで、同級生四人中、宮平さんだけが徴用にあたったという。

徴用されてすぐに米軍が上陸、熾烈な戦闘になった。4月11日、擲弾筒で左腿を負傷。その後、梅澤隊長より集合がかかり、「これ以上戦闘は困難ゆえ、皆親元に返れ」との解散命令が出る。民間人は米軍に捕まっても、すぐに解放されたので無事だった由。以下、宮平さんの証言の要点を記す

集団自決(3月25日、米軍上陸の日)については、宮平さん自身は「軍と行動を共にしていて、山中にいたので自決のことは全く知らなかった。解散命令が出て、山を下りた時、初めて知った」という。戦闘が始まって以降、軍は「民間人との接触はほとんどなかった」のである。「もし、自決が軍命令なら、伝令である自分が知っている。軍命令のはずがない」と断定された。宮平さんは自決現場そのものには居合わせなかったとはいえ、有力な傍証である。

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普通に生きるって難しいんだよ

2024-06-11 04:29:03 | 政治

 

 

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県の慎重姿勢「おかしい」 特定利用空港で中山市長

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『沖縄「集団自決」の大ウソ』、好評発売中です

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新聞「アイデンティティ」2月1日号に拙稿「沖縄を歪めた沖縄戦後史の大ウソ」が掲載されました。

 

沖縄を歪めた戦後史の大ウソ

~『沖縄「集団自決」の大ウソ』~発刊をめぐり~

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【きよし師匠編】77歳独身男性に「1万円を使い切って」とお願いしたらまさかの使い道【きよし師匠編】

2024-06-10 13:08:18 | 政治

 

 

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77歳独身男性に「1万円を使い切って」とお願いしたらまさかの使い道【きよし師匠編】

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きよし師匠初めて東京へ!ハイサイ探偵団、

2024-06-10 08:07:51 | 政治

 

 

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きよし師匠初めて東京へ!人生初の東京観光!

【超難題】きよし師匠の事をよく知る人物は誰!?【きよし師匠王】

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【日本保守党】「妨害者の言い分」に唖然… / #乙武洋匡 と都民ファースト議員も同時駅頭!/ #飯山あかり 街頭演説 2024/4/10 亀戸駅 東京

2024-06-10 05:22:30 | 政治

 

 

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【日本保守党】「妨害者の言い分」に唖然… / #乙武洋匡 と都民ファースト議員も同時駅頭!/ #飯山あかり 街頭演説 2024/4/10 亀戸駅 東京

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穴蔵男、【40代独男の物語】落ち込んだ日は最後に笑った日でした。 古民家ひとり暮らし

2024-06-10 05:18:51 | 政治

 

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【40代独男の物語】落ち込んだ日は最後に笑った日でした。 古民家ひとり暮らし

 

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我が家は楽し   中村登監督   笠智衆 山田五十鈴 高峰秀子 岸惠子 佐田啓二  1951年製作

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★集団自決、最重要証人山城安次郎の沈黙の謎2021-07-08

2024-06-09 12:48:55 | 政治

 

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★集団自決、最重要証人山城安次郎の沈黙の謎2021-07-08

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

 

★集団自決、最重要証人山城安次郎の沈黙の謎2021-07-08

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

大江・岩波集団自決訴訟で、被告の大江健三郎は沖縄を訪問していながら一度も肝心の慶良間島で集団自決の現地取材をすることなく、事実誤認の多い『鉄の暴風』をネタ本にして『沖縄ノート』を書きあげ、同書で原告に罵詈雑言を浴びせ梅澤・赤松両隊長の名誉を棄損した。

ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和45年以来、既に50版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。

参考までに昭和45年初版の大江健三郎著『沖縄ノート』から一部抜粋してみよう。

 <慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。

沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本らしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう

 

 <慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められた記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである>

大江に対する裁判長の判断はこうだ。

沖縄戦史の少なかった当時(昭和45年」、大江が『鉄の暴風』を沖縄戦史の定番として、たとえ内容に事実誤認が多くても、その内容を「真実と考えても仕方がない」(「真実相当性」)という法律概念を適用し、大江の『沖縄ノート』による名誉棄損を免責した。

かくして裁判長は、裁判の争点である「軍命の有無」には深く立ち入らず、原告側の名誉棄損請求を棄却した。

 

『鉄の暴風』の執筆者太田良博記者の証言によると、『鉄の暴風』は事実誤認どころか、太田自身が現地で取材することなく米軍の協力により「社」が集めた「島の人たちのことばをを信じるほかはなかった」などと、裏付の無い伝聞情報を基に執筆した事実を白状している。

梅澤隊長らが裁判を提訴した2005年、『沖縄ノート』以上に両隊長の名誉を棄損した『鉄の暴風』の執筆者・太田良博記者は、本来なら太田記者も名誉棄損請求の被告として法廷に立つべきだった。

ところが太田記者は提訴の3年前2002年に没しており、裁判の証言台に立つことは適わなかった。

太田記者も大江と同様に『鉄の暴風』の執筆にあたり一度も慶良間島に見地取材をしていないが、太田は唯一座間味島の集団自決の生き証人に取材している。

昭和24年、『沖縄タイムス』の太田良博記者は、『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(終戦当時の座間味村助役)に取材していた。

 渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことはもちろん、取材といえば専ら「社」が集めた人々の話だけで、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。

 太田が、当事者への取材もしないで伝聞に頼るずさんさんな取材手法で『鉄の暴風』を書き上げた状況を、『沖縄戦「集団自決」』から引用してみよう。

同書の引用は先ず曽野綾子著『ある神話の背景』(後に『集団自決の真相』と改題)の太田記者の取材部分から始まる。

               ★

  「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」

  この部分に関して太田は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両人が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論している。

太田が宮平、山城の両人と接触した経緯について「辛うじて那覇で≪捕らえた≫のではなく、「(両人が)沖縄タイムス社に訪ねてきた」ということは、取材手段として極めて大きな意味を持つ。

つまり「辛うじてて捕らえられた人物」なら、必ずしも証言に積極的態度を示すとは限らないのだが、自ら情報提供の目的で新聞社を訪れた人物なら証言意志の積極性に大きな違いがあるものである。

 戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、当時座間味村の助役をしていた山城が不便な交通事情を押してわざわざ那覇の沖縄タイムスを訪れたのは、並々ならぬ告発の意思を持っていたと考えられる。 だが自分が体験していない「赤松大尉の暴状」について語り、そのことを「戦記に載せてくれ」と告発しておきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。 それが大きな謎である。 そして、新聞に連載され、その後単行本となった『鉄の暴風』の第二章「悲劇の離島」では、渡嘉敷島の集団自決については九頁を費やして「赤松の暴状」を告発しているのに対し、座間味の集団自決については一頁足らず、わずか十一行の記述に止まっている(1986年版)

しかも、その極端に少ない記述には激しい梅澤大佐への憎悪が満ちており、いたずらに読者の興味を煽る捏造記事で溢れている。 例を挙げると次のようなくだりがある。

梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。

いうまでもなく、座間味村の梅澤裕戦隊長は健在で、現在係争中の「集団自決訴訟」の原告の一人として戦っている。人間の生死に関わる明らかな事実誤認は論外としても「梅澤少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった表現には、執筆者自身の感情が滲みだしており、沖縄戦の記述というより、個人攻撃の「怪文書」の類といわれても仕方がない。

太田は取材相手を覚えていないし、メモも残っていないと言っているが、筆者(江崎)は、このガセネタの発信源は、梅澤と共に座間味村で米軍の猛攻撃を体験した山城を」おいてほかにあり得ないと確信する。発信源が山城であるとする根拠は後に詳述するが、「梅澤不明死」に関しては、大田記者は『鉄の暴風』が発刊されてから36年後の昭和61年、『沖縄タイムス』紙上で「梅澤隊長”生死”の誤記」と題して弁明記事を書いた。

誤記と弁明

発刊後三十六年経ってからの弁明も不可解だが、その弁明自体が子供の言い訳のような開き直りに終始している。

長くなるが次に引用したい。

戦後四十一年にあたって――梅澤隊長”生死”の誤記ーー

そ慶良間の戦闘だが、『鉄の暴風』のなかの座間味の戦記で、同島の退潮であった梅澤少佐に関する部分に誤記があった。「不明死を遂げた」と記録された、その梅澤元少佐が、現に生きていることが、あとでわかったのである。『鉄の暴風』のその部分(同書41頁末尾)は、1980年7月15日刊行の第九版から削除してあるが、その誤記の責任者は、じつは、当時沖縄タイムスの記者で会った、この私である。(略)あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅澤隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を受けたのである。(『沖縄タイムス』1986年8月15日付)

これでは「誤記」の弁明にはなっておらず。井戸あた会議のうわさ話を鵜呑みにしてそのまま記事にしたと言われても仕方がないが、太田はさらに続けて「誤記」した理由について次のようにとぼけている。「『誤記』のようなウワサがあったようである」と。

何よりも原文の「梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」という侮蔑的記述そのものは引用せずに。「不明死を遂げた」の一言に留めており、しかも「誤記」とカッコ付きで論じているのも不可解である。さらに梅澤が抗議したことに対して逆切れとも取れる次のような発言をしている。

「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅澤氏は抗議しているようだが、「俺は死んでいない」「投降したのだ。そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議だろうか。

 それにしても、と私は思う。というのは『鉄の暴風』の初版が出版されたのは1950年8月15日である。それから三十余年間、タイムス社が自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅澤氏は自分の所在地さえ知らせてないようだし、「誤記」の訂正の申し入れもしていないという。『鉄の暴風』の版元が自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない。

「誤記」の削除はタイムス社が「自主的」に行ったと繰り返し強調しているが、自主的だろうが何だろうが、個人の尊厳を傷つける「誤記」を削除するのは出版社として当然の責務であり、加害者としての認識を欠いて逆切れする太田に怒りさえ感じる。念のため記しておくが。「誤記」による被害者は梅澤であり、それに対する梅澤の抗議を不可解であると逆切れする太田の弁明こそまさに不可解ではないか。

「自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない」という逆切れ記述には、怒りを通り越して言葉を失う。

「梅澤不明死」の記述はすでに削除済みだから問題にするには当たらないという向きもあるが、削除後に「誤記」を恥じて黙していたのならともかく、「ウワサだけど当時は仕方なかった」といった太田の執筆姿勢が問題であり、一事が万事、その執筆姿勢こそ『鉄の暴風』の記述全体が伝聞情報の「物語」であることの証左である。

太田は次のように弁明して『鉄の暴風』のデタラメさを自ら吐露してくれる。

ただ、「誤記」のようなウワサはあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要だった人物が、その後どうなったか知らないほど、島の人たちは全ての情報から遮断され、孤立した状態のなかにおかれていたことがわかる。『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちの言葉を信じるほかはなかった。梅澤隊長がどいう方法で投降したのか、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐりだすほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。(「太田良博著作集⑤ 諸事雑考」41頁)

『鉄の暴風』について、係争中の「集団自決訴訟」(大江・岩波訴訟)第一審判決で裁判長は「民間から見た歴史資料としてその史料価値は否定しがたい」と、その記述内容を評価している。 裁判長が『鉄の暴風』の「梅澤不明死」の記述が削除されなかった事情を承知していたかわからないが、太田の弁明文を読み、取材者も特定できない事実無根の「ウワサ」を記述していたと知ったら、『鉄の暴風』の評価も当然違っていただろう。

誰が「梅澤不明死」を売り込んだか

「不明死はざだんかいのウワサだった」という太田の弁明にもかかわらず、筆者は「誤記」の情報源は山城安次郎であると確信するのであるが、太田記者も山城も既に亡くなってしまった現在、本人たちに確認する術はない。

だが、「梅澤不明死説」の情報元は山城であるという根拠は、次のような諸点から明らかである。

①太田は新聞記者として情報提供者を追い求めたという話は皆無に近く、もっぱら受動的に持ち込まれる情報に対応していた。そんな中で山城以外に当時の座間味島の状況を知る人物に取材したという形跡もなければ、本人が座間味に取材に行った事実もない。残る可能性は自ら日本軍の告発にタイムス社を訪れた山城を除いて考えることはできない。

➁『鉄の暴風』は単行本になる前は『沖縄タイムス』の連載記事であり、同時に唯一の娯楽であったラジオ放送で全島に放送されいる。沖縄住民は日本本土でQHGによって放送された『真相はかふだ』を聞いたのと同じ心境で『鉄の暴風』に耳を澄ましていた。『真相はかふだ』は昭和20年に始まったNHKのラジオ番組で、日本軍の残虐性をはじめ、この戦争がいかに間違ったものであったかを繰り返し宣伝し、日本人の心に戦争に対する贖罪意識を植えつけようとした。 だが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報局が担当し、NHK独自番組のように放送されていたのである。

米軍の情報管理の特に厳しかった沖縄で、新聞に情報を売り込んでいた山城が、新聞記事やラジオ放送で放送されていた『鉄の暴風』に全く気付かないはずはなく、むしろ特別の関心を持ってその内容に注目していたことは間違いない。 仮に。山城が「梅澤不明死」という「ガセネタを売り込んでいないとしたら、当然記述の間違いに気が付いて『沖縄タイムス』に訂正を申し出るはずであるが、このガセネタが事実誤認として実際に削除されるのは30年後の改定版になってからである。

梅澤隊長は太田記者によって、実に30年もの間「不明死」させられていたのである。

太田が座間味島の集団自決の体験者である山城に取材しながら肝心の座間味の状況は取材できなかったという取材態度は、記者として失格と言われても仕方がない。このように新聞記者として不適格と思える太田に、『沖縄タイムス』は何ゆえ社を挙げて企画した『鉄の暴風』の執筆を委ねたのか。

その謎を解く鍵は太田の沖縄タイムス入社直前の職にあった。

太田の経歴を見ると『鉄の暴風』の監修者である豊平良顕や共著者の牧港篤三のような戦前からの新聞記者ではない。 そもそも太田と『沖縄タイムス』との関係は、『沖縄タイムス』の月刊誌にエッセイ、詩、短編小説などを寄稿していた、いわば文学好きの投降者と新聞社という関係だったという。 太田が戦後アメリカ民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっているが、太田は戦時中通訳としてインドネシアで軍務経験があり語学は得意であった。

太田の略歴にある沖縄民政府とは琉球政府のことではなく、琉球政府を統治する米軍側の米民政府のことで、沖縄の政治や思想統治に君臨した通称ユースカーという組織を意味している。 米民政府勤務の語学が得意の太田が「米軍の意思」を盛り込んだ沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の執筆に、ベテラン記者をさておいてピンチヒッターのように駆り出されたのだ。

『鉄の暴風』の執筆時に、米軍側と『沖縄タイムス』そして大田の間に「共通の思惑』が有ったと考えても不思議ではないだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所



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                 ★

山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。      

 事件を追う事件記者が、わざわざ自社(沖縄タイムス)に飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。

『鉄の暴風』を執筆をした新聞記者としては誠にお粗末な取材だ。 

 

  曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

 ≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。

「時代が違うと見方が違う」

と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫

 驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。

  このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。

 この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろう。

曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。

                    ◇

以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、

「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。

これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。

【おまけ】

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >

 

「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)

<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。

太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。

もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 


 太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去

読者の皆様には大変ご心配おかけしましたが、念願の拙著『沖縄「集団自決」の大ウソ』(第2刷)が完成いたしました。

皆様のご支援感謝申し上げます。

 

慣れぬ仕事で配本名簿にミスが生じる可能性もあります。

そこで、ご注文、御献金の方で来週末までに本が未着の場合、下記メルアドまで配送先及び冊数をご一報くださいますよう再度お願いします。

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『沖縄「集団自決」の大ウソ』、好評発売中です

  •  

新聞「アイデンティティ」2月1日号に拙稿「沖縄を歪めた沖縄戦後史の大ウソ」が掲載されました。

 

沖縄を歪めた戦後史の大ウソ

~『沖縄「集団自決」の大ウソ』~発刊をめぐり~

 江崎 孝 (ブロガー:「狼魔人日記」管理人)

 

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全ての大ウソは『鉄の暴風』に始まる

2024-06-08 09:10:56 | 政治

 

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❸『鉄の暴風』もう一人の執筆者、牧港篤三の告白

2022-05-19 08:39:51 | ●●沖縄の黒歴史
 
本書のタイトルが『沖縄を歪めた戦後史の大ウソ』と記載されているのは前著『「沖縄集団自決」の大ウソと深く関連しているからである。
簡単に言えば『鉄の暴風』が」ウソ塗れだからだ。
 
ここで『鉄の暴風』がばら撒いた大ウソの中で特筆すべき大ウソを紹介しよう。

敗戦直後の昭和24年。

交通手段も通信設備もすべて米軍により破壊された沖縄で出版された『鉄の暴風』には、数々の謎をはらんでいる。


 先ず、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「(集団自決の)体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等全ての手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられない。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。ちなみに当時の又吉那覇市長の名ににちなんで「又吉通り」とよばれていた。

 その頃の那覇の状況は、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。


  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も米軍の協力を考えれば、納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国際通りに面した映画館「国映館」の近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 

当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。

『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」(沖縄タイムス)が集め、「社」のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、当時GHQに勤務していたアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。

しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

008年12月11日(木)

名誉毀損の基準をめぐっての戦い

『沖縄戦記・鉄の暴風』(沖縄タイムス 昭和25年8月15日 初版)が軍の命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと記述し、さらに『慶良間列島・床敷の戦闘概要』(昭和28年3月28日渡嘉敷村遺族会編集)にも隊長による集団自決命令が出たと記載されている。これらが、『沖縄ノート』(大江健三郎著)など後の書物に子引き孫引きの形でそのまま引用されていった。

■曽野綾子の疑問

渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長の自決命令に対する疑問について曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにしている。

曽野氏は軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われた最初に記載したのが沖縄タイムスの(鉄の暴風)、これを基に作成したのが『渡嘉敷の戦闘概況』と推測している。その理由として『渡嘉敷の戦闘概況』に『鉄の暴風』と酷似する文章、表現が多数見られ、偶然の一致であはあり得ないこと、引用した際のものと思われる崩し字が『渡嘉敷島の戦闘概況』に見られうることを挙げている。さらにこれを基に作成されたものに『渡嘉敷島における戦争の様相(渡嘉敷村・座間味村共編)

■後でウソを確認した自決命令

ところが、『渡嘉敷島の戦闘概況』には記載のある部隊長の命令『渡嘉敷島における戦争の様相』には記載されていない。渡嘉敷島が作成した資料にはこれほど重大な事実が、不注意で欠落することは考えられない。 結局『渡嘉敷島の戦闘概況』作成当時には部隊長の自決命令を確認しないまんままであったが、『と化し敷島における戦争の様相』作成当時には部隊長の自決目命令がないことが確認できたから、記載から外したことは明らかである。つまり渡嘉敷村も隊長命令が無かったことを認めている。

■豊平良顕―沖縄タイムス元社長

沖縄タイムスの豊平良顕から依頼され『鉄の暴風』を作成した太田良博は証言者二人の話をもとに作成したと語っている。

証言者は当時座間味村の校長の山城安次郎氏と南方から復員して帰っていた宮平栄治氏であった。しかし、宮平氏は事件当時南方にいて、現場を見ていない。

また山城氏が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である。座間味島の集団自決を目撃したとしても、渡嘉敷島の集団自決の目撃者にはなり得ないのは明白である。

しかも太田氏はっこれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷島の集団自決を含む沖縄全体の戦史を三ヶ月で作成したと言い。「時代が違うとと発言しますと見方をも違う」と発言します。見方が違ったから事実があったりなかったりするのでは戦史としての意味はなく、単なる物語と言われても仕方がない。

■地元出身ー知念元少尉の証言

地元出身の知念元少尉の証言は、決定的であった。

曽野綾子氏をして「見てきたような講談」と言わしめた知念元少尉はこう証言している。

「西山A高地に人知を移した3月27日地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食料を確保して、持久体制を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している」とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり,慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」という記載がある。

■『鉄の暴風』の」問題部分

曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにし『鉄の暴風』の渡嘉敷島の集団自決に関する問題部分をさらに詳しく挙げると次の通りである。

➀直接体験者でない山城安次郎と宮平栄治からの伝聞証拠い過ぎないものを基に作成している。

②『鉄の暴風』と『戦闘概要』『戦況報告書』は記載内容が酷似しており、別の文章とは思われない程の類似性があること、結局、子引き、孫引きであり、最初が間違えていれば、次々と間違いが繰返される構図である。

③『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないこと。

④将校会議の開かれた地下壕で知念少尉が聞いたという赤松隊長の自決命令がないこと。

⑤渡嘉敷島への米軍上陸が昭和20年3月27日午前9時であるところ、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦況報告書』は何れも3月26日と記載しており、多くの人の命日となった集団自決が3月28日であるところ、前日の米軍上陸の期日という重大な事実を偶然しても3件とも間違えたのは不自然である。

⑥自決命令を村長に伝えたはずの安里順駐在巡査が自決命令のなかったこと明言している。

★集団自決、最重要証人山城安次郎の沈黙の謎2021-07-08

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

大江・岩波集団自決訴訟で、被告の大江健三郎は沖縄を訪問していながら一度も肝心の慶良間島で集団自決の現地取材をすることなく、事実誤認の多い『鉄の暴風』をネタ本にして『沖縄ノート』を書きあげ、同書で原告に罵詈雑言を浴びせ梅澤・赤松両隊長の名誉を棄損した。

ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和45年以来、既に50版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。

参考までに昭和45年初版の大江健三郎著『沖縄ノート』から一部抜粋してみよう。

 <慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。

沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷た②『鉄の暴風』と『戦闘概要』『戦況報告書』は記載内容が酷似しており、別の文章とは思われない程の類似性があること、結局、子引き、孫引きであり、最初が間違えていれば、次々と間違いが繰返される構図である。

③『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないこと。

★集団自決、最重要証人山城安次郎の沈黙の謎2021-07-08

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

大江・岩波集団自決訴訟で、被告の大江健三郎は沖縄を訪問していながら一度も肝心の慶良間島で集団自決の現地取材をすることなく、事実誤認の多い『鉄の暴風』をネタ本にして『沖縄ノート』を書きあげ、同書で原告に罵詈雑言を浴びせ梅澤・赤松両隊長の名誉を棄損した。

ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和45年以来、既に50版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。

参考までに昭和45年初版の大江健三郎著『沖縄ノート』から一部抜粋してみよう。

 <慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。

沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本らしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう

 

 <慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められた記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである>

大江に対する裁判長の判断はこうだ。

沖縄戦史の少なかった当時(昭和45年」、大江が『鉄の暴風』を沖縄戦史の定番として、たとえ内容に事実誤認が多くても、その内容を「真実と考えても仕方がない」(「真実相当性」)という法律概念を適用し、大江の『沖縄ノート』による名誉棄損を免責した。

かくして裁判長は、裁判の争点である「軍命の有無」には深く立ち入らず、原告側の名誉棄損請求を棄却した。

 

『鉄の暴風』の執筆者太田良博記者の証言によると、『鉄の暴風』は事実誤認どころか、太田自身が現地で取材することなく米軍の協力により「社」が集めた「島の人たちのことばをを信じるほかはなかった」などと、裏付の無い伝聞情報を基に執筆した事実を白状している。

梅澤隊長らが裁判を提訴した2005年、『沖縄ノート』以上に両隊長の名誉を棄損した『鉄の暴風』の執筆者・太田良博記者は、本来なら太田記者も名誉棄損請求の被告として法廷に立つべきだった。

ところが太田記者は提訴の3年前2002年に没しており、裁判の証言台に立つことは適わなかった。

太田記者も大江と同様に『鉄の暴風』の執筆にあたり一度も慶良間島に見地取材をしていないが、太田は唯一座間味島の集団自決の生き証人に取材している。

昭和24年、『沖縄タイムス』の太田良博記者は、『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(終戦当時の座間味村助役)に取材していた。

 渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことはもちろん、取材といえば専ら「社」が集めた人々の話だけで、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。

 太田が、当事者への取材もしないで伝聞に頼るずさんさんな取材手法で『鉄の暴風』を書き上げた状況を、『沖縄戦「集団自決」』から引用してみよう。

同書の引用は先ず曽野綾子著『ある神話の背景』(後に『集団自決の真相』と改題)の太田記者の取材部分から始まる。

               ★

  「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」

  この部分に関して太田は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両人が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論している。

太田が宮平、山城の両人と接触した経緯について「辛うじて那覇で≪捕らえた≫のではなく、「(両人が)沖縄タイムス社に訪ねてきた」ということは、取材手段として極めて大きな意味を持つ。

つまり「辛うじてて捕らえられた人物」なら、必ずしも証言に積極的態度を示すとは限らないのだが、自ら情報提供の目的で新聞社を訪れた人物なら証言意志の積極性に大きな違いがあるものである。

 戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、当時座間味村の助役をしていた山城が不便な交通事情を押してわざわざ那覇の沖縄タイムスを訪れたのは、並々ならぬ告発の意思を持っていたと考えられる。 だが自分が体験していない「赤松大尉の暴状」について語り、そのことを「戦記に載せてくれ」と告発しておきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。 それが大きな謎である。 そして、新聞に連載され、その後単行本となった『鉄の暴風』の第二章「悲劇の離島」では、渡嘉敷島の集団自決については九頁を費やして「赤松の暴状」を告発しているのに対し、座間味の集団自決については一頁足らず、わずか十一行の記述に止まっている(1986年版)

しかも、その極端に少ない記述には激しい梅澤大佐への憎悪が満ちており、いたずらに読者の興味を煽る捏造記事で溢れている。 例を挙げると次のようなくだりがある。

梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。

いうまでもなく、座間味村の梅澤裕戦隊長は健在で、現在係争中の「集団自決訴訟」の原告の一人として戦っている。人間の生死に関わる明らかな事実誤認は論外としても「梅澤少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった表現には、執筆者自身の感情が滲みだしており、沖縄戦の記述というより、個人攻撃の「怪文書」の類といわれても仕方がない。

太田は取材相手を覚えていないし、メモも残っていないと言っているが、筆者(江崎)は、このガセネタの発信源は、梅澤と共に座間味村で米軍の猛攻撃を体験した山城を」おいてほかにあり得ないと確信する。発信源が山城であるとする根拠は後に詳述するが、「梅澤不明死」に関しては、大田記者は『鉄の暴風』が発刊されてから36年後の昭和61年、『沖縄タイムス』紙上で「梅澤隊長”生死”の誤記」と題して弁明記事を書いた。

誤記と弁明

発刊後三十六年経ってからの弁明も不可解だが、その弁明自体が子供の言い訳のような開き直りに終始している。

長くなるが次に引用したい。

戦後四十一年にあたって――梅澤隊長”生死”の誤記ーー

そ慶良間の戦闘だが、『鉄の暴風』のなかの座間味の戦記で、同島の退潮であった梅澤少佐に関する部分に誤記があった。「不明死を遂げた」と記録された、その梅澤元少佐が、現に生きていることが、あとでわかったのである。『鉄の暴風』のその部分(同書41頁末尾)は、1980年7月15日刊行の第九版から削除してあるが、その誤記の責任者は、じつは、当時沖縄タイムスの記者で会った、この私である。(略)あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅澤隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を受けたのである。(『沖縄タイムス』1986年8月15日付)

これでは「誤記」の弁明にはなっておらず。井戸あた会議のうわさ話を鵜呑みにしてそのまま記事にしたと言われても仕方がないが、太田はさらに続けて「誤記」した理由について次のようにとぼけている。「『誤記』のようなウワサがあったようである」と。

何よりも原文の「梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」という侮蔑的記述そのものは引用せずに。「不明死を遂げた」の一言に留めており、しかも「誤記」とカッコ付きで論じているのも不可解である。さらに梅澤が抗議したことに対して逆切れとも取れる次のような発言をしている。

「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅澤氏は抗議しているようだが、「俺は死んでいない」「投降したのだ。そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議だろうか。

 それにしても、と私は思う。というのは『鉄の暴風』の初版が出版されたのは1950年8月15日である。それから三十余年間、タイムス社が自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅澤氏は自分の所在地さえ知らせてないようだし、「誤記」の訂正の申し入れもしていないという。『鉄の暴風』の版元が自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない。

「誤記」の削除はタイムス社が「自主的」に行ったと繰り返し強調しているが、自主的だろうが何だろうが、個人の尊厳を傷つける「誤記」を削除するのは出版社として当然の責務であり、加害者としての認識を欠いて逆切れする太田に怒りさえ感じる。念のため記しておくが。「誤記」による被害者は梅澤であり、それに対する梅澤の抗議を不可解であると逆切れする太田の弁明こそまさに不可解ではないか。

「自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない」という逆切れ記述には、怒りを通り越して言葉を失う。

「梅澤不明死」の記述はすでに削除済みだから問題にするには当たらないという向きもあるが、削除後に「誤記」を恥じて黙していたのならともかく、「ウワサだけど当時は仕方なかった」といった太田の執筆姿勢が問題であり、一事が万事、その執筆姿勢こそ『鉄の暴風』の記述全体が伝聞情報の「物語」であることの証左である。

太田は次のように弁明して『鉄の暴風』のデタラメさを自ら吐露してくれる。

ただ、「誤記」のようなウワサはあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要だった人物が、その後どうなったか知らないほど、島の人たちは全ての情報から遮断され、孤立した状態のなかにおかれていたことがわかる。『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちの言葉を信じるほかはなかった。梅澤隊長がどいう方法で投降したのか、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐりだすほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。(「太田良博著作集⑤ 諸事雑考」41頁)

『鉄の暴風』について、係争中の「集団自決訴訟」(大江・岩波訴訟)第一審判決で裁判長は「民間から見た歴史資料としてその史料価値は否定しがたい」と、その記述内容を評価している。 裁判長が『鉄の暴風』の「梅澤不明死」の記述が削除されなかった事情を承知していたかわからないが、太田の弁明文を読み、取材者も特定できない事実無根の「ウワサ」を記述していたと知ったら、『鉄の暴風』の評価も当然違っていただろう。

誰が「梅澤不明死」を売り込んだか

「不明死は座談会のウワサだった」という太田の弁明にもかかわらず、筆者は「誤記」の情報源は山城安次郎であると確信するのであるが、太田記者も山城も既に亡くなってしまった現在、本人たちに確認する術はない。

だが、「梅澤不明死説」の情報元は山城であるという根拠は、次のような書店から明らかである。

①太田は新聞記者として情報提供者を追い求めたという話は皆無に近く、もっぱら受動的に持ち込まれる情報に対応していた。そんな中で山城以外に当時の座間味島の状況を知る人物に取材したという形跡もなければ、本人が座間味に取材に行った事実もない。残る可能性は自ら日本軍の告発にタイムス社を訪れた山城を除いて考えることはできない。

➁『鉄の暴風』は単行本になる前は『沖縄タイムス』の連載記事であり、同時に唯一の娯楽であったラジオ放送で全島に放送されいる。沖縄住民は日本本土でQHGによって放送された『真相はかふだ』を聞いたのと同じ心境で『鉄の暴風』に耳を澄ましていた。『真相はかふだ』は昭和20年に始まったNHKのラジオ番組で、日本軍の残虐性をはじめ、この戦争がいかに間違ったものであったかを繰り返し宣伝し、日本人の心に戦争に対する贖罪意識を植えつけようとした。 だが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報局が担当し、NHK独自番組のように放送されていたのである。

米軍の情報管理の特に厳しかった沖縄で、新聞に情報を売り込んでいた山城が、新聞記事やラジオ放送で放送されていた『鉄の暴風』に全く気付かないはずはなく、むしろ特別の関心を持ってその内容に注目していたことは間違いない。 仮に。山城が「梅澤不明死」という「ガセネタを売り込んでいないとしたら、当然記述の間違いに気が付いて『沖縄タイムス』に訂正を申し出るはずであるが、このガセネタが事実誤認として実際に削除されるのは30年後の改定版になってからである。

梅澤隊長は太田記者によって、実に30年もの間「不明死」させられていたのである。

太田が座間味島の集団自決の体験者である山城に取材しながら肝心の座間味の状況は取材できなかったという取材態度は、記者として失格と言われても仕方がない。このように新聞記者として不適格と思える太田に、『沖縄タイムス』は何ゆえ社を挙げて企画した『鉄の暴風』の執筆を委ねたのか。

その謎を解く鍵は太田の沖縄タイムス入社直前の職にあった。

太田の経歴を見ると『鉄の暴風』の監修者である豊平良顕や共著者の牧港篤三のような戦前からの新聞記者ではない。 そもそも太田と『沖縄タイムス』との関係は、『沖縄タイムス』の月刊誌にエッセイ、詩、短編小説などを寄稿していた、いわば文学好きの投降者と新聞社という関係だったという。 太田が戦後アメリカ民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっているが、太田は戦時中通訳としてインドネシアで軍務経験があり語学は得意であった。

太田の略歴にある沖縄民政府とは琉球政府のことではなく、琉球政府を統治する米軍側の米民政府のことで、沖縄の政治や思想統治に君臨した通称ユースカーという組織を意味している。 米民政府勤務の語学が得意の太田が「米軍の意思」を盛り込んだ沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の執筆に、ベテラン記者をさておいてピンチヒッターのように駆り出されたのだ。

『鉄の暴風』の執筆時に、米軍側と『沖縄タイムス』そして大田の間に「共通の思惑』が有ったと考えても不思議ではないだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所



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                 ★

山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。      

 事件を追う事件記者が、わざわざ自社(沖縄タイムス)に飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。

『鉄の暴風』を執筆をした新聞記者としては誠にお粗末な取材だ。 

 

  曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

 ≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。

「時代が違うと見方が違う」

と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫

 驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。

  このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。

 この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろう。

曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。

                    ◇

以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、

「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。

これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。

【おまけ】

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >

 

「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)

<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。

太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。

もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 


 太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去

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沖縄戦で見た沖縄県民達の雄姿!

2024-06-06 11:10:49 | 政治

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