三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

周瑜(しゅうゆ) 字:公瑾(175~210)その6

さて、今回も周瑜の紹介の続きに行こうかのう。今回ちと投稿が開いてしまって申し訳なかったのう。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回も周瑜の江陵の戦いの続きについて見ていくとしようかのう。

そう言えば、今回投稿が遅れたのは何か理由があるんですか?

うむ、ちと住んでいるところの改装があってのう、立ち合いの準備のために部屋の中等、諸々片付けなどをやっておく必要があったんじゃな。

あー、師匠片付けできない方ですもんね。仕事場も机の上は片づけることできていませんし。

まあどこに何があるか本人が把握していれば、問題はないはずなんだがな。

うむ、それでは早速続きを見ていくとしよう。

人物紹介 

江陵攻防戦(呉側視点1)

江陵攻防戦

周瑜は程普と共に、更に南郡まで軍を進め、曹仁と長江を隔てて相い対峙した。

両軍がまだ刃を交えぬ先に、周瑜は急いで甘寧を遣って前もって夷陵を占領させた。曹仁は歩兵と騎兵を割き別動隊を作って甘寧を攻撃し包囲させた。

甘寧周瑜に救援を求めてきた。周瑜呂蒙の計を用いて、淩統を後に留めて守りに当たらせると、自らは呂蒙と共に長江を遡って甘寧の救援に向かった。(『周瑜伝』)

確か上の画像の西陵のところが後々、夷陵になるんでしたよね。 

そうだな、長江の上流を抑えて地勢的に優位を取ろうとした、と言ったところか。ただし曹仁殿も夷陵の重要性を把握していたから、素早く軍を編成して送り込んだ。

それでは呂蒙の計について、見ていくとしようかのう。

呂蒙周瑜と程普に言った、

「淩公績(淩統)殿に留守をしてもらい、諸君と一緒に救援に向かおう。包囲を崩して危機を救うのに、そんなに時間がかかるはずもない。

公績殿は(急襲を受けた場合にも)10日間は守り切れることを私が保証しよう。」(『呂蒙伝』)

呂蒙は淩統の防衛能力の高さを保証し、彼を抑えに回らせることで甘寧を救出できる、と考えたようだな。

実際にそれで甘寧を救えた、と言うことですね。 

実はこの時呂蒙にはさらなる策があったが、それは呂蒙のところでまた語るとしよう。

江陵攻防戦(呉側視点2)

甘寧の包囲が解けると、長江の北岸に軍営を定め、日にちを定めて両軍は正面からぶつかり合った。

周瑜は自ら馬にまたがって敵陣に乗り込んだが、流れ矢が左の鎖骨に命中し、その傷が酷かったため、味方の陣営に引き上げた。

後に曹仁周瑜が伏せったままであると聞き、兵士たちを率いて呉の陣営に迫ってきた。周瑜はそれを聞くと自らを励まして立ち上がり、軍営の中を閲見してまわって、軍吏や兵士たちの気持ちを奮い立たせた。曹仁はこれを見てそのまま兵を退かせた。(『周瑜伝』)

周瑜、前線に立って矢傷を受けたんですか。確かに司令官としては少々異質なタイプですね。 

それが寿命を縮めることになったようにも思うが、自らも危地に身を置くことで、配下の兵士たちの信頼も得ていたように思うな。

確かにそれだけのことをやるからこそ、と兵士たちに思わせる者はあったように思うのう。それだけに早くに亡くなったのは残念じゃな。

曹操の撃退に加え、曹仁との戦いも何だかんだで優位に進めているのは大したもんじゃ。さて、今日のとこはここまでじゃな。

次はそれ以外の逸話をチョコチョコまとめ、周瑜の紹介を終わりとしようかのう。

 

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