三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

周瑜(しゅうゆ) 字:公瑾(175~210)その7

さて、今回で周瑜の紹介をラストとしようかのう。今回は今まで以外で語っていない周瑜の逸話を紹介したいと思うんじゃよ。

 

目次

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回で周瑜の逸話最後にしようと思うんじゃが、今回は蒋幹とのエピソードを見ていこうかのう。

蒋幹と言うと、周瑜を説得に行った人物でしたよね。あれは史実通りなのですか?

当然、創作部分と史書と合致する部分、両方あるんじゃが演義の印象のみで語るとおかしくなるので、一度頭を空っぽにして話を聞いて欲しいのう。

確かに先入観で物事を見てしまうと、本質を見抜けないことが出てきてしまう。演義の印象に引っ張られ過ぎないことが大事だな。

うむ、それではまず周瑜を説得しに来た蒋幹の人物像について、見ていくとしよう。

人物紹介 

蒋幹の人物像

周瑜を説得しようとした蒋幹について、その人物像を軽く見過ぎるとダメなように思うんじゃな。

蒋幹は立ち居振る舞いが堂々としており、才気があって弁舌が立つことで評判があり、長江・淮水一帯で並ぶ者もなく、誰も彼の弁舌に受け答えできる者はなかった。

その彼が(曹操の)命令を受けると、麻の衣(無官の者の服装)に葛巾(粗末な被り物)をつけ、私用の旅行の途中だと称して周瑜の元を訪れた。(『周瑜伝』裴注『江表伝』)

服装にもちゃんと意味があったのですね。それにしても論客としては本当に優れた人物であった、と言うことですね。 

確かに論客としてはそうはいない人材であったのだろう。だが、それすらも周瑜は一瞬で見破っているのだから、大したものだ。

周瑜の対応

周瑜は迎えに出ると、立ったままで蒋幹に向かって言った。

「子翼殿、まことにご苦労様です。遥か江湖を越えて、曹氏のため遊説家となって来られたのですか。」

蒋幹が言った。

「私は足下とは同州の生まれで、長らくお目にかかることもございませんでしたが、はるかに高いご評判とご勲功とをお聞きし、久闊を叙し、あわせてご様子を拝見したいと、わざわざやってまいりました。しかるに遊説家だ、などとおっしゃられるのは、酷い邪推ではございませんか。」

周瑜は言った。

「私は夔や師曠(どちらも古代の楽師)には及ばぬまでも、弦を聞き音楽を賞味すれば、それが正統的な音楽であるかどうかを識別する能力は持っております。」(『周瑜伝』裴注『江表伝』)

これは周瑜が酒を飲んでも琴の音のずれがあればすぐに気が付き振り返る、と言う逸話の元と鳴派内でもあるな。

ただ、これって恐らくですが比喩表現ですよね。 

よく気が付いたな。ここでは蒋幹の言葉を聞けば、それが真に心から出たものか、論客としてきたかは分かる、と言う意味も含んでいるな。

ただ、これで終わらないのが周瑜だ。

周瑜の対応(続き)

(後日)周瑜は蒋幹を招くと二人してくまなく軍営を見て周り、更に倉庫の軍用物資や兵器をも見せた。そうした巡察が終わると、戻って宴席を設け、(孫権から下賜された)侍者や服飾や珍宝を見せた上で、蒋幹に対して言った。

「男子たる者、世に処するに際して、自分をよく知ってくれる主君に出会い、表面的には君臣の関係にあっても、実際には肉親と変わらぬ恩義を結び、申し述べる意見や謀は受け入れられて、幸いも不幸も主君と一体であると言う関係にあれば、たとえ蘇秦張儀がもう一度生まれ、酈食其が再び世に出たとしても、やはり私は彼らの背を撫でて、その言う所は退けたであろう。

ましては足下のような若輩者に私の心を動かすことがどうしてできましょう。」(『周瑜伝』裴注『江表伝』)

周瑜、凄い自信ですね。蒋幹もここまで言われると立つ瀬がないじゃないですか? 

いや、それがまたその後の蒋幹の対応で実は蒋幹は株を上げているのだ。演義ではただただ周瑜に翻弄されっぱなしの小人物でしかないが、決してそれだけの人物ではないのだ。

蒋幹はこの旅から戻ると、周瑜には大きな度量と高い精神的風貌とが備わり、言葉によって孫権との間を割くことなどできないと称賛した。

中原の人士たちはこのことがあって、ますます周瑜を重んじるようになった。(『周瑜伝』裴注『江表伝』)

凄い褒めていますね。これ周瑜の評判もあげると共に蒋幹自身の評価も高める、と言う目的がありそうですね。 

まあ、実際関羽を寝返らせることが不可能だったのと同じぐらい無理があった、と言うことであろうからな。

それだけ高潔で孫家とのつながりを重視していた、と言うことだな。

さて、随分長くなってしまったが、周瑜に関しては一旦ここで終わるとしようかのう。

次はまた新しい人物の紹介じゃ。それではよろしくのう。

 

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