「ファンダム」=「推し活」が民主主義を変える

 

 

『実験の民主主義  -トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ-』宇野 重規著  若林 恵 聞き手を読む。

 

著書『アメリカのデモクラシー』の中で「新しい時代には新しい政治学が必要である」と唱えた「19世紀フランスの政治思想家トクヴィル」。彼は建国間もないアメリカを訪れ、そこが「民主主義の実験場」と感じた。


アメリカの新しい民主主義を支えたものは何か。また、今日の民主主義にもつながっているもの、新たな芽吹きなどを対談形式で展開している。

 

以下、興味深いものを引用、感想などを、だらだらと。


「メディア体験が人々の自己意識とか、個人と個人の関係を変えていく。最終的には人々の政治行動や経済活動を変え、政治・社会・経済の骨格まで変えていく。そうしたことを含めてデモクラシーを論じないといけないというのがトクヴィルの慧眼です」

当時のメディアというと、郵便システムや印刷術が大きな役割を果していたと。いまなら、インターネットだと。たとえばsnsのウソ情報が野火のように拡散されるとか。
そういえば、東浩紀に『存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて』という本があった。


個人主義の不安に話を戻せば、しがらみが嫌だからと新天地を求めて渡ったアメリカ」で、平等化の趨勢のなか人々が自由になっていくと、かつては鬱陶しいものとしか思えなかった伝統的な結びつきが失われ、その結果、人々は孤立し、孤独になり、不安定になっていきます。こうしたことは、当時のアメリカで、実際にすでに起きていたのではないかと思われます」

田舎暮しが嫌だと都会に出てきて、公団住宅やマンション暮しをはじめた人なら、実感できるものだろう。

 

孤立化、孤独化を防ぐためにアメリカで考えられたもの、それが「結社=アソシエーション」だと。アメリカにはさまざまなものがある。宗教のアソシエーションも当然ある。あのKKKもアソシエーションだとか。


マックス・ウェーバーの調査によると「信仰という理由ばかりでなく、一種の身分保障の役割を(国家に代わって)果たしているから」だと。

 

現代社会を見ても、白人至上主義団体のような右派的アソシエーションが勢力を伸ばしていますが、その意味では、現代はアソシエーションが内包している反デモクラシー的な側面が肥大化している時代だと言えるのかもしれません」

 

アソシエーションを今風に言うならば「ファンダム」だと。

「日本では「推し活」という言い方が一般的ですが、特定のアイドルやアニメ、ゲーム、映画などを熱心に応援するファンの集合体を英語で「ファンダム」と総称します」

 

「ファンダムが面白いのは、資本主義とはつかず離れずの立場にいながら、それとは別の原理で、情報やサービスが交換されているところだと感じます。―略―そこで行われているのは、一種の贈与交換なのですね。というのも「推し」やそのファンのためにやっていることですので、そこで金銭を求めることを忌み嫌う文化があるからです」

 

「ファンダムを駆動しているメカニズムで重要なのは「自分がギブしたものをゲットしてもらう喜び」なのだと。つまり双方向の関係性です」
「あえて飛躍しますと―略―「相互依存性」や「ケア」の論点と何か共振し合うものがあるようにも感じます」

 

またまた「贈与」と「ケア」に行き当たる。

 

この動きが政治を、民主主義を変えるかもしれないと。イデオロギーではなく自分たちの好きな「推し」に投票する。って、これ、アイドル総選挙じゃん!?


近い将来、ファンダム政党ができるかも。現状で思いつくのは、トランプの熱狂的な支持者なんだけど。

 

こんなところもためになった。

〇市役所など行政のデジタル化による民主化の話。
「「DX*って何ですか?」と海外の政府のDX担当者に聞きますと、判で押したように「ユーザー中心のことだよ」と返ってきます」

 

〇変わらない選挙の投票スタイル。ネット投票とかスマホ投票とか。でもなあ、マイナンバーカードと紐づけられたりするのはなあ。

 

*DX…デジタルトランスフォーメーション(digital transformation)は、デジタルテクノロジーを使用して、ビジネスプロセス・文化・顧客体験を新たに創造(あるいは既存のそれを改良)して、変わり続けるビジネスや市場の要求を満たすプロセスである

デジタルトランスフォーメーション - Wikipedia


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ブルックナー讃―非凡なる平凡か、平凡なる非凡か

 

 

ブルックナー譚』高原英理著を読む。

 

いわゆる評伝はノンフィクションゆえ、史実や資料に基づいた枠というか枷がある。
小説家である作者は、評伝が書いてはいけない領域に踏み込んでブルックナーをいまに甦らせる。「見てきたような嘘を告く」というが、読者にいかにそう思わせるかが腕の見せどころ。

 

熱心なクラシックファンではないぼくだが、ブルックナーの劣等感と優越感が入り混じった性格。教会の名オルガン奏者に飽き足らず、作曲法を学び、願わくば大学教授などになって地位も名誉も収入も向上させたい。その成り上がり精神や、不器用というか正直な生き方に、人間くさい魅力を覚えた。

 

19世紀、ウィーン楽壇はブラームス派とワーグナー派に分かれており、ブルックナーワーグナー派と見做されていた。ブルックナーヴァーグナーに心酔していた。神だった。


ブルックナーは、ヴァーグナーの古典主義的でない拡大されたロマン主義の、いわば破格の音楽構成・個性破壊に至るぎりぎりの和声進行といった前衛性には強く惹かれたが、その「楽劇」のストーリーにはまるで興味もなく理解もできなかったことがだ弟子たちの証言から知られている」


このエピソードが、らしさを物語っている。

ヴァーグナーに『交響曲第3番』を捧げようとバイロイトに行ったブルックナー。『ニーベルングの指輪』作曲完成に頭から火を噴いていた状態にもかかわらず。この空気の読めないっぷりったら。「「三日後に来なさい」」と言われる。これは、京都人から「ぶぶ漬けでもどうどす」と言われるのと似ているのだが、通じない。それどころか、延泊するほど「懐」が豊かではない。「ほんの数分でよろしいので」とその場で見てもらうことを懇願する。褒められて有頂天。「午後五時に別邸のヴァーンフリート館に来なさい」と。空き時間に彼は「建設中のバイロイト祝祭劇場を見学する」。建設現場で足を滑らせて「モルタルが衣服に」ついてしまう。約束の時間に現われたブルックナーを見たコジマ夫人。「汚い物乞い」かと。


たぶん生涯ダサかったブルックナー。いでたちも当時の流行りものではなく、オルガンの弾きやすい服装。口下手だし、訛りもあった。でも、大学では男性の教え子、弟子たちから慕われていた。最後にはガラガラになった劇場でも懸命に拍手したり、ブラボー屋になったり。作者はこう述べている。

 

ブルックナーが「世間」に対しては無力・無能、弟子に対しては「家長のような威厳」を見せたというところである。この乖離した二面がブルックナーの性格の特徴と言える」

 

交響曲第三番がヴィーン・フィルの定期演奏会」で指揮をしたブルックナー。聴きに来た学生たちの一人がマーラーだった。「大学でのブルックナーの講義を聴き、オルガンの演奏や、ときに例示される自作からその音楽に心服していた」


女性の教え子からいまでいう「セクハラ」で訴えられたが、救いの手が差し伸べられる。

 

幾つになっても恋するのはティーンエイジャーの娘。ロリコンとかじゃなくて、たぶん、大人の女性は苦手。ホモソーシャル気質のミソジニー野郎だったのだろう。でも、非難できない。とにかく心が折れない。作品が酷評されようが。たまには、折れたようだが。


何せ「ヴィーン・フィル」一流の奏者も嘆くほど難しかった。理解できなかったと言うべきか。ヴァーグナーの亜流とはじめは評価しなかったうるさい評論家連中やウィーンっ子たちも、やがて彼の交響曲の新しい魅力に惹かれていく。

 

教会のオルガン奏者からスターとしたブルックナー。譜面通りの演奏よりも即興プレイの方が断然すぐれていたと。いまならアドリブばりばりのジャズピアニストかなんかで売れっ子になっていたかもしれない。

 

この分厚さは必然だと思う。たっぷりとブルックナーの生涯や音楽を知ることができるのだから。Spotifyで「未完の『交響曲第九番』」でも聴くことにしよう。


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「そうだ 京都、行こう。」「なのにあなたは京都へゆくの」

 

 


エスケイプ/アブセント』絲山秋子著を、読む。


相変わらずも裏街道人生をいく40歳の男が主人公。60年代生まれなのに、なぜか過激派になって地下潜伏、逮捕、入獄。人生のいいところをオシャカにした中年男の自分探しの旅。行き先はなぜか京都。京都は過激派とブルースやロックが似合う町(だったと書くべきか)。


なら、ちゃんと大学出て有名企業に入って結婚して、子どもができて、住宅ローンで郊外に戸建買って、子どもを有名私立に通わせている人生がメインストリームで素晴らしいのかというと、どうなんだろ。

ネガとポジのようなもので、この小説の主人公とて、たぶん、ちょっとしたボタンのかけ違いにより結局は、そうなってしまったという。延々と続く男のモノローグは、セリーヌほど激しくはないが、ミシェル・ウエルベックが好んで書きそうなキャラに似ている。んで、ぼくの好物。

 

しめったノスタルジーではなくて、乾いたユーモアや哀しみが全編に漂っている。いかがわしい世界をとことん追求すると、そうじゃない(と思われている)世界が見えてくる。


2009年の『新潮6月号』で絲山秋子清水徹の対談を読んだ。絲山秋子ってビュトールファンだったのか。知らなかった。視覚的な文章。言われてみれば、饒舌じゃない文体や見知らぬ町などの風景の描写とかが似てるかも。


ぼくも、会社員時代、仕事で地方に一人で出張つーか取材に行って、ビジネスホテルから夜、街へ繰り出して良さげな店はないかと徘徊する。なんかビュトールしてるじゃんって、悦に入っていた。ええと、函館、博多、札幌、小樽、旭川あたりか。

 

ビュトールフレームワークを活かして今様に味つけするのかな。日本人得意の加工貿易スタイルの創作とか。

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子どもからの、郷里からの、親からの卒業

 

 

『奇蹟のようなこと』藤沢周著を読む。

少年がはじけるまでの瞬間を捉えたみずみずしい短篇連作集である。尾崎豊は「自由からの卒業」と歌っていたけど、本作の主人公にとっては「子どもからの卒業」であり、「郷里からの卒業」、「親からの卒業」である。

彼は、新潟の高校生。クラシックギターを習い、学校では柔道部の選手。学生服にゴム長といういまどき珍しいバンカラスタイルでキメている。


まるで狂犬のような高校生同士の反目、恫喝(どうかつ)、大人の女性への憧れ、狭い地縁・血縁社会の閉塞感。このまま自分は埋没してしまうのではないかという焦燥感。ある時は、とてつもなく自分自身が優秀に思え、その直後にとてつもなく愚鈍に思える。その振幅の大きさも、また、この世代ならでのものだと思う。

たぶんに作者の高校時代の体験が色濃く反映されているのだろう。私小説の系譜に属すのかもしれない。多彩な作風の作者の中でいうと、『ブエノスアイレス午前零時』の範疇の新潟ものにラインアップされるだろう。

いきいきとした方言はもちろん、新潟の町、山、海、雪など丁寧に書き綴られた描写も素晴らしい。特に、ぼくと同じ地方出身の人には、たまらなく懐かしい。たとえばVANのファッションなど時代考証も綿密で、中高年者には、ノスタルジックな情景が浮びあがってくる。

最近、小説と、とんと、ご無沙汰気味のお父さんにも、おすすめ。ひきこもりも、アダルトチルドレンも、ドラッグもないけれど、こんな小説らしい小説も、たまには良いと思う。

単行本の装丁はJ文学の功労者、常盤響。本作もふだん書店なんかに入らないヤングがジャケ買いしてくれればいいという目論見から起用したのかもしれない。ぼくは、もっとオーソドックスなほうが好みだし、この作品を反映していると思うのだが。
 

単行本 装幀

 

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ムダはムダじゃない。ムダははぶかれるものじゃない

 

 

ナマケモノ教授のムダのてつがく  -「役に立つ」を超える生き方とは-』辻信一著を読む。

 

確か、「スローライフ」の提唱者、文化人類学者で、大学の先生でもあった著者の本をはじめて読んだ。やさしいチャーミングな言い回しで、「そうだよな!」「そうだったのか!」ということばかり述べている。


「ぼくたちはよく「ムダだ」と断定する。―略―しかし、そう断定してしまっていいのだろうか。「役に立たない」と決めつけていいのだろうか。それは物事に秘められているある可能性を否定してしまうことになるのではないか。「何かの役に立つか、どうか」という見方のうちに収まりきらない意味をみすみす見失ってしまおうのではないか。もしそうなら、それはあまりにも「もったいない」」

 

「ムダじゃ、ムダじゃ」が口癖なのは「ムーミン」に出て来る哲学者のジャコウネズミだが、ひょっとしたら、「ムダじゃない、ムダじゃない」と宗旨替えしているかもしれない。


「ムダをはぶくことが重要視されている。―略―断捨離派もミニマリストも、ムダをはぶけるだけはぶいて、時間やスペースを節約し、自分の自立度や自由度を高めることを目指しているように見える。しかし、どうだろう」


不思議の国のアリス』に出て来るいつも時計を見ながら急いでいる白うさぎを思い出す。今なら歩きスマホをしながら歩いているかもしれないが。

 

「テクノロジーの進化が時間のゆとりを生むという幻想」
「テクノロジーのおかげで、ぼくたちははたして、前より自由な時間が増えて暮しにゆとりができただろうか。いや、逆に、生活からはますます時間がなくなり、誰もが忙しがっているように見えるではないか」

 

テクノロジー教の狂信的な信者ってとこで。たまにノートPCではなくフリーハンドで文章や絵をかくときがあるが、そのらくちんで自由なこと。

 

サン・テグジュペリの『星の王子様』に出て来るキツネの教え。
「時間をムダにするとは、効率性、生産性、合目的性などの要請から自由に、自分の時間を生き、自分の人生を生きること。愛とは、それが何の役に立ち、何の得になるかにはかかわらず、惜しげなく相手のために時間を使うこと」

「無辜の愛」ってヤツ。見返りや代償を求めない。


他にも「ブルシット・ジョブ」や「ケア」、「ネガティブ・ケイパビリティ」なども考え方やその背景など、わかりやすく述べられている。

 

最後に、個人的にウケた小話を引用。

「江戸の小話にもこんなのがある。長屋の大家と怠け者の若者の会話だ。
「なんでえ、いい若いもんが、寝てばかりいねえで、起きて働け」「働くとなんかいいことあんすか?」
「そら、稼げば、銭が稼げらあ」「銭稼ぐといいことあんすか?」
「そら、稼げば、金持ちになる」「金持ちって、なんかいいことあんすか?」
「そら、金持ちになったら、もう働かずに寝て暮せる」「それなら、もうやってます」」

 

おあとがよろしいようで。

 

ムーミン」に出て来る哲学者のジャコウネズミ

不思議の国のアリス』の白うさぎ

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幽霊百景―幽モア、幽トピア、幽アンドミー

 

 

『いろいろな幽霊』ケヴィン・ブロックマイヤー著   市田 泉訳を読む。 


イタロ・カルヴィーノ短編賞受賞作家による幽霊譚。2頁で一話。計100話。
みながみな怖いわけではなく、滑稽だったり、奇妙だったり、ファンタジーだったり、甘酸っぱかったり。意外な視点やアングルから描かれる幽霊たち。


わずか2頁だが、作者は自由自在に話を展開する。なんつーか小宇宙かと思ったら大宇宙だった、そんな感じ。精緻につくられた作品から何篇かピックアップ。

 

『どんなにさささやかな一瞬であれ』
主人公は方向音痴の女性の幽霊。なんとか「憑りついている家」に戻ろうと、人間に声をかけるが、無視される。焦る彼女。偶然一部始終を目撃していたホットドッグ売りの男。彼は彼女に出て来た家の目印を教える。途端に消えてしまった幽霊。

 

『ミツバチ』
ミツバチにそっくりな幽霊。「生の世界と死の世界の」際に巣をつくる。ミツバチは花の蜜を吸うが、幽霊たちは死者から幽体エネルギーを吸う。たらふく吸って体はまんまる。ミツバチは蜜を吸うときについた花粉を受粉させる大事な働きがあるが、そのあたりは定かではない。

 

『来世と死の事務処理機関』
「初老の男」が幽霊としてお迎えの準備OK!という手紙を受け取った。ただし、それには25ドルの小切手か為替が必要。霊界の沙汰も金次第なのか。送ったはずが届いていないと。連絡先に電話して生年月日を伝えると、先方が誤入力していた。電話に出た女性が、再び、間違えてしまった。すごい間違い。

 

『小さなロマンスとハッピーエンドを含むタイムトラベルの物語』
コインローファー(ペニーローファーともいう)は、甲のベルトの穴にコインを挟むことから、その名がついた。コインローファーを愛する少女は、同じくらい「タイムスリップの物語」を愛していた。タイムスリップの方法は、「1932年に行きたいならば1932年製の硬貨」を挟む。

 

『香り(ブーケ)』
彼が亡くなった。声はおろかにおいまで消えてしまった。何か月後、彼女がキッチンに立っていたら、彼の香りがした。彼女は、まさかと思ったが、それ以降彼のにおいがあちこちでする。姿は見えないが、ああ彼だと。彼女は香りで彼と確認し合った。彼女が亡くなった。二人は晴れていっしょになった。なんだか雨月物語っぽい幽玄感が。

 

『陽ざしがほとんど消えて部屋が静かなとき』
人間に憑りつくのが得意な幽霊だが、この男の幽霊は「幼児の体に」幽閉されてしまった。いかんせん抜け出ることができない。かくなる上は幼児が大人になって老いて衰弱して死を待つしかない。肉体は衰えるが、幽体は衰えないとされているが、こともあろうに「虜になって43年目のなかば」幽体が肉体に崩壊させられる。そ、そんな…。薄れていく意識。

 

百物語だと百話怪談を話し終えると、幽霊が現われるというが、百話読了しても、いまのところ、それらしい兆しはない。ひょっとしたら、すでに、幽霊に憑りつかれているのかもしれない。あるいはいろんなところから覗かれているのかもしれない。

 

表紙の幽霊たちのイラストレーションがポップでかわいい。Tシャツがあったら、買うかもな。

 

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「芸術とは人が労働のなかで得る喜びの表現」「人が仕事に喜びを覚えていた時代があった」byウィリアム・モリス

 

 

『ゴシックの本質』ジョン・ラスキン著  川端康雄訳を読む。

 

「ゴシック」でも小説ではなく建築の方。114の断片でゴシックの魅力と建築にかかわった職人を礼賛している。

 

〇ゴシックの特徴について

私見では、ゴシックの特徴的な要素、すなわち精神的要素を重要な順に並べると以下のようになる。

(1)荒々しさ(2)変わりやすさ(3)自然主義(4)グロテスク性(5)剛直(6)過剰さ

これらの特徴は建物に備わった場合にこう表現できる。建てた人間に備わったものとしては、以下のように表現できるだろう。

(1)荒々しさ、あるいは粗野(2)変化への愛(3)自然への愛(4)奔放な想像力(5)頑固さ(6)寛大さ」

〇ゴシックの語源とゴシックへの非難に対して

「「荒々しさ」。「ゴシック」(ゴート族)なる語が最初に北方建築の総称として適用されるようになったのがいつのことか詳らかではない。―略―それが避難の意を暗に含み、その建築を生み出した諸民族の野蛮な特徴を表現しようとしたものだったということは推測できる。―略―なるほど北方の建築は粗削りで粗野である。それはたしかにそのとおりなのであるが、だからといってそれを断罪し軽蔑すべきというのは正しくない。まったくそれと逆で、まさしくこの特徴があるからこそ、その建築はわれわれが深い敬意を表するに値するものなのだと私は信じる」

ゴシック建築につきもののゴブリンやいかめしい彫像は職人たちの「生命と自由のしるし」

「古い大聖堂の正面をみつめてみよう。そこにみられるむかしの彫刻師の途方もない無知をあなたはたびたび笑ってきた。あの醜い小鬼(ゴブリン)や不格好な怪物、そして解剖学を無視したぎこちない姿のいかめしい彫像をいま一度吟味していただきたい。だがそれらをあざ笑ってはならぬ。なぜなら、それらは石を刻んだ職人ひとりひとりの生命と自由のしるしなのだから。それは思考の自由と人間という存在の位の高さを示すもので、それはいかなる法則や証文や慈善によっても得られぬものなのである。そして今日のヨーロッパ全体が第一の目標とすべきなのは、そこで生まれる子らのためにこれをとりもどすことなのだ」

〇自然への愛が反映されている植物の装飾はゴシックの意匠の特徴

「ゴシックの工人たちは「植物」の形態をとくに好んでいた」「植物の優美さと外的な特徴を愛情細やかに観察できるというのは、大地の恵みによって支えられ、大地の壮麗さに喜びを覚えるもっと平安で穏やかな暮らしの豊かな暮らしの確かな表象なのである」


〇グロテスクとは

「グロテスクは「奇妙な」「奇怪な」といった意味で一般化している英語(および仏語)だが、本来は人間や動物や植物、空想上の生き物などをあしらったアラベスク文様の一名称だった。15世紀末にそうした文様を含むネロの宮殿がローマの地下から発掘されたために「グロッタ(穴ぐら)の文様」の意味で「グロッテスキ」と名づけられたことにちなむ。新古典主義の時代には「グロテスク」は主として否定的な意味を有するものだったが、ロマン主義以降、古典主義的な美学の範疇を超えた美の要素として積極的にとらえなおされるようになった」(訳注(3)より一部引用)

ウィリアム・モリスの序文より引用。
ラスキンは、ここでわれわれに次のような教訓を与えてくれているからだ。芸術とは人が労働のなかで得る喜びの表現であるということ。人が自分の仕事に喜びを見いだすことは可能であること―というのも、今日のわれわれには奇妙にみえるかもしれないが、人が仕事に喜びを覚えていた時代があったのだから」

 

『ブルシット・ジョブ   -クソどうでもいい仕事の理論-』デヴィッド・グレーバー著の下記の箇所がリンクする。

「さらに、多くのフェミニスト経済学者が指摘しているように、すべての労働はケアリング労働だとみなすこともできる。というのも、たとえば橋を
つくるのであっても―略―つまるところ、そこには川を横断したい人々への配慮(ケア)があるのだから」


この流れがやがてウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動となる。ジョン・ラスキンの「美学と思想」は、柳宗悦に大きな影響を与え、民藝運動となった。


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