英国ゴシック文学の系譜学―怪奇・幻想の奥底にあるもの

 

 


『ゴシックと身体 想像力と解放の英文学』小川公代著を読む。

 

みんな大好きなゴシック小説というと、怪奇とか幻想とかクラシックとかオカルトとか、そんなものをイメージする。ぼくもメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』、レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』などそういう読み方をしていた。

 

表現は時代を映す鏡といわれるが、ゴシックが生まれたいきさつ、どのようにゴシックが流布したか。そも、ゴシックの魅力とは。「ゴシックの系譜」。そのあたりを深堀してあって、いままで点的に知り得ていたことが線につながっていく。


「“ゴシック”はつねに政治的な機能を果たしてきた。ゴシック小説の夢や無意識の領域と創造力の働きが豊かに語られるようになったのは、吸血鬼物語においてだろう。たとえば、ヴァンパイア―とりわけ女性の吸血鬼―はたんなる虚構の怪物ではない。そこには19世紀の因習に抗おうとした新しい女性たちの政治的な意識が浮かび上がる。社会で制度化されたものの周縁における過去から召喚された装置を「戦術」として用いたものと考えることはできないだろか」

 

書き出しを引用したが、この本の趣旨、書いた狙いをのっけから剛速球で投げ込んでくる。

 

「“ゴシック”はたんなる怪奇物語ではない。それは、恐怖や畏怖の感情を喚起させる物語が作家作家たちの想像力を介してつくり出されてきたからだ。言い換えれば、想像する力をパフォーマティヴに示してきたのが“ゴシック”というジャンルなのだ」

 

さらに、もう一つ重要なことがあると。

 

「ゴシック小説が、人間の理性に対する懐疑を表わすという前提である。―略―たとえばデヴェンドラ・ヴァーマは、18世紀後半に起きたゴシック・ブームの到来を、啓蒙思想が掲げてきた「人間の理性」に対する懐疑、あるいは超自然的な存在への回帰であると説明している」

 

「ゴシック小説がとくに中流階級女性の娯楽として」読まれていたのは、エンタメよりも一種のカタルシスを得るためのものだったのだろうか。坂田靖子の漫画なら令夫人が横暴な夫に対して女性吸血鬼に変身して深夜血を吸うシーンを妄想するとか。

 

「フランスの思想家ミシェル・ド・セルトー」に倣えば、
「“ゴシック”とは18、9世紀の作家たちが言葉の戦術として近代人の無意識から回帰させたものである、捉えられよう。というのも、近代社会が掲げてきた合理主義への挑戦がなされてきたのも典型的にこのジャンルであり、この媒体を通して、身体によって突き動かされる人間の非合理性、あるいは非理性の物語が語られてきたからだ」

 

エンゲルスの『空想から科学へ』をもじれば『空想からゴシックへ』となるのだろう。

なんか科学的、理性的なものがいばっているけども、非科学的、非理性的なるものと出処は同じわけだし。科学のルーツをたどれば錬金術になるわけだし。


んでもって読みたい本がいろいろ紹介されている。どの本も面白そうで、困る。まじ、困る。

 

メアリ・シェリーの父親であるウィリアム・ゴドウィンの元祖社会派ミステリ『ケイレブ・ウィリアムズ』。母親である元祖フェミニスト、メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』。チャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』。
そしてエミリー・ブロンテの『嵐が丘』。名作中の名作。恥ずかしながら未読。


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