これですでに書いてあったつかさんの文章は最後かな(別の形では書きますが) | いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

シンブルファザーとなってはや5年
娘と一緒に楽しくも格闘しながら
毎日を送っています

【先生】




 2010年7月12日、つかさんの訃報の報道が出たときパパは、まだ寝ていました。

 突然、朝5時すぎに電話がかかってきました。おばあちゃんからでした。

「おまえテレビ見てごらん。つかさんが亡くなったよ」

 というのです。

 あまりにも突然のことでかえって、冷静になっていました。そうか……。 

 最後に会ったのはいつだろう。最後に話したのはいつだろう。

体調が悪いことはなんとなく耳にしていました。でも、そこまで悪いとは知りませんでした。

 2年ほど前に芝居を作り終えて、「お疲れさま、おまえもこれからがんばれよ」と電話で言われて以来、電話で話すことも会うこともありませんでした。

 しかし、そんなことはつかさんとパパの間にはよくあることでした。

 つかさんは一回なにかが終わると、電話番号をかえて、すべてを断ち切る癖がありました。パパはそのときに一度関係をきられていたのです。

 だから、つかさんと馴れ合いになったり、つかさんにすりよるようなことは一切しませんでした。いつかまた声をかけてくるときがあると、そのときにまた会えればいいし、そのときは思い切りつかさんのために頑張らせてもらおうと思う、そういう付き合いだったからです。


 突然といえば突然で、でもつかさんらしいといえばつかさんらしい、別れの仕方でした。

 いろいろな人から電話があったり、お話をしたり、つかさんの死を実感できないまま夜になり、一人で物思いにふける時間ができても、涙ひとつ出てきませんでした。

 そういうものなんだろうと思っていたのです。

 つかさんはよく、「死ねば人間それまでだからよお」と言っていました。それはそれまでだからこそ、生きているいまをちゃんと駆け抜けろという意味でもあったのだろうとパパは思っていました。

 

 次の日の朝、起きてきたおまえはパパに言ったね。

「パパの先生、つかさん死んじゃったんだね」

 あのときパパははじめて、そのことを実感しました。

 ありがとう……遥花。


 あれからいろんな思いがあり、いろいろな人と出会い、生きてきました。あまりにも早く月日が流れ、日々の生活の中で、そのことを忘れてきました。

 ただ、時々、ふと、つかさんのことを思い出すのです。

 パパが唯一、『先生』と仰ぐことができる、つかさんのことを……。


 遥花、パパの『先生』はこんな人でした。


 その出現が演劇界のみならず、日本の文化全体をかえました。

 時代を読むのではなく時代になってしまった人でした。

 作った設定やセリフ、全てが当たり前のことになり、文化になってしまったからこそ、もはや、作品が残ることより、文化が残ることになってしまった人でした。

 なにを恥と思い生きていくか、その恥の方向性が文化であると説きました。

 「在日」という生まれから様々な思いを抱いてきたのに、決して、それをつらいとか苦しいとか当たり前の悲嘆にくれませんでした。

 弱者の目線に立って、社会の底辺に生きる人間たちの中で、その生活を楽しみ、そこから希望を見出していく、そんな作品を作り続けてきました。

「オレの作品はワンパターンだからよお。愛嬌のある男がいて、きれいな女がいてよお。その愛嬌ある男はいいやつで、女がなびいて、いい関係になると、女の過去が許せなくなってネチネチ、ネチネチいじめて、それでも二人で手を取り合って生きていこうと誓いあうというパターンな。それしかねえんだよ」と、笑いながら言っていました。

 人間、本気であやまれば、許してもらえないことはないと言っていました。

 人は幸せになるために、この世に生を授かったんだと説きました。

 なにがなんでも最後は幸せな、心躍る、ハッピーなエンディングを迎えなくちゃいけないんだと言い続けました。

 役者は河原乞食だといいました。

 人間には男と女とサルがいる、そのサルが役者だといいました。

「おまえは人間としてダメだ」と稽古場で言い続けました。

 劇作家の書けることなんて4割程度で、残りの6割は役者に書かせてもらうものなのだといいました。

 稽古場で、役者を前にすると、その人の人生の中で、なにがふれるのかを探し、言葉として与え、ふれた瞬間にそこから、ひとつひとつ、言葉を口移しでつくり、芝居をつくりあげていきました。

 役者が好きなんですといっていました。

 芝居はF1レースのようなもの。これ以上だしたら死ぬというデッドゾーンギリギリのラインのスピードで、走り続け、さらにアクセルを踏み込みながら走るのが役者だといっていました。

 無用の長物、『スカブラ』になれることが役者であるといっていました。

 時代に即した芝居作りを考え続けました。

 構造をかえていくことが芝居作りだと説きました。

 作家の想像を遥かに超えた事件が起こる中で、それでもそれを解析し、そこに向かって新たな希望を見出していくことが文学の可能性だと説きました。

 パパの結婚式を自分の演出のように語っていました。

 パパの別居話を、パパの知らない人までに知らせて笑っていました。

 オレが明るくやらなきゃ、おまえ、自殺するだけだろうと笑ってくれました。

 事務所にあった足踏み健康マシーンを見ながら、

「あのマシーンを30分、1日5回やることをノルマにしてるんだけどよお、毎回、あれをやる前に憂鬱な気分になるんだよ。やろうかやるまいか。もうそれを考えているだけで、気持ちが滅入るよ」

 とつぶやき、その滅入りはかえって身体に悪いんじゃないかと思わせてくれました。

「明日、韓国にいるからねえ」「明日、大分にいるからねえ」「明日、和歌山のカレー事件の現場にいるからねえ」「明日、一昼夜かけて鯖街道を歩いてくるからねえ」「明日から、おまえ、芝居の稽古つけてもらうからねえ」

 全てにおいて『ノー』を言わせない人でした。

 お化けのように白く白く整形していくマイケルジャクソンを見ながら、「白くなりたいんだなあ」とつぶやいたこともありました。

 紫綬褒章をいただいたとき、なにより喜んでいましたが、韓国ではいっさい報じてくれなかったといって、オレは帰化したろうかと笑いながら言っていました。

 でも、オレが帰化したら、これまでオレが書いてきたことで、勇気づけられてきた、在日の人たちもいるわけだからなあ、そういう人たちに申し訳ねえよなあとも言っていました。

 待てよ、人を待ってやれ、そこんとこ待てないと役者はダメになるからよおと語っていました

 ある人は、「翼をくれた人だ」と語っていました。

 ある人は、亡くなったとき、きたねえよ、と涙を流していました。

 

遥花、おまえに語ってあげたい、『先生』との思い出はもっといっぱいあるはずです。思い出さなくちゃいけない恩もいっぱいあるはずです。でも思い出せないものですね。

 きっと、『先生』は、そんなことにすがってんじゃねえとおっしゃっているんでしょう。

 だから思い出させないようにしているんじゃないでしょうか。


『先生』に聞こえるなら、いま、伝えたい。

「先生、娘はこんなに大きくなりました。

 あのとき抱かれて、ワンワン泣いていた娘が、こんなに大きくなったんですよ。

 ランドセルを背負って学校に通うようになりました。

 生意気な口を聞くようになりました。

 パパ、元気出してねと、先生が亡くなったとき、先生とパパと娘三人で撮った写真の絵を描いてくれました。

 これから、ひとつひとつ、先生がいなくなってからも、いろいろな出来事が起こり、先生のことを忘れていきます。

 それでいいんですよね。 そうしなくちゃいけないんですよね。

 自分の人生を、自分の守るべきものを命かけて大切に守っていかなくちゃいけないんですよね。そのためにはどんなことでもしなくちゃいけないんですよね。

 そのためには、人をちゃんと信じて、ちゃんと傷つき、ちゃんと愛せる人間になっていかなければいけないんですよね。

 人は幸せになるために生まれてきたんですよね、先生」

 聞こえてくれればいいと、そう願っています。

 

 遥花、パパは誇りに思います。

 この一生の中で、『先生』と呼べる人に出会えたことを。

 そして、おまえという娘を授かったことを。

 おまえに胸はれることはなにもない父親ですが、つかこうへいという『先生』からいただいた言葉たちをつむいでおまえに教えてあげることはできます。

 パパはそのことで、未来を生きるおまえが、つかさんの言葉を、志を、おまえの次の世代に語り継いでくれて、つかさんがこの日本に生きた証を残していってくれればうれしく思います。

 おまえはおまえの『先生』を見つけてください。そしてその『先生』を持てたことを誇りに思える人間になってください。

 空はどこまでも青く澄み渡り、大きな太陽がおまえを包み込んでいます。

 そのあたたかな日差しの中で、パパはおまえの笑顔を見つけます。

 遥花、人は幸せをつかむために、尊敬すべき、人と出会い、生きていくものです。

 その幸せの形を、その人の『命』と呼ぶのだとパパは思います。

 この世に生を授かり、パパのもとにきてくれて、ありがとう。

 大切な『命』を精一杯、育んでください。