風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。歴史的な建築物に惹かれて(滋賀県・菅山寺) [歴史的建築物]
今回は菅山寺の写真を載せたいと思う。
インターネットで調べていたら、
滋賀県の菅山寺の山門の写真が目に留まり、
森の中の廃寺を一度見てみたいと思って行ったのである。
撮影:OLYMPUS OM-D E-M5、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6
菅山寺の解説
大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。
奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、
龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、
3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名した。
菅山寺は藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、
興福寺の古い記録には、僧房105末寺70余とあり、
極めて大きな寺であった。
天正10年(1582)の大地震により、当寺は壊滅した。
この時経蔵の宋版大蔵経の収納箱約40箱も破損している。
その後、黒田村(現木之本)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力し、
江戸時代初めに堂宇を再興した。
高野山で修法し当寺に帰住した専秀に帰依した石田三成から、
寺領30石と山林を寄進安堵された。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、
代償として寺領50石を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
浅井長政、石田光成、徳川幕府の庇護もあったが、
江戸時代末期より、末寺が他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、
彦根社寺役人に救済を願い出てはいるが、
明治初期までの菅山寺はまだ相当な規模を誇っていた。
駐車場から森の中に入るとじきに目に入った。
いくつか要所要所にあり、このまま行けばいいと教えてくれている。
10分ほど下ると、廃寺が見えてきた。
本堂と経堂が見えている。
これが今回一番見たかった山門の大きな木に挟まれた風情。
人影のない森閑とした道を進むと、間口が2m弱の朽ちた山門と出合う。
山門の両脇には巨石と見間違える、大ケヤキ(県指定)の古木2本がそびえる。
菅原道真公の手植と伝える。
幹周り6mを越え、樹高15m以上の巨木である。
滋賀県の自然記念物に指定されていたが、
写真の右側のケヤキの巨木が強風と腐食により2017(平成29年)9月に折れた。
本堂
経堂
一切経を入れる殿堂で、専暁が持ち帰った一切経7千余巻が収められていたとされる。
堂内の意匠も凝っている。輪転部は、戦前までは動いていたともいわれる。
破損が無ければ、国宝級のものとも聞かれる。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、代償として寺領50石
を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
本堂
本堂
梵鐘
本堂と石仏
弘法水
宝蔵庫
平安時代から鎌倉時代にかけての多数の宝物が収蔵されてきた。
今は弘善館にて保存されている。
護摩堂
護摩には供物札木を焼く外護摩と、
自身を壇として如来の智火で煩悩の薪を焼く内護摩とがあり、
ここは内護摩が行われたところ。
護摩堂
大きな倒木がいくつもあった。
朱雀池
千年の間、干天にも満水を保つ朱雀池、天満宮をひたすら守ってきた。
朱雀池は雨乞霊験あらかたとされてきた。
近江天満宮
朱雀池のまわりを進むと近江天満宮に着く。今でも参詣者は絶えない。
祭神:菅原道真
菅原道真公発祥の地として、道真が太宰府で無くなった後で建立(955年)。
道真の像を祀り、菅山寺の鎮府としたのが近江天満宮の始まり。
慶長2年(1597)石田三成から禄30石、慶長18年(1613)には、
徳川家康より禄50石を寄進されるなど有力者の崇敬を集め
現在の本殿も彦根藩主井伊家の築造によるもの。
豪壮な拝殿は、大正末期近江天満宮講が集めた資金で建てられた。
五所権現
駐車場まで戻る途中で撮影。
急こう配が続き20分ほどかかったが、
歩くことに自信がある自分でもきつかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここからは近くの別の寺
洞寿院(余呉三山)の解説
丹生川上流の菅並からさらに支流・妙理川をさかのぼった渓間にあり、
湖北の曹洞宗を代表する寺です。
室町時代前期、如仲(にょちゅう)禅師の開山で、修行の道場として
大勢の禅僧を養育し、宗派を広げました。
安土桃山年代には朱印寺となり、格式の高さを誇っていました。
鎌倉時代前期の造立銘を持つ、観音菩薩立像(国指定の重要文化財)や
大日如来像、天ぎん(てんぎん)・聞本(もんぽん)禅師の像など
寺宝は多くありますが、その一つに「龍の玉」があります。
妙理川の中ほどに並ぶ夫妻滝に棲みついて、人々を苦しめていた龍を、
開祖の如仲禅師が法力で済度すると、
ある夜龍が枕元に現れ寺院の守護となる証に、
玉を置いていったと伝えられています。
インターネットで調べていたら、
滋賀県の菅山寺の山門の写真が目に留まり、
森の中の廃寺を一度見てみたいと思って行ったのである。
撮影:OLYMPUS OM-D E-M5、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6
菅山寺の解説
大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。
奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、
龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、
3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名した。
菅山寺は藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、
興福寺の古い記録には、僧房105末寺70余とあり、
極めて大きな寺であった。
天正10年(1582)の大地震により、当寺は壊滅した。
この時経蔵の宋版大蔵経の収納箱約40箱も破損している。
その後、黒田村(現木之本)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力し、
江戸時代初めに堂宇を再興した。
高野山で修法し当寺に帰住した専秀に帰依した石田三成から、
寺領30石と山林を寄進安堵された。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、
代償として寺領50石を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
浅井長政、石田光成、徳川幕府の庇護もあったが、
江戸時代末期より、末寺が他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、
彦根社寺役人に救済を願い出てはいるが、
明治初期までの菅山寺はまだ相当な規模を誇っていた。
駐車場から森の中に入るとじきに目に入った。
いくつか要所要所にあり、このまま行けばいいと教えてくれている。
10分ほど下ると、廃寺が見えてきた。
本堂と経堂が見えている。
これが今回一番見たかった山門の大きな木に挟まれた風情。
人影のない森閑とした道を進むと、間口が2m弱の朽ちた山門と出合う。
山門の両脇には巨石と見間違える、大ケヤキ(県指定)の古木2本がそびえる。
菅原道真公の手植と伝える。
幹周り6mを越え、樹高15m以上の巨木である。
滋賀県の自然記念物に指定されていたが、
写真の右側のケヤキの巨木が強風と腐食により2017(平成29年)9月に折れた。
本堂
経堂
一切経を入れる殿堂で、専暁が持ち帰った一切経7千余巻が収められていたとされる。
堂内の意匠も凝っている。輪転部は、戦前までは動いていたともいわれる。
破損が無ければ、国宝級のものとも聞かれる。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、代償として寺領50石
を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
本堂
本堂
梵鐘
本堂と石仏
弘法水
宝蔵庫
平安時代から鎌倉時代にかけての多数の宝物が収蔵されてきた。
今は弘善館にて保存されている。
護摩堂
護摩には供物札木を焼く外護摩と、
自身を壇として如来の智火で煩悩の薪を焼く内護摩とがあり、
ここは内護摩が行われたところ。
護摩堂
大きな倒木がいくつもあった。
朱雀池
千年の間、干天にも満水を保つ朱雀池、天満宮をひたすら守ってきた。
朱雀池は雨乞霊験あらかたとされてきた。
近江天満宮
朱雀池のまわりを進むと近江天満宮に着く。今でも参詣者は絶えない。
祭神:菅原道真
菅原道真公発祥の地として、道真が太宰府で無くなった後で建立(955年)。
道真の像を祀り、菅山寺の鎮府としたのが近江天満宮の始まり。
慶長2年(1597)石田三成から禄30石、慶長18年(1613)には、
徳川家康より禄50石を寄進されるなど有力者の崇敬を集め
現在の本殿も彦根藩主井伊家の築造によるもの。
豪壮な拝殿は、大正末期近江天満宮講が集めた資金で建てられた。
五所権現
駐車場まで戻る途中で撮影。
急こう配が続き20分ほどかかったが、
歩くことに自信がある自分でもきつかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここからは近くの別の寺
洞寿院(余呉三山)の解説
丹生川上流の菅並からさらに支流・妙理川をさかのぼった渓間にあり、
湖北の曹洞宗を代表する寺です。
室町時代前期、如仲(にょちゅう)禅師の開山で、修行の道場として
大勢の禅僧を養育し、宗派を広げました。
安土桃山年代には朱印寺となり、格式の高さを誇っていました。
鎌倉時代前期の造立銘を持つ、観音菩薩立像(国指定の重要文化財)や
大日如来像、天ぎん(てんぎん)・聞本(もんぽん)禅師の像など
寺宝は多くありますが、その一つに「龍の玉」があります。
妙理川の中ほどに並ぶ夫妻滝に棲みついて、人々を苦しめていた龍を、
開祖の如仲禅師が法力で済度すると、
ある夜龍が枕元に現れ寺院の守護となる証に、
玉を置いていったと伝えられています。
菅山寺は自然の中に埋もれていくような寺ですが由緒ある寺でも、
修理など修復されずに朽ちていくようでもったいないですね。
by 旅爺さん (2020-03-22 09:23)
旅爺さん、コメントありがとうございます。
インターネットで調べると、
坂口の表参道入口の鳥居から約100mの地点に里坊・弘善館があり、
寺宝はすべてここで保管され地元の住民が交代でお世話されているようです。
春と秋の大祭の日だけは大勢の参拝者に囲まれ、境内に活気が甦る。
朽ちかけた本堂から読経が響く。
ここは秋の大祭が終わると約4ケ月もの間、数メ−トルの雪の中で眠る。
その間は無住のお寺で訪れる人も無い。
そして翌年の春になればまた、千年にわたる自然の息吹を吹き返す。
人びとは年二回の大祭にのみ集まる。
とも記載されています。
荒れようがひどいですが、
まだ人が集まるようですね。
by minsuke (2020-03-22 11:06)
ご訪問&Niceありがとうございます。
1枚目の写真の仏様の頭どこへ行っちゃたんだろう?
お寺さんの後継は大変なのでしょうね。
一昨年跡取りのいないお寺さんに、お若い住職が
紹介で来られて、後を引き継ぎましたの挨拶を受けました。
by caterham_7 (2020-03-22 21:30)
caterham 7さん、コメントありがとうございます。
頭のない石仏は他にもありました。
年季が入っているので、自然の影響で落ちてしまうんでしょうね。
ごろごろと転がってなくなってしまうんでしょうか。
補修されないとそんなものなのでしょうね。
お寺の経営は檀家さんがどんどん減っていくし、
お墓も以前のようには作らなくなってきているから、
大変なようですね。
お坊さん自体が仏教を理解していないから当然でしょうね。
by minsuke (2020-03-22 21:53)
廃寺や廃村などの探訪は何か昔が見えるようで楽しいものですね。
by 旅爺さん (2020-03-29 08:01)