停点理論2 | Siyohです

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音楽とスピリチュアルに生きる、冨山詩曜という人間のブログです

考えてみれば過去生も停点のつながりであり、バイブルでしかないのですよね。では死後の世界はどうなのでしょう。生まれ変わりの輪に縛られた範囲の死後の世界なら、停点と呼んでも良い気がします。特に、時間感覚の強く残るアストラル界下層は、まさに停点と呼ぶにふさわしい。一方、アストラル界上層は、ちょっと停点と呼ぶのは無理がある気がします。全く違う現実に瞬時に動けるし、互いに全然違う時間感覚で生活できるみたいだし。

 

ここらへんをゆんゆんがどう考えているか気になるところ。彼女は「単なる死」と、本当の死を使い分けていますね。

『単なる死』は、無への布石でしかない
死んだら終わり
その先には、お前達のいう生まれ変わりも天国も地獄もない
ただの無だ

「生まれ変わりも何もなく死ねば無に帰るの?」と聞かれて

死の概念自体この先お前達は覆るからなー
だから私は単なる死という言葉を使ったんだ
停点とは何のことだったか今一度よく思い出せ

こんな答えを書いています。おそらく「単なる死」がいわゆる一般的な「死」なのでしょう。その先の無になってしまう「死」は一体何なのか。もしかしたら他と融合して、「個」と「全体」の区別がつかなくなるような、ずっと先の死後の世界を言っているのでしょうか。となると、ゆんゆん的には生まれ変わりの範囲の死後の世界まで含めて停点なのかもしれません。

 

死後のどの世界までを停点と捉えるかはさておき、実際この世は、生まれ変わりの範囲の死後の世界が、とても窮屈になったようなものです。死後も今も、現実というのは集合無意識と個々の人々によってできています。イメージとしては各自が自分の周りに球を持っていて、それらの球の重なり合った部分に集合無意識による補正がかかったものを現実として認識している感じ。ただ、この世だとこの現実を一緒に創る周りの人々がとても多様だというのが特殊なところ。あの世では似たような人たちが自然に集まってしまうので、こうした共有現実のでき方がこの世とはちょっと違う気がします。

 

共有現実のでき方が非常によく分かる例があります。これは「あの世の存在(いのち)に活かされる生き方」の第一章にある、アストラル界の病院で死後に目覚めた例です。

ヒーリング1担当の技術者の努力により、新しく亡くなった人達が「自分はもう病気や不具ではないのだ」ということを信じて、エネルギー体が再生されるまでには時間を要します。例えば、足を一本失った人が「自分には足がない」という強い気持ちを持ち続けていたとします。その場合、アストラル体に全く問題がなくても、その人が心の中で自分をどう「見る」かによって、その人のアストラル体が他の人の目にどう映るかが決まってきます。

自分が自分をどう見るかによって、相手にどう見えるかが決まる。これはあの世の例ですが、この世も基本原理は同じだと私は思うのです。ただ、集合無意識の補正が、あの世よりも強いかな。この停点における共有現実を創る、球と球とが交わった部分が、ゆんゆんの言っている「結び目」なのかもしれません。