ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

2023年10月30日 | カトリック

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

2023年8月28日(月曜日)

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

***アルド・マリア・ヴァッリのまえがき***

苦しみに無関心で、過敏で無神経で、容赦なく辛辣で、無慈悲な神学者であり、あわれな母親を嘲り、軽蔑し、口調もスタイルも人間性も堕落した主人公であり、ナショナリズムと神学的厳格主義によって盲目になって、硬直し、混乱し、改宗を必要とし、当時の厳格さと支配的な神学的、政治的、文化的要素に病み、幽閉され、異教徒の信仰を賛美する。これは、「Il Fatto Quotidiano」のコラム「主日の福音」の中で、カナン人の女の娘の癒やし(マテオ15章21-28節)という福音書の一節について、「チヴィルタ・カットリカ」のディレクターであるイエズス会のアントニオ・スパダロ神父が語ったイエズスの肖像です。スパダロ神父の言葉について、カルロ・マリア・ヴィガノ司教の見解を紹介します。

***まえがきおわり***

カルロ・マリア・ヴィガノ

スパダロの言葉(彼の論文「革命の種:イエズスは異教徒の女性の素晴らしい信仰を賞賛した」より。以下参照)は、一世紀以上にわたって教会を苦しめてきた最悪の近代主義の屑を含んだ汚水だまりのようです。

近代主義は、神学校や自称カトリック大学から決定的には根絶されずに残り、神学校や大学に、異端者のセクトや誤った考えを持つ人々が、二千年にわたる聖伝の代わりに第二バチカン公会議のトーテムを建立したのです。少し前まで、この「あらゆる異端の統合」【近代主義のこと。教皇聖ピオ十世はこう呼んだ】は、反キリスト的な本質を顕在化させないようにして、自らの体裁を整えようとしていました。それにもかかわらず、異端の総合とともに反キリスト的な本質のものでした。まだ近代主義のために完全に身を捧げていない一部の漠然とした保守的な高位聖職者が、それのもつ内在的な危険性に気づく恐れがありました。

もちろん、【近代主義者によれば】キリストの神性は、「原始共同体」の聖なるものの必要性からくる希望的観測に過ぎないと考えられました。キリストの奇跡は誇張として、キリストの言葉は比喩として軽視されました。一方、サタン会(Society of Satan)の総長アルトゥーロ・ソーサが言ったように、「録音機はありませんでした」。今日、聖イグナチオの規則に違反してペトロの座を占めているイエズス会士に守られ、このセクトの最悪の信奉者たちは自由にわめき散らし、地獄のような錯乱の中で、イエズス・キリストを冒涜するまでに至っており、イエズスは、ベルゴリオから、すでに憂慮すべき言葉を浴びせられています。「イエズスは蛇になり、悪魔になった」と、このアルゼンチン人は少し前に言っていたのです。

スパダロも同じことを言い、自分が罰せられないと信じている者の傲慢さで、私たちの主のことを「病人であり、硬直性とその時代の支配的な神学的、政治的、文化的要素の虜」、「苦しみに無関心で、怒りっぽくて鈍感で、容赦なく強硬で、無慈悲な神学者であり、嘲笑的かつ無礼であり、ナショナリズムと神学的厳格主義によって盲目になっている」と定義しています。カナン人の女に関する福音の一節について、聖なる教父たちが何を教えてきたかを、このような混乱した心の持ち主らに説明するのは無駄です。彼らは第二バチカン公会議の偶像をその台座の上に高く保つことに関心があり、自分たちの誤謬を守るために、天主の御子を踏みにじり、過去の最悪の異端者たちでさえあえてしなかったように、天主の御子を傷つけ、冒涜しなければならないとしても、彼らにとってはほとんど問題ではないのです。
スパダロの論文は、単なる挑発――それ自体すでに前代未聞のこと――ではなく、サンタ・マルタ館のある「神学者」が言うような、偽りの教義、狡猾な戒律、欺瞞に満ちた説教、堕落させられ堕落させる役務者を擁する反教会の顕現、公現です。反キリストにひれ伏す反教会、人間に対する天主の主権を否定して挑戦するのを象徴するあらゆるものにひれ伏す反教会です。高慢。ルチフェルの高慢。限界もブレーキも知らない高慢。キリストの教会を日食で覆うこのセクトは、もはや隠れてはいません。自ら姿を現し、真の教会に決定的に取って代わることを主張します。偶像を示し、それを崇拝することを要求します。その代償として、救い主ご自身を否定し、救い主の神性を否定し、救い主の行動を裁き、救い主の言葉に異議を唱えるのです。

しかし、素朴な人々がすでに、この「ὕβρις」(ヒュブリスhybris、天主に対する侮辱)の代償が「νέμεσις」(ネメシスnemesis、天主の怒り)であることを理解しているとすれば、枢機卿、司教、司祭といったほとんどすべての司牧者たちは、後ろを向いて目をそらしています。彼らは、自分たちの臆病さ、順応主義、逆行したように見せたくないという願望によって、この地獄の革命の共同責任を負わされたことをよく知っています。彼らはその時点で、その革命を止めることもできました。しかし、60年にわたって、彼らも公会議のカルトに加わってきたのですから、立ち止まって道を逸れた地点に戻るよりも、教会と霊魂の破滅に向かう道を歩み続ける方を好むのです。こうして彼らは、自分が間違っていることを謙虚に認めることよりも、邪悪なものの凱旋、そしてそれに伴うイエズス・キリストへの冒涜的な中傷の方を好むのです。彼らは、自分たち自身が近代主義の誤謬や異端の虜になっていることを認めるよりも、「神学的な厳格さによって盲目となった」私たちの主が間違っていたと言われる方を好むのです。測りは満ちており、私たちがどちらの側につくかを選択する時が来ました。ベルゴリオとスパダロ、「シノダリティーに関するシノドス」、新世界秩序に隷属する人間的な偽物の教会か、あるいは天主と教会と聖徒たちか、を。また、よく考えてみると、カトリック信者が――私は司祭や高位聖職者のことを言っているのではありません――選択することが可能だと考えることができるという仮説を立てることが、すでに前代未聞のことなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年8月27日
聖霊降臨後第十三主日
Dominica XIII Post Pentecosten

英語版
イタリア語版



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。