悲劇の武将と言われる斎藤実盛ゆかりの地を訪ねました。
<斎藤実盛像>さいとうさねもり
実盛が開創した熊谷市の妻沼聖天山で撮影しました。
斎藤実盛が生きた時代は平安時代末期。藤原利仁の流れを汲む河合則盛の子として越前国で生まれ、13歳の時に武蔵国の長井庄(現在の熊谷市)の荘官である斉藤実直の養子となりました。
■ 源氏に仕える ■
斎藤実盛は相模国を本拠とする源義朝に仕えたのち、その弟である源義賢に仕えます。しかし武蔵国をめぐる争いから、義賢は甥(義朝の子・義平)に討たれてしまいます(大蔵合戦)。斎藤実盛は再び義朝に仕えることになりますが、旧恩を忘れず、義賢の遺児を預かり、殺害命令に背いて信濃国の中原兼遠の元へ逃がしました。実盛が命を救った義賢の子・駒王丸こそが、のちの木曾義仲です。
■ 平家に仕える ■
源平が京都を舞台に争った平治の乱(1159年)において源氏は大敗。源義朝は落ち延びる途上で命を落とし、義朝に仕えていた実盛は長井庄へ戻りました。長井庄は平家の領地となりましたが、実盛は別当として管理・統治を任され、開拓や治水などを押し進めました。もともとの本拠である長井庄の別当となって以降、実盛は源平が争う時には、常に平家方に尽くすことになります。
■ 斎藤実盛の最期 ■
既に晩年を迎えていた斎藤実盛は、平維盛(清盛からみて孫)が源氏の木曾義仲を討つべく北陸に兵を進めると、総大将に忠誠を尽くすべく平家軍に加わります。平家軍は十万とも言われ、数の上では圧倒的に勝っていたものの、木曾義仲の奇襲により大敗。平維盛は京へと敗走します。斎藤実盛は総大将を逃がすべく奮戦し、源氏の武将・手塚太郎光盛によって討ち取られました。寿永2年6月1日(1183年6月22日)。実盛はこの時すでに73歳でした。
<右手に筆・左手に鏡>
実盛は老齢を敵に悟られぬよう白髪を墨で染めて戦に臨みました。この像はその時の様子を表したものです。
大将格の出で立ちでありながら、従う者もなく、名乗れと言われても決して名を名乗らなかった平家の武将。報告を受けた木曾義仲が、討ち取った首を池で洗わせたところ、黒髪は白髪に変わり、斎藤実盛であることが分かりました。義仲は幼き日の命の恩人を討ち取ってしまったことを知り、人目もはばからず涙したと伝わります。
斎藤実盛、そして木曾義仲
ともに義理人情に厚い武将ですね
<妻沼聖天山歓喜院>
斎藤実盛が自らの守り本尊である大聖歓喜天を祀ったことに始まる妻沼聖天山
<歓喜院聖天堂>
江戸時代(1760年)に建立された聖天堂は国宝に指定されています。
■訪問:斎藤別当実盛像
(妻沼聖天山歓喜院)
[埼玉県熊谷市妻沼]1511
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/6/1
・妻沼聖天山歓喜院HP
>斎藤別当実盛公伝
http://www.ksky.ne.jp/~shouden/sanemori.html
2024年06月01日
2024年05月31日
国宝の聖天堂(熊谷市)妻沼聖天山
<妻沼聖天山>めぬましょうでんざん
聖天堂が国宝に指定されている熊谷市の妻沼聖天山を訪問しました。
■ 現地訪問 ■
<妻沼聖天前>
現地到着。私は熊谷駅からバスを利用。所要時間は約30分でした。
<正面>
ここですね。以前から存在は知っていましたが、なかなか訪れる機会にめぐまれず初訪問です。妻沼聖天山は、東京の待乳山聖天、奈良の生駒聖天と並ぶ日本三大聖天のひとつとされています。
<貴惣門>きそうもん
最初の山門です。国指定重要文化財です。
<境内>
貴惣門を通り抜けて撮影。境内はかなり広いですね。右手に銅像が見えました。
<斎藤実盛像>さいとうさねもり
この地を本拠とした武将・齋藤実盛です。妻沼聖天山は実盛が大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立したことに始まります。
<四脚門>
2つめの門です。
<仁王門>
こちらは3つめの門です。ここをくぐればいよいよ本殿です。
<歓喜院>かんぎいん
一般的には妻沼聖天山と呼ばれていますが、正式名は歓喜院。高野山真言宗の寺院です。
<歓喜院拝殿>
まずは拝殿。ここから奥へ向かってに中殿・奥殿と続きます
<歓喜院奥殿>
いよいよ奥殿。ここからの拝観は有料になります(700円:2024年5月現在)
<聖天堂>
彫刻で埋め尽くされた奥殿。圧巻です。現在の聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものです。
<壮厳の聖天堂>
まるで日光東照宮のようです。
<聖天堂の彫刻>
日光東照宮から約百年後の技術が注ぎ込まれた装飾建築です。
18世紀半ばの建築物ですが、国宝に指定されたのは平成になってからです。平成の大修理の過程で明らかになった高度な技術が高く評価され、国宝指定となったそうです(平成24年)。言い換えると、大修理がなければ、むかしの職人たちの高度な技術が世に広まることもなかったわけですね。
実物を肌で感じられて、満足な訪問となりました。
■訪問:妻沼聖天山(歓喜院)
[埼玉県熊谷市妻沼]1627
お城巡りランキング
■参考及び出典
・Wikipedia:2024/5/31
・熊谷市HP
熊谷のみどころ>妻沼聖天山
https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/midokoro/menumasyoudenzan/index.html
聖天堂が国宝に指定されている熊谷市の妻沼聖天山を訪問しました。
■ 現地訪問 ■
<妻沼聖天前>
現地到着。私は熊谷駅からバスを利用。所要時間は約30分でした。
<正面>
ここですね。以前から存在は知っていましたが、なかなか訪れる機会にめぐまれず初訪問です。妻沼聖天山は、東京の待乳山聖天、奈良の生駒聖天と並ぶ日本三大聖天のひとつとされています。
<貴惣門>きそうもん
最初の山門です。国指定重要文化財です。
<境内>
貴惣門を通り抜けて撮影。境内はかなり広いですね。右手に銅像が見えました。
<斎藤実盛像>さいとうさねもり
この地を本拠とした武将・齋藤実盛です。妻沼聖天山は実盛が大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立したことに始まります。
<四脚門>
2つめの門です。
<仁王門>
こちらは3つめの門です。ここをくぐればいよいよ本殿です。
<歓喜院>かんぎいん
一般的には妻沼聖天山と呼ばれていますが、正式名は歓喜院。高野山真言宗の寺院です。
<歓喜院拝殿>
まずは拝殿。ここから奥へ向かってに中殿・奥殿と続きます
<歓喜院奥殿>
いよいよ奥殿。ここからの拝観は有料になります(700円:2024年5月現在)
<聖天堂>
彫刻で埋め尽くされた奥殿。圧巻です。現在の聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものです。
<壮厳の聖天堂>
まるで日光東照宮のようです。
<聖天堂の彫刻>
日光東照宮から約百年後の技術が注ぎ込まれた装飾建築です。
18世紀半ばの建築物ですが、国宝に指定されたのは平成になってからです。平成の大修理の過程で明らかになった高度な技術が高く評価され、国宝指定となったそうです(平成24年)。言い換えると、大修理がなければ、むかしの職人たちの高度な技術が世に広まることもなかったわけですね。
実物を肌で感じられて、満足な訪問となりました。
■訪問:妻沼聖天山(歓喜院)
[埼玉県熊谷市妻沼]1627
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/5/31
・熊谷市HP
熊谷のみどころ>妻沼聖天山
https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/midokoro/menumasyoudenzan/index.html
2024年05月27日
代山城のなごり(さいたま市)
<代山城>だいやまじょう
さいたま市の代山城跡です。詳細は不明ながら、室町時代に城が築かれたと推定されています。城の主は岩槻太田氏の家臣・小久保縫殿助(るいどののすけ)。豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城が大軍によって攻め落とされると、小久保氏も滅んだと考えられています。
<代山城遠望>
あの小高い雑木林が城跡とされています。到着早々、民家の右手に盛土のようなものが見えましたが、明らかに私有地。遠くから眺めるだけにしました。
<低地に面した丘>
私の到着地点は低地に面した丘。ここから見える低い土地は、かつては湿地、あるいは深田だったのでしょう。城跡とされる雑木林には入れそうにないので、ここから丘を下りながら散策することにしました。
<地形>
明らかに土が盛り上がっていますが、遺構というより、シンプルに山の尾根と考える方が妥当ですかね?
<藪の中>
あれは土塁ではないか?と思って足を止めましたが、ここも私有地の可能性があることから深入りは断念。道から撮影しました。仮に土塁だとしても、城全体のどの部分なのか、ちょっと想像が及びません。
とりあえず
それっぽいものを探して求めて歩き続けました。
<土の凹凸>
延々と続く藪の一部が、道路に向かって開かれていたので、望遠で撮影しました。土の盛り上がりの向こう側は明らかに低くなっています。今度こそ土塁?根拠は無く、城跡らしい規則性を実感することもありません。ただ、せっかく来たので、私は勝手に土塁と受け止めることにしました。
城跡から少し離れて…
<裏鬼門>
こちらは城の裏鬼門に勧請されたと伝わる厳島神社です。鳥居と拝殿の間には水路が通っていました。
<古道>
城の東側のゆるやかな坂で撮影しました。古くからの道と思われます。左手が代山城跡。右側には庚申塔が見えます。
<庚申塔>
右は青面金剛立像ですね。足元には三猿。かなり古いもののようです。左は文字だけの庚申塔。上部は梵字ですね。
現地と周辺の探索は以上です。
<代山>
代山城跡とされる場所は、2本の川に挟まれた台地の先端に位置し、三方が斜面という立地です。遺構と言い切れるものには出会えませんでしたが、そういった地形を肌で感じることはできました。
暑くも寒くもない5月の曇りの日。快適だったせいもあり、満足な訪問となりました。
■訪問:代山城
[埼玉県さいたま市緑区代山]
<埼玉スタジアム>
現地は埼玉スタジアムの西側です。直線距離なら5百mくらいです。
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/5/27
さいたま市の代山城跡です。詳細は不明ながら、室町時代に城が築かれたと推定されています。城の主は岩槻太田氏の家臣・小久保縫殿助(るいどののすけ)。豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城が大軍によって攻め落とされると、小久保氏も滅んだと考えられています。
<代山城遠望>
あの小高い雑木林が城跡とされています。到着早々、民家の右手に盛土のようなものが見えましたが、明らかに私有地。遠くから眺めるだけにしました。
<低地に面した丘>
私の到着地点は低地に面した丘。ここから見える低い土地は、かつては湿地、あるいは深田だったのでしょう。城跡とされる雑木林には入れそうにないので、ここから丘を下りながら散策することにしました。
<地形>
明らかに土が盛り上がっていますが、遺構というより、シンプルに山の尾根と考える方が妥当ですかね?
<藪の中>
あれは土塁ではないか?と思って足を止めましたが、ここも私有地の可能性があることから深入りは断念。道から撮影しました。仮に土塁だとしても、城全体のどの部分なのか、ちょっと想像が及びません。
とりあえず
それっぽいものを探して求めて歩き続けました。
<土の凹凸>
延々と続く藪の一部が、道路に向かって開かれていたので、望遠で撮影しました。土の盛り上がりの向こう側は明らかに低くなっています。今度こそ土塁?根拠は無く、城跡らしい規則性を実感することもありません。ただ、せっかく来たので、私は勝手に土塁と受け止めることにしました。
城跡から少し離れて…
<裏鬼門>
こちらは城の裏鬼門に勧請されたと伝わる厳島神社です。鳥居と拝殿の間には水路が通っていました。
<古道>
城の東側のゆるやかな坂で撮影しました。古くからの道と思われます。左手が代山城跡。右側には庚申塔が見えます。
<庚申塔>
右は青面金剛立像ですね。足元には三猿。かなり古いもののようです。左は文字だけの庚申塔。上部は梵字ですね。
現地と周辺の探索は以上です。
<代山>
代山城跡とされる場所は、2本の川に挟まれた台地の先端に位置し、三方が斜面という立地です。遺構と言い切れるものには出会えませんでしたが、そういった地形を肌で感じることはできました。
暑くも寒くもない5月の曇りの日。快適だったせいもあり、満足な訪問となりました。
■訪問:代山城
[埼玉県さいたま市緑区代山]
<埼玉スタジアム>
現地は埼玉スタジアムの西側です。直線距離なら5百mくらいです。
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■参考
・Wikipedia:2024/5/27
タグ:埼玉
2024年05月19日
新幸橋のなごり(中央区銀座)
<新幸橋跡>しんさいわいばし
ここはいわゆる銀座コリドー街の通りと、JR高架下の道の交差点です。「新幸橋跡」と記された立派な石碑があります。橋が架かっていたなごりですね。
コリドー街そのものが、かつての外堀川。関東大震災の教訓から、人の行き来をスムーズにする目的で橋が架けられました。その川が埋め立てられることになり、橋は不要となりました。
橋の石碑は川のなごりでもありますね
ところで…
明治時代の古い地図を見ると、江戸城の外濠跡に同じ名前の橋が記されています。
<参考>
こちらは山下門跡に設置されている千代田区さんの説明板です。明治30年代とされる地図を拡大すると…
<拡大>
ありました(画像左側の橋)。「新幸バシ」の文字が確認できます
ただ、これは別ものです。今回ご紹介の新幸橋は、大正時代の震災を教訓に架けられた橋であって、完成は昭和になってからです。
<昭和の新幸橋跡>
新と旧がある新幸橋のうち、ここは新「新幸橋」のなごりということになります。
以上です。
拙いブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:新幸橋の石碑
[東京都中央区銀座]8丁目
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■参考及び出典
・山下門跡説明板
(千代田区)
ここはいわゆる銀座コリドー街の通りと、JR高架下の道の交差点です。「新幸橋跡」と記された立派な石碑があります。橋が架かっていたなごりですね。
コリドー街そのものが、かつての外堀川。関東大震災の教訓から、人の行き来をスムーズにする目的で橋が架けられました。その川が埋め立てられることになり、橋は不要となりました。
橋の石碑は川のなごりでもありますね
ところで…
明治時代の古い地図を見ると、江戸城の外濠跡に同じ名前の橋が記されています。
<参考>
こちらは山下門跡に設置されている千代田区さんの説明板です。明治30年代とされる地図を拡大すると…
<拡大>
ありました(画像左側の橋)。「新幸バシ」の文字が確認できます
ただ、これは別ものです。今回ご紹介の新幸橋は、大正時代の震災を教訓に架けられた橋であって、完成は昭和になってからです。
<昭和の新幸橋跡>
新と旧がある新幸橋のうち、ここは新「新幸橋」のなごりということになります。
以上です。
拙いブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:新幸橋の石碑
[東京都中央区銀座]8丁目
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■参考及び出典
・山下門跡説明板
(千代田区)
タグ:暗渠
地名に残る城門のなごり(内幸町)幸橋御門跡
<内幸町>うちさいわいちょう
こちらは都営三田線の内幸町駅。内幸町は港区の地名です。かつては大名屋敷が建ち並んでいたこの付近、江戸城幸橋御門の内側に位置していることが名の由来といわれています。
幸橋御門は、肥後国熊本藩主の細川忠利に築かれました(1636年)。将軍が増上寺に詣でる道筋にあたったため御成橋門ともいわれたそうです。
<幸橋御門跡>さいわいばしごもん
幸橋御門は1873年(明治6年)に取り壊され、遺構はありません。この付近(第一ホテル付近)と考えられています。手前側が城内。画像の左手へ進むと、幸橋の内側であることが地名となっている「内幸町」の1丁目になります。
遺構はない。
これが結論ですが、地名の他にもうひとつ、幸橋御門のなごりが漂う場所があります。
<幸橋ガード>
幸橋御門とセットだった幸橋の名が、東海道線の架道橋に残されています。こちらも名前だけですが、消えてなお残る城のなごりと言えなくもないですね。
■訪問:幸橋御門跡
(第一ホテル付近)
[東京都港区新橋]1丁目
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■参考
千代田区HP
> 町名由来板:内幸町
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/uchisaiwai.html
こちらは都営三田線の内幸町駅。内幸町は港区の地名です。かつては大名屋敷が建ち並んでいたこの付近、江戸城幸橋御門の内側に位置していることが名の由来といわれています。
幸橋御門は、肥後国熊本藩主の細川忠利に築かれました(1636年)。将軍が増上寺に詣でる道筋にあたったため御成橋門ともいわれたそうです。
<幸橋御門跡>さいわいばしごもん
幸橋御門は1873年(明治6年)に取り壊され、遺構はありません。この付近(第一ホテル付近)と考えられています。手前側が城内。画像の左手へ進むと、幸橋の内側であることが地名となっている「内幸町」の1丁目になります。
遺構はない。
これが結論ですが、地名の他にもうひとつ、幸橋御門のなごりが漂う場所があります。
<幸橋ガード>
幸橋御門とセットだった幸橋の名が、東海道線の架道橋に残されています。こちらも名前だけですが、消えてなお残る城のなごりと言えなくもないですね。
■訪問:幸橋御門跡
(第一ホテル付近)
[東京都港区新橋]1丁目
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■参考
千代田区HP
> 町名由来板:内幸町
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/uchisaiwai.html
2024年05月18日
山下門跡(江戸城)外日比谷御門と呼ばれた城門のなごり
江戸城の山下門跡を訪ねました。
<山下門跡>
この付近になります。山下門は江戸城の外濠に設けられた城門で、いわゆる江戸城三十六見附に数えられています。ただ現状はご覧の通りで、枡形の石垣など、ありし日を思わせるような遺構は存在しません。
ただし
ガード下に説明板が設置されています。
<山下門跡説明板>
こちらです。少し転記させて頂きます(『』内は原文)。
『山下門は、1636年(寛永13年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。門に附属する山下橋は、現在の有楽町二丁目・内幸町一丁目と中央区の銀座五、六丁目を結んでいました。名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。また、門内に佐賀藩(現在の佐賀県)鍋島家の屋敷があったことから鍋島御門の別名があったほか、外日比谷御門とも称されていました。』
山下町という地名がもともとあったわけですね。別名の由来となった佐賀藩鍋島家といえば、明治維新を推進させ、やがては侯爵となった家柄。山下門の近くの屋敷も、さぞ立派だったのでしょう(勝手な想像です)。
<説明板拡大>
こちらは山下町付近の様子ですが、明治30年代のもの。まだ江戸城の濠は残っていますね。画像の右上、内堀付近には「日比谷門」の文字。この位置関係から、山下門は外日比谷御門とも言われたわけですね。
<更に拡大>
右側・帝国ホテル前に「山下門」と記されています。門とセットの橋が山下橋、渡った先が山下町。納得です。
説明文の続きを読む限りでは、1873年(明治6年)に山下門が撤去された時点では、まだ橋と枡形の石垣は残されていたようです。ただ1900年(明治33年)に外濠が埋め立てられることになり、橋も撤去されたとのこと。枡形の石垣が撤去されたのもその時ですかね?
結局のところ
訪問したけど山下門の痕跡は何も残っていないのか?
はい
ただ、そのなごりを少しだけ感じることはできます。少しだけ…
<山下橋架道橋>かどうきょう
電車が道路を跨ぐための架道橋。ここは山下橋架道橋と命名されているようです。山下門に附属する山下橋が確かにあったなごりです。
説明板を除けば、これが唯一のなごり
もう橋はありませんが、改名しないで、このままにして欲しいですね。
■訪問:山下門跡
(山下橋架道橋)
[千代田区内幸町]1丁目
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板(千代田区)
・千代田区の文化財HP
文化財サイン(標柱・説明板)旧江戸城関係 や行 山下門跡
https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/1/6/266.html
<山下門跡>
この付近になります。山下門は江戸城の外濠に設けられた城門で、いわゆる江戸城三十六見附に数えられています。ただ現状はご覧の通りで、枡形の石垣など、ありし日を思わせるような遺構は存在しません。
ただし
ガード下に説明板が設置されています。
<山下門跡説明板>
こちらです。少し転記させて頂きます(『』内は原文)。
『山下門は、1636年(寛永13年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。門に附属する山下橋は、現在の有楽町二丁目・内幸町一丁目と中央区の銀座五、六丁目を結んでいました。名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。また、門内に佐賀藩(現在の佐賀県)鍋島家の屋敷があったことから鍋島御門の別名があったほか、外日比谷御門とも称されていました。』
山下町という地名がもともとあったわけですね。別名の由来となった佐賀藩鍋島家といえば、明治維新を推進させ、やがては侯爵となった家柄。山下門の近くの屋敷も、さぞ立派だったのでしょう(勝手な想像です)。
<説明板拡大>
こちらは山下町付近の様子ですが、明治30年代のもの。まだ江戸城の濠は残っていますね。画像の右上、内堀付近には「日比谷門」の文字。この位置関係から、山下門は外日比谷御門とも言われたわけですね。
<更に拡大>
右側・帝国ホテル前に「山下門」と記されています。門とセットの橋が山下橋、渡った先が山下町。納得です。
説明文の続きを読む限りでは、1873年(明治6年)に山下門が撤去された時点では、まだ橋と枡形の石垣は残されていたようです。ただ1900年(明治33年)に外濠が埋め立てられることになり、橋も撤去されたとのこと。枡形の石垣が撤去されたのもその時ですかね?
結局のところ
訪問したけど山下門の痕跡は何も残っていないのか?
はい
ただ、そのなごりを少しだけ感じることはできます。少しだけ…
<山下橋架道橋>かどうきょう
電車が道路を跨ぐための架道橋。ここは山下橋架道橋と命名されているようです。山下門に附属する山下橋が確かにあったなごりです。
説明板を除けば、これが唯一のなごり
もう橋はありませんが、改名しないで、このままにして欲しいですね。
■訪問:山下門跡
(山下橋架道橋)
[千代田区内幸町]1丁目
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■参考
・現地説明板(千代田区)
・千代田区の文化財HP
文化財サイン(標柱・説明板)旧江戸城関係 や行 山下門跡
https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/1/6/266.html
2024年05月06日
鉢形城主・北条氏邦と家臣団が奉納した木造十二神将立像
北条氏邦と家臣たちが秩父の寺院に奉納した木造十二神将立像を見てきました。
<十二神将立像>じゅうにしんしょう
薬師如来を信仰する者を守護するとされる十二神将。埼玉県立歴史と民俗の博物館で撮影しました。普段は小鹿野町の法養寺薬師堂に安置されています。特別展「鉢形城主 北条氏邦」開催にあわせて、期間限定で貸し出されているそうです。館内には、氏邦直筆の書状ほか、貴重な品々が多数展示されていました。ただ原則は撮影不可。この十二神将立像と、日光菩薩・月光菩薩立像の二体が撮影可でした。
<日光菩薩立像・月光菩薩立像>にっこう・がっこう
こちらは薬師如来を補佐する菩薩ですね。十二神将とは異なり穏やかな姿です。普通は薬師如来の左右に立っているため、特別展とはいえ不思議な感じがしました。十二神将と同じく、埼玉県指定文化財です。元々は蓮華座に乗っていましたが、後世の修理で十二神将立像と同じ岩座に変更されたと考えられています。
<十二神将立像の岩座>いわざ
台座は統一されていますね
<令和の修理>
北条氏邦と家臣らが奉納したことが、それぞれの仏像の足に記されているそうです。見た感じに個体差がありることから、制作された時期のばらつきが推測されています。いずれにせよ戦国時代ですから、4百年以上前の仏像。令和になってから本格的な保存修理がなされ、この姿となりました。十二神将はそれぞれ子・丑といった十二支を表しています。
<申神像>しんしんぞう
この申神像には、氏邦の生まれ年につながる墨書が確認されたそうです。これにより、氏邦は申年生まれという説が有力になっています。
北条氏邦は小田原北条氏の三代当主・氏康の子であり、四代当主となった氏政の弟。北武蔵支配のため、重要拠点である鉢形城の城主を任されていました。武勇の誉れ高い氏邦ですが、統治能力も文化レベルも高い武将だったようです。
今回の特別展で、その一部に触れることができました。
<特別展>
とても素晴らしい企画でした。学芸員さんの丁寧な説明にも感謝いたします。
<埼玉県立歴史と民俗の博物館>
■特別展
「鉢形城主 北条氏邦」
2024年3月16日〜5月6日(終了)
■訪問:
埼玉県立歴史と民俗の博物館
[埼玉県さいたま市大宮区高鼻町]
お城巡りランキング
■参考
埼玉県立歴史と民俗の博物館
(特別展説明文)
---------■ 参考画像 ■---------
<鉢形城跡>はちがたじょう
[埼玉県大里郡寄居町大字鉢形]
小田原北条氏にとって、北武蔵支配のための重要拠点でした。
<十二神将立像>じゅうにしんしょう
薬師如来を信仰する者を守護するとされる十二神将。埼玉県立歴史と民俗の博物館で撮影しました。普段は小鹿野町の法養寺薬師堂に安置されています。特別展「鉢形城主 北条氏邦」開催にあわせて、期間限定で貸し出されているそうです。館内には、氏邦直筆の書状ほか、貴重な品々が多数展示されていました。ただ原則は撮影不可。この十二神将立像と、日光菩薩・月光菩薩立像の二体が撮影可でした。
<日光菩薩立像・月光菩薩立像>にっこう・がっこう
こちらは薬師如来を補佐する菩薩ですね。十二神将とは異なり穏やかな姿です。普通は薬師如来の左右に立っているため、特別展とはいえ不思議な感じがしました。十二神将と同じく、埼玉県指定文化財です。元々は蓮華座に乗っていましたが、後世の修理で十二神将立像と同じ岩座に変更されたと考えられています。
<十二神将立像の岩座>いわざ
台座は統一されていますね
<令和の修理>
北条氏邦と家臣らが奉納したことが、それぞれの仏像の足に記されているそうです。見た感じに個体差がありることから、制作された時期のばらつきが推測されています。いずれにせよ戦国時代ですから、4百年以上前の仏像。令和になってから本格的な保存修理がなされ、この姿となりました。十二神将はそれぞれ子・丑といった十二支を表しています。
<申神像>しんしんぞう
この申神像には、氏邦の生まれ年につながる墨書が確認されたそうです。これにより、氏邦は申年生まれという説が有力になっています。
北条氏邦は小田原北条氏の三代当主・氏康の子であり、四代当主となった氏政の弟。北武蔵支配のため、重要拠点である鉢形城の城主を任されていました。武勇の誉れ高い氏邦ですが、統治能力も文化レベルも高い武将だったようです。
今回の特別展で、その一部に触れることができました。
<特別展>
とても素晴らしい企画でした。学芸員さんの丁寧な説明にも感謝いたします。
<埼玉県立歴史と民俗の博物館>
■特別展
「鉢形城主 北条氏邦」
2024年3月16日〜5月6日(終了)
■訪問:
埼玉県立歴史と民俗の博物館
[埼玉県さいたま市大宮区高鼻町]
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■参考
埼玉県立歴史と民俗の博物館
(特別展説明文)
---------■ 参考画像 ■---------
<鉢形城跡>はちがたじょう
[埼玉県大里郡寄居町大字鉢形]
小田原北条氏にとって、北武蔵支配のための重要拠点でした。
2024年04月27日
高遠城のなごり
信州の高遠城跡を訪問しました。
<高遠城跡>たかとおじょう
築城年や築城者についての詳細は分かっていませんが、諏訪氏の分家である高遠氏が拠点とした城でした。その高遠氏が甲斐の武田信玄によって滅ぼされると、城には大改修が施され、武田氏の南信濃支配の拠点として機能し続けました。
<案内板>
高遠城は二本の川の合流地点の崖上に位置するため、三方が川という要害です。曲輪の配置はシンプルですが、攻めるのに難儀な山城(平山城)だったことでしょう。
<三峰川> みぶがわ
こちらは高遠城の南側を流れる三峰川です。右手が高遠城。崖になっており、地形の険けわしさを利用した城だったことが伝わってきます。川から本丸までの高低差は約80mです。
武田氏が改修した時には、あの山本勘助が縄張りしたとも言われています。現在、城址公園西側の駐車場となっている区画は勘助曲輪と呼ばれていますが、そのなごりでしょうかね(不明)?
信玄亡きあと、織田信長による甲州征伐により、約35年続いた武田氏の支配は終焉をむかえます。武田家臣団の士気は徐々に低下し、離反や逃亡が相次ぎました。そんななか、高遠城では勝頼の弟で城主の仁科五郎盛信が3千の兵で抵抗を試みました。しかし相手は信長嫡男・信忠が率いる5万の大軍です。数的不利は如何ともし難く、高遠城は一日で陥落。仁科盛信は自害しました(1582年)。その後、当主の勝頼も天目山で自害し、戦国大名としての武田氏は滅びました。
<高遠城の戦い説明板>
戦いは壮絶で、双方に多数の犠牲者がでました。
本能寺の変は、武田勝頼が亡くなってから僅か3ケ月後のことです。織田信長がいなくなった混乱期に、高遠城を手にしたのは、武田の旧臣である保科正直でした。保科正直は徳川家康の支配下となります。
その徳川家康が関東移封となると、高遠は天下人となった豊臣秀吉の支配下となり、家臣の所領となりました。しかし関ヶ原の戦いの戦後処理で、日ノ本の勢力分布図は大幅に変わることとなり、高遠には保科正直の長男・正光が2万5千石で入部し、高遠藩が成立。高遠城は藩庁として統治のための城となりました。
藩主となった保科正光に子はなく、徳川秀忠の隠し子を跡取りとして養子に迎えます。その少年こそが、高遠藩主・山形藩主を経たのちに、会津藩の初代藩主となる保科正之です。幕府の中枢となって将軍をサポートした保科正之は、多感な少年時代を高遠で過ごしました。
<保科正之像>ほしなまさゆき
正之は会津松平家の祖となりますが、本人は養父の名・保科を生涯貫きました。
保科氏のあとは鳥居氏(1636年から2代)、内藤氏(1691年から8代)が藩主となりました。高遠城が廃城となるのは明治になってからです。最後の藩主は内藤頼直でした。
<高遠城址公園>
左手に見えているのは三の丸と二の丸を隔てる堀跡です。城跡は高遠城址公園として整備され、多くの人が訪れる観光地となっています。特に高遠の桜は全国的に有名です。
<高遠桜>
やや色の濃い高遠桜は、タカトオコヒガンザクラという固有種です。私の訪問時はまだ蕾が多い状態でしたが、園内の約1500本の桜が満開となれば圧巻だと思います。高遠城の桜は、城跡の荒廃を憂いた旧藩士たちが、城下の馬場から桜を移植したことに始まります。
<伝 高遠城大手門>
こちらは大手門と伝わる遺構です。場所は高遠城の北西、駐車場になっている勘助曲輪の北側です。門前に設置されている現地説明板によれば、大手門は明治になって取り払われており、現役の時とは姿形が異なるようです。また、ここは大手口はここではありません。民間からの寄贈により移設され、高校の正門として使用されていたようです。
<武家屋敷跡>
先ほどの門より先は三の丸跡です。この付近は武家屋敷が建ち並んでいた区画になります。この更に奥(北側)がかつての大手口。高遠城の三の丸は、本丸・二の丸など城の中心部の北側と東側を囲むように設けられていました。
<進徳館跡>しんとくかん
三の丸跡の藩校跡です。空き家となっていた元家老の屋敷を利用して、江戸末期に開校しました。
<高遠閣>たかとおかく
こちらは二の丸跡の高遠閣。昭和になってから建てられたもので城と直接は関係ありませんが、登録有形文化財に登録されている貴重な建物です。
<堀跡>
二の丸側から見た本丸北側の堀跡。廃城は明治ですので、遺構は近世城郭として整備された江戸時代のものということになります。ただ城の縄張りは戦国時代、つまりは武田流を引き継いでいると思われます。
<問屋門>とんやもん
城内に問屋門?この門はもともと城下の問屋役所にあったものです。問屋役所建物取り壊しの際、歴史ある門が失われることを惜しんだ町の有志の尽力により、城跡に移築されたものとのこと。城門だったわけではありませんが、今では城址公園には欠かせない存在となっています。
<問屋門と桜雲橋>おううんきょう
問屋門の内側から撮影。手前側は本丸、門の向こう側は二の丸と本丸をつなぐ桜雲橋です。桜雲橋は高遠城址公園のなかでも特に人気のスポットです。橋から満開の桜を見上げると、花弁が雲の如く見えることが名の由来です。
<満開時の桜雲橋>
こちらは公園内に設置されている大きなパネルです。記念撮影用ですね。私は眺めることが叶いませんでしたが、満開の日に晴れていれば、きっとこんな感じなのでしょう。
<本丸虎口付近>
本丸の虎口付近。いい感じの石積みは、城門のなごりであろうと現地では思いましたが、どうも廃城後に設けられたもののようです。塁上には古戦場跡の説明板。
<太鼓櫓>たいこやぐら
こちらは本丸跡の太鼓櫓です。番人がおかれ、太鼓で時を知らせる役割を担っていました。本来はこの場所ではないようです。
<新城神社・藤原神社>
こちらも本丸跡。新城神社と藤原神社がひとつの社に祀られています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信、藤原神社の祭神は内藤家の祖先にあたる藤原鎌足、そして内藤家代々の当主です。
<本丸土塁跡>
本丸を縁取る土塁のなごり
<堀跡>
本丸と南曲輪を隔てる堀跡
<南曲輪>みなみくるわ
本丸の南に位置する曲輪。柵の向こうは三峰川に面した崖です。
<南曲輪説明板>
南曲輪は保科家の養子となった保科正之が、幼少のころ実母と居住したところと言われています。
<白兎橋から見た堀>はくときょう
南曲輪と法幢院曲輪の間の堀跡
<法幢院曲輪>ほうどういんくるわ
南曲輪より更に南側の法幢院曲輪。高遠城の南端に位置します。
<空堀>
左手が法幢院曲輪です。適度な高低差と空堀。城跡好きが喜びそうな景色です。
高遠城は険しい地形を巧みに利用した山城ですが、現地は城址公園として整備され、比較的散策しやすい城跡となっています。多くの遺構が失われても、曲輪の周囲にめぐらされた深い堀が、むかしを偲ばせる形で残されています。戦国時代に激闘のあった古戦場であり、江戸時代も統治の中心地と存続した城です。国の史跡に指定され、日本100名城の一つにも選ばれています。
<つわものどもが夢の跡>
---------■ 高遠城 ■---------
別 名:兜山城
築城者:不明
築城年:不明
城 主:高遠氏・武田氏・仁科氏
保科氏・鳥居氏 他
改修者:武田氏
廃城年:1872年(明治5)
現 況:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・高遠城址公園説明板
・Wikipedia:2024/4/27
・伊那市HP(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
<高遠城跡>たかとおじょう
築城年や築城者についての詳細は分かっていませんが、諏訪氏の分家である高遠氏が拠点とした城でした。その高遠氏が甲斐の武田信玄によって滅ぼされると、城には大改修が施され、武田氏の南信濃支配の拠点として機能し続けました。
<案内板>
高遠城は二本の川の合流地点の崖上に位置するため、三方が川という要害です。曲輪の配置はシンプルですが、攻めるのに難儀な山城(平山城)だったことでしょう。
<三峰川> みぶがわ
こちらは高遠城の南側を流れる三峰川です。右手が高遠城。崖になっており、地形の険けわしさを利用した城だったことが伝わってきます。川から本丸までの高低差は約80mです。
武田氏が改修した時には、あの山本勘助が縄張りしたとも言われています。現在、城址公園西側の駐車場となっている区画は勘助曲輪と呼ばれていますが、そのなごりでしょうかね(不明)?
信玄亡きあと、織田信長による甲州征伐により、約35年続いた武田氏の支配は終焉をむかえます。武田家臣団の士気は徐々に低下し、離反や逃亡が相次ぎました。そんななか、高遠城では勝頼の弟で城主の仁科五郎盛信が3千の兵で抵抗を試みました。しかし相手は信長嫡男・信忠が率いる5万の大軍です。数的不利は如何ともし難く、高遠城は一日で陥落。仁科盛信は自害しました(1582年)。その後、当主の勝頼も天目山で自害し、戦国大名としての武田氏は滅びました。
<高遠城の戦い説明板>
戦いは壮絶で、双方に多数の犠牲者がでました。
本能寺の変は、武田勝頼が亡くなってから僅か3ケ月後のことです。織田信長がいなくなった混乱期に、高遠城を手にしたのは、武田の旧臣である保科正直でした。保科正直は徳川家康の支配下となります。
その徳川家康が関東移封となると、高遠は天下人となった豊臣秀吉の支配下となり、家臣の所領となりました。しかし関ヶ原の戦いの戦後処理で、日ノ本の勢力分布図は大幅に変わることとなり、高遠には保科正直の長男・正光が2万5千石で入部し、高遠藩が成立。高遠城は藩庁として統治のための城となりました。
藩主となった保科正光に子はなく、徳川秀忠の隠し子を跡取りとして養子に迎えます。その少年こそが、高遠藩主・山形藩主を経たのちに、会津藩の初代藩主となる保科正之です。幕府の中枢となって将軍をサポートした保科正之は、多感な少年時代を高遠で過ごしました。
<保科正之像>ほしなまさゆき
正之は会津松平家の祖となりますが、本人は養父の名・保科を生涯貫きました。
保科氏のあとは鳥居氏(1636年から2代)、内藤氏(1691年から8代)が藩主となりました。高遠城が廃城となるのは明治になってからです。最後の藩主は内藤頼直でした。
<高遠城址公園>
左手に見えているのは三の丸と二の丸を隔てる堀跡です。城跡は高遠城址公園として整備され、多くの人が訪れる観光地となっています。特に高遠の桜は全国的に有名です。
<高遠桜>
やや色の濃い高遠桜は、タカトオコヒガンザクラという固有種です。私の訪問時はまだ蕾が多い状態でしたが、園内の約1500本の桜が満開となれば圧巻だと思います。高遠城の桜は、城跡の荒廃を憂いた旧藩士たちが、城下の馬場から桜を移植したことに始まります。
<伝 高遠城大手門>
こちらは大手門と伝わる遺構です。場所は高遠城の北西、駐車場になっている勘助曲輪の北側です。門前に設置されている現地説明板によれば、大手門は明治になって取り払われており、現役の時とは姿形が異なるようです。また、ここは大手口はここではありません。民間からの寄贈により移設され、高校の正門として使用されていたようです。
<武家屋敷跡>
先ほどの門より先は三の丸跡です。この付近は武家屋敷が建ち並んでいた区画になります。この更に奥(北側)がかつての大手口。高遠城の三の丸は、本丸・二の丸など城の中心部の北側と東側を囲むように設けられていました。
<進徳館跡>しんとくかん
三の丸跡の藩校跡です。空き家となっていた元家老の屋敷を利用して、江戸末期に開校しました。
<高遠閣>たかとおかく
こちらは二の丸跡の高遠閣。昭和になってから建てられたもので城と直接は関係ありませんが、登録有形文化財に登録されている貴重な建物です。
<堀跡>
二の丸側から見た本丸北側の堀跡。廃城は明治ですので、遺構は近世城郭として整備された江戸時代のものということになります。ただ城の縄張りは戦国時代、つまりは武田流を引き継いでいると思われます。
<問屋門>とんやもん
城内に問屋門?この門はもともと城下の問屋役所にあったものです。問屋役所建物取り壊しの際、歴史ある門が失われることを惜しんだ町の有志の尽力により、城跡に移築されたものとのこと。城門だったわけではありませんが、今では城址公園には欠かせない存在となっています。
<問屋門と桜雲橋>おううんきょう
問屋門の内側から撮影。手前側は本丸、門の向こう側は二の丸と本丸をつなぐ桜雲橋です。桜雲橋は高遠城址公園のなかでも特に人気のスポットです。橋から満開の桜を見上げると、花弁が雲の如く見えることが名の由来です。
<満開時の桜雲橋>
こちらは公園内に設置されている大きなパネルです。記念撮影用ですね。私は眺めることが叶いませんでしたが、満開の日に晴れていれば、きっとこんな感じなのでしょう。
<本丸虎口付近>
本丸の虎口付近。いい感じの石積みは、城門のなごりであろうと現地では思いましたが、どうも廃城後に設けられたもののようです。塁上には古戦場跡の説明板。
<太鼓櫓>たいこやぐら
こちらは本丸跡の太鼓櫓です。番人がおかれ、太鼓で時を知らせる役割を担っていました。本来はこの場所ではないようです。
<新城神社・藤原神社>
こちらも本丸跡。新城神社と藤原神社がひとつの社に祀られています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信、藤原神社の祭神は内藤家の祖先にあたる藤原鎌足、そして内藤家代々の当主です。
<本丸土塁跡>
本丸を縁取る土塁のなごり
<堀跡>
本丸と南曲輪を隔てる堀跡
<南曲輪>みなみくるわ
本丸の南に位置する曲輪。柵の向こうは三峰川に面した崖です。
<南曲輪説明板>
南曲輪は保科家の養子となった保科正之が、幼少のころ実母と居住したところと言われています。
<白兎橋から見た堀>はくときょう
南曲輪と法幢院曲輪の間の堀跡
<法幢院曲輪>ほうどういんくるわ
南曲輪より更に南側の法幢院曲輪。高遠城の南端に位置します。
<空堀>
左手が法幢院曲輪です。適度な高低差と空堀。城跡好きが喜びそうな景色です。
高遠城は険しい地形を巧みに利用した山城ですが、現地は城址公園として整備され、比較的散策しやすい城跡となっています。多くの遺構が失われても、曲輪の周囲にめぐらされた深い堀が、むかしを偲ばせる形で残されています。戦国時代に激闘のあった古戦場であり、江戸時代も統治の中心地と存続した城です。国の史跡に指定され、日本100名城の一つにも選ばれています。
<つわものどもが夢の跡>
---------■ 高遠城 ■---------
別 名:兜山城
築城者:不明
築城年:不明
城 主:高遠氏・武田氏・仁科氏
保科氏・鳥居氏 他
改修者:武田氏
廃城年:1872年(明治5)
現 況:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・高遠城址公園説明板
・Wikipedia:2024/4/27
・伊那市HP(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
2024年04月20日
名君を育てた高遠(伊那市)保科正之ゆかりの地
<保科正之像>ほしなまさゆき
少年期を高遠で過ごした名君の銅像です
保科正之と聞けば、会津藩を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。正之は二代将軍・徳川秀忠のいわば「隠し子」として生まれ、保科氏の養子となり、多感な少年期を高遠で過ごしました。
<保科正之とお静>
左の女性は保科正之の生みの親であるお静です。地蔵が3体並んでいますが、これはお静(浄光院)が正之の幸せを願って江戸の寺に寄進した石仏と同じ形のものとのことです。
秀忠の正室はあの有名なお江ですね。その嫉妬を恐れ、お静は実家、そして武田信玄の娘である見性院・信松尼の支援を受け、無事に正之(幼名は幸松)を出産しました。
正之が7歳の時に、見性院の世話で保科家の養子となります。保科家は武田の旧臣。武田家滅亡後は徳川家に仕えて、高遠藩主となりました。実母が見守るなか、正之は高遠で育ちました。
<参考>
高遠城の南曲輪跡に設置されている説明板です。本丸の南に位置する曲輪です。やがて藩主となる保科正之が、幼少のころ母と居住したところと言われています。
江戸から遠ざかっていた正之ですが、のちに秀忠の実子、そして三代将軍・家光の実弟として認められます。正之は兄・家光に対して、あくまで家臣という立場を貫き、この謙虚さが家光に好かれ側近に取り立てられました。高遠藩主、山形藩主を経て、会津の初代藩主となりますが、その一方で、将軍家を支える役割も担っています。
幕府の中枢となった保科正之の活躍を列挙したらきりがありませんが、個人的に印象に残っているのは、1657年3月2日の明暦の大火への対応です。
時の将軍は第4代の家綱でした。しかし17歳とまだ若く、将軍の指南役である保科正之が、実質的に復興の指揮をとりました。明暦の大火は江戸城天守のみならず、城下町の大半を焼いたといわれる大災害です。これに対し正之は、天守再建より民の暮らしを優先させることを決断します。威厳を必要とする将軍家、そしてそれに服従の姿勢を示そうとする大名たち、その微妙な雰囲気の中で、正論を堂々と唱えられたのは、保科正之だけだったのではないでしょうか。江戸城に天守が無いことは、保科正之の民を思う気持ちの現れだと私個人は思っています。
最後に
保科正之は会津藩松平家の祖とされる人物ですが、正之本人は松平を名乗っていません。自身を育てた保科家の名を、変えることはありませんでした。松平への改名は、正之が亡くなったあとの話です。
■訪問:保科正之像
(お静の方・保科正之像)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・現地説明文(石碑)
・伊那谷ねっとニュース2009/4/5
(保科正之公像完成)
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=23690
少年期を高遠で過ごした名君の銅像です
保科正之と聞けば、会津藩を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。正之は二代将軍・徳川秀忠のいわば「隠し子」として生まれ、保科氏の養子となり、多感な少年期を高遠で過ごしました。
<保科正之とお静>
左の女性は保科正之の生みの親であるお静です。地蔵が3体並んでいますが、これはお静(浄光院)が正之の幸せを願って江戸の寺に寄進した石仏と同じ形のものとのことです。
秀忠の正室はあの有名なお江ですね。その嫉妬を恐れ、お静は実家、そして武田信玄の娘である見性院・信松尼の支援を受け、無事に正之(幼名は幸松)を出産しました。
正之が7歳の時に、見性院の世話で保科家の養子となります。保科家は武田の旧臣。武田家滅亡後は徳川家に仕えて、高遠藩主となりました。実母が見守るなか、正之は高遠で育ちました。
<参考>
高遠城の南曲輪跡に設置されている説明板です。本丸の南に位置する曲輪です。やがて藩主となる保科正之が、幼少のころ母と居住したところと言われています。
江戸から遠ざかっていた正之ですが、のちに秀忠の実子、そして三代将軍・家光の実弟として認められます。正之は兄・家光に対して、あくまで家臣という立場を貫き、この謙虚さが家光に好かれ側近に取り立てられました。高遠藩主、山形藩主を経て、会津の初代藩主となりますが、その一方で、将軍家を支える役割も担っています。
幕府の中枢となった保科正之の活躍を列挙したらきりがありませんが、個人的に印象に残っているのは、1657年3月2日の明暦の大火への対応です。
時の将軍は第4代の家綱でした。しかし17歳とまだ若く、将軍の指南役である保科正之が、実質的に復興の指揮をとりました。明暦の大火は江戸城天守のみならず、城下町の大半を焼いたといわれる大災害です。これに対し正之は、天守再建より民の暮らしを優先させることを決断します。威厳を必要とする将軍家、そしてそれに服従の姿勢を示そうとする大名たち、その微妙な雰囲気の中で、正論を堂々と唱えられたのは、保科正之だけだったのではないでしょうか。江戸城に天守が無いことは、保科正之の民を思う気持ちの現れだと私個人は思っています。
最後に
保科正之は会津藩松平家の祖とされる人物ですが、正之本人は松平を名乗っていません。自身を育てた保科家の名を、変えることはありませんでした。松平への改名は、正之が亡くなったあとの話です。
■訪問:保科正之像
(お静の方・保科正之像)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考
・現地説明文(石碑)
・伊那谷ねっとニュース2009/4/5
(保科正之公像完成)
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=23690
2024年04月14日
進徳館(伊那市)高遠城内に設けられた藩校
高遠城跡を探索したあと、高遠藩の藩校跡に立ち寄りました。
<進徳館>しんとくかん
城跡の一部と言ってよい場所にあります。
城址敷地内に藩校の建物が現存しているのは珍しいそうです。
こちらは先生用の玄関
ここが教室ですね。えっと、その奥は……
和室はみんな応接間に見えてしまうので、玄関に掲示されていた間取り図でもう一度確認したいと思います。
そういうことなんですね
進徳館開校は1860年といいますから、すでに江戸末期です。藩主は第8代の内藤頼直でした。三の丸で空き家となっていた家老の屋敷を、学問所として利用したようです。明治となり、高遠県学校を経て1873年(明治6年)には廃校。学校として機能したのは13年ほどでした。
こちらは学生専用の出入り口。高遠藩では、藩士の子は全員出席させたそうです。学校として存在した期間は短いですが、5百人を超える人材がここで学びました。
他藩と同様に、高遠藩も財政は窮迫していました。しかし、優秀な人材の育成に重きを置いた結果が、進徳館だったのでしょう。
■訪問:進徳館
[長野県伊那市高遠町東高遠]2007
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板・ 間取り図
・Wikipedia:2024/4/14
・伊那市HP(進徳館)
https://www.inacity.jp/shisetsu/kankoshisetsu/shintokukan.html
・おいでな伊那HP(進徳館)
https://inashi-kankoukyoukai.jp/locate/%e9%80%b2%e5%be%b3%e9%a4%a8/
<進徳館>しんとくかん
城跡の一部と言ってよい場所にあります。
城址敷地内に藩校の建物が現存しているのは珍しいそうです。
こちらは先生用の玄関
ここが教室ですね。えっと、その奥は……
和室はみんな応接間に見えてしまうので、玄関に掲示されていた間取り図でもう一度確認したいと思います。
そういうことなんですね
進徳館開校は1860年といいますから、すでに江戸末期です。藩主は第8代の内藤頼直でした。三の丸で空き家となっていた家老の屋敷を、学問所として利用したようです。明治となり、高遠県学校を経て1873年(明治6年)には廃校。学校として機能したのは13年ほどでした。
こちらは学生専用の出入り口。高遠藩では、藩士の子は全員出席させたそうです。学校として存在した期間は短いですが、5百人を超える人材がここで学びました。
他藩と同様に、高遠藩も財政は窮迫していました。しかし、優秀な人材の育成に重きを置いた結果が、進徳館だったのでしょう。
■訪問:進徳館
[長野県伊那市高遠町東高遠]2007
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■参考
・現地説明板・ 間取り図
・Wikipedia:2024/4/14
・伊那市HP(進徳館)
https://www.inacity.jp/shisetsu/kankoshisetsu/shintokukan.html
・おいでな伊那HP(進徳館)
https://inashi-kankoukyoukai.jp/locate/%e9%80%b2%e5%be%b3%e9%a4%a8/