叢草雑記-

徒然なる日々を。わたくしを定義することはやめた。

船頭


京都2日目。

今日はもうひとりの同僚が合流して、3人で京都観光と洒落込んだ。

新福菜館で朝ラーメンを食べた後、八坂神社から二年坂三年坂を通り、清水寺にお参りした。

昨日と比べるとあまり移動はしていないけれど、やはり京都の中でも屈指の観光地である東山のエリアはどこも人が多く、疲労は今日の方が大きかったように思う。

さらにいうならば、今日から合流した同僚がなかなかにクセのある御仁で、そのことも疲労を増大させる一因になった。

というのも、あれもこれも提案をしてくる割には相手に決定を委ねて自分で決めないし、かと思えば私が出した案には容易に賛成しないしで、そのやりとりを中国人の同僚に説明するのが大変でさらに疲れてしまった。

自分の旅に相手を付き合わせるのか、それとも自分はホストに徹するのか、私としては後者のスタンスを採るべきだという思いが強かったから、同僚のやり方については疑問を抱かずにはいられなったのである。

当然、強引に引っ張ってゆくほうがよいという人もいるわけだから、簡単に白黒をつけることが正しいわけではないけれど、ね。

これ以上はやめておく。

旅慣れ


実に不思議な京都での旅である。

道連れは同僚の中国人で、この人は中国語しか話せないから翻訳アプリと首っ引きでひたすら京都市内を観光した。

いつもは1人でうろうろするだけの京都だが、案内をするとなればそれなりに思いやりを持たねばならないと思って、徒歩の時間がなるべく少なくなるように、休憩を適宜取れるようにしながら、嵐山から天龍寺、竹林の小径、そして金閣寺、瑠璃光院を回った。

自画自賛するわけではないが、オーバーツーリズムと言われて久しい京都を計画通りに回り得て、えもいわれぬ充足感に浸っている。

そもそも旅というものは、予定を詰め過ぎると融通が効かなくなるし、然りとて全くの無計画ではどこか間延びしてしまうから、その辺りの緩急を上手くつけてやる必要があるのだが、観光地での滞在時間や移動時間を考慮しながら、それを自然と出来るようなったのは、今までの積み重ねがあったからだという他ない。

また京都に連れて行ってくれという人があれば、私は喜び勇んでお供をするつもりなのだが、当分その予定はない。

本当に悲しいことだと思うよ。

理由


何故フィルムカメラで撮るのかという問いに対しては明確な答えを持たないけれど、何故ライカのII型を使うのかという問いに対しては明確に返答することが出来る。

先ずはあの造形。

90年以上も前に、職人が板金加工によって作り出したボディは、現代のカメラが逆立ちしても敵わない美しさを持っていて、まさに工芸品と呼ぶのに相応しい。

そして、その小さなボディの中には必要にして最低限の機能が詰め込まれている。

レンズを装着するためのマウント、ピント合わせ用のレンジファインダーと構図決め用のファインダー、あとは手動で合わせるフィルムカウンターが付いているだけ。

余計なものは全て削ぎ落として、ただフィルムに適正な光を当てるために作られた暗室という感じで、機能美とはこのようなことをいうのだろうと感心させられる。

とにかく私はII型という存在に惚れ込んでいて、もしこれがフィルムカメラではなかったとしてもこれを愛してしまうことだろう。

どこか気の利いたメーカーが、似たようなデジタルカメラを作ってくれないかしら。

功罪


写真ばかりが趣味になってから5年ほど経つ。

期間工という仕事を始めてから自家用車を持たなくなったので、以前大好きだったドライブや釣りがやりにくくなり、趣味と言えるものは写真だけになってしまった。

写真を趣味にすることで得たものも当然あるのだが、余暇の時間が全て写真に支配されているような気がして、最近はその功罪が気になり始めている。

先ず、曇りや雨の日を極端に忌避するようになった。

人によっては曇りでも雨でも撮るようだが、私の場合はとにかく晴れて光が差す状況でなければ写真を撮る気が起きない。

そんな考え方をしていると、晴れぬ日の休日が極端にツマラナクなって、曇りでも雨でもやれることはたくさんあるだろうに何をする気も起きなくなってしまうのだ。

もうひとつは、カメラを持たぬ外出に罪悪感のようなものを感じるようになった。

よしんばカメラを持たずに外出したとしても、常に被写体になるものを探してしまって、他の用事を純然に楽しむことが出来ない。

写真を撮る人間としては理想的な脳みそに近づきつつあるのかもしれないが、もし今写真を取り上げられてしまったら、私は人生に何の愉しみも見出せなくなってしまう。

のめり込むことが私の性分とはいえ、最近は少しやり過ぎかもしれないと多少危惧している。

過去


私は自分が昔撮った写真を見返すことが嫌いだ。

そこにはもう行くことのできない場所やもう会えない人が写っていたり、大きく変化してしまった私の感性が現れていたりする。

うつろう時の中で得たものも多いだろうが、得てして人間は失ってしまったものを数えがちで、写真という現実を通してそれを目の前に突きつけられると、私はたまらなく淋しくなってしまう。

もし私が、単純に上手い写真を撮りたいと思って写真を続けているのなら、このような想いはせずに済んだかもしれない。

だが私はどこまでも私自身の生活を、思想を、感性を撮るように心掛けてきたから、どうしてもその時々のそれが写真に現れてしまう。

今回は、今の私には撮ることができない写真を幾つか選んでみた。

単なる作風の変化では片付けられぬようなものがこれらには現れている気がして、それだけ私自身が変化しているということでもあるのだろう。

なんとも、淋しいことではないか。


_____  


_____  


_____


_____


_____


_____


_____


_____


_____

エルマー


イカ界隈には、エルマー始まりエルマーに終わるという格言がある。

先日購入したのがそのエルマーだ。

エルマーを使うのはこれが初めてではないから、先の格言の意味については朧気ながら分かるような気がする。

とにかく写りが素直なのだ。

ボケに癖があるとかキレキレの描写をするとか、そういう特徴的なところが殆どなくて、大変素直に、色味こそあまり派手ではないけれど、実に忠実に世界を写してくれる。

初心者のうちはその素直さに気づくこともなく使い続けるのだが、その域を過ぎるとその素直さが物足りなくなってきて、大きくボケたり変なフレアが入ったりする、いわゆる個性的なレンズが欲しくなってくる。

そして、その個性的なレンズも一通り試してみると、レンズの性質に頼った写真を撮ることを潔しとせず、ただ素直に目の前の世界を切り取りたいという慾求が出てくるのだが、その時に選ばれるレンズがエルマーなのだろう。

正直なところ、私はまだレンズのクセを使った写真を撮りたいと思う時があって、それはそれで写真のひとつの楽しみ方ではあるのだが、何をどのように撮るかのみを突き詰めてゆくと、やはりレンズの写りは素直な方が良いのだろうなと薄々感じてはいる。

私も、エルマーに終わることが出来るように、自分自身の写真を突き詰めてゆきたい。

憧れ


今住んでいるところはどうもね、自然が豊かというわけでもなければ大都会というわけでもなく、例えば海を見に行こうとか都市の写真を撮りに行こうとかすると、往復1,000円以上交通費を払わねばならない。

これは毎週のように出せる金額ではないし、然りとて旅というには特別感がなく、生活をする上で困るようなことはないけれど、何とも中途半端な場所なのだ。

例えばだ、これが鎌倉あたりに住むとなればどんなにか素晴らしい生活が送れるだろう。

海が見たくなれば湘南の海に行けば良いし、山が見たくなれば北鎌倉あたりの古刹を訪えば良い、都会が恋しくなれば横浜でも東京でも行けばよい。

たっぷり午睡を取ってシャワーを浴びて、その後ぶらりと街に歩いて出掛けて、明日のことは何にも気にせず写真を撮ったり、少しばかりのお酒を飲んだりして、満足したらまた部屋に戻る。

そんな何気ない休日が、鎌倉のあたりに住むだけで素晴らしく充実するような気がするのだ。

人生の充実というものが、その環境によって大きく左右されてしまうことを最近はひしひしと感じていて、こんな場所はさっさと見捨ててしまいたいというところまで思い詰めている。