じゃない城(37) 異国船打ち払えず 助川海防城

アクセス:JR日立駅からバスで10分、日製病院前バス停下車、徒歩5分

皆さんこんばんは Okkapiki(おかっぴき)です。今日は茨城県日立市にある助川海防城をご紹介します。このお城、幕末の異国船の脅威に備える目的で、水戸藩9代藩主 徳川斉昭が家老の山野辺義観(よしみ)に命じ天保7年(1836年)に築城を開始しました。途中天保の大飢饉により工事が難航、5年後の1841年にようやく完成、義観は家臣団250名を水戸から連れて移住し、1万石の城主となりました。

異国船と言えば、1825年の”異国船打ち払い令”が頭に浮かびますが、これは水戸藩で前年の1924年に起こった出来事が原因の一つとされてます。”大津浜事件”と呼ばれる事件で大津浜(現在の茨城県北茨木市)に英国船数隻がやって来て、イギリス人12名が上陸、捕らえられました。ちなみに上陸の目的は新鮮な水と野菜の確保でした。この頃から幕末に掛け、日本全国には約800もの台場・砲台が海岸地域に造られたそうです。

幕末のこのような時代背景の中、尊王攘夷思想の急先鋒である水戸藩が、全国に先駆けて造ったお城がこの助川海防城なんです。ただ実際は築城の目的であった異国船への防御の役割は全く果たせず、挙句の果ては1864年水戸藩内抗争である “天狗党の乱” の際に天狗党に味方したため、天狗党討伐の幕府軍に攻められ落城、築城からたった28年で廃城となりました。

では肝心のお城を見て行きましょう。JR日立駅からバスに乗り10分ほどで日製病院前バス停で降り、そこから5分程坂を登って行くと到着します。

現在は城跡公園になっていて、階段を登って行くと・・・

鳩石?説明によると城主の山野辺義観が可愛がっていた鳩の死を悼み庭の石に鳩の姿を彫ったとあります。360度グルっと周って見てみたのですが、鳩は見当たらなかったです。

縄張り図です。丘の下にある病院や小学校まで城域だったようで、相当な広さだった事が分かります。

本丸石垣です。時代が浅いお城なので、オリジナルの石垣かと思いきや、再現石垣との事です。260年続いた江戸時代、初期の慶長・元和年間で石垣技術は頂点を極め、その後は衰退したため、幕末期にはご覧の通り、高石垣ではないんです。

どこまで忠実に再現されているのかは不明ですが、野面積みだったのかなぁ、と古式な技法に少し驚きました。あと青みがかった色の石で、この点も興味深かったです。

番所跡です。海岸からは直線2kmで海上を見張るお城として好立地である事が分かります。

番所の直ぐ隣は表門跡で、礎石だけが残っています。残念ながら、この海防城は天狗党の乱で建物はもちろん、石垣までも徹底的に破壊されたため、現在に残る遺構は御殿の庭にあった鳩石と、表門礎石だけです。予想外に何もなく、その点は残念でした。本丸を後にして、小学校まで丘を下って行きます。

丘のふもとの助川小学校の入り口に大手門跡の碑がありました。本当に広かった事を実感します。江戸時代後期、それまでになかった国防と言う目的で、全国に先駆け築城されたこのお城、本来の役割は果たせず皮肉にも内乱であっけなく幕を閉じました。全国でも珍しい経歴を持つお城跡ですので、是非行ってみて下さい。

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