結局「いじめの原因は一体なんだったの?」数年後の再会で教えてもらった”いじめ”の理由。

実話

こんにちは。

みずのこです。

今回は、中学校時代のいじめっ子たちに数年後再会したときのお話しをさせてただきますね。

今日も、お時間のゆるすかぎりお付き合いいただけましたら幸いです。

それでは、さっそくいってみましょう。

①中学一年生の時に同じクラスだったMちゃんとの再会

中学校に入学して数か月が経ったころ、突然Mちゃんと&Mちゃんと仲の良かったグループの子たちから数か月間「無視」をされたわけですが、20歳を過ぎお酒が飲めるようになった頃に、保育園時代からの友人Iから

「Mがスナックのチーママやってるらしいから、今度一緒に飲みに行かない?○○ちゃんに会いたいらしいよ。」

と誘われたことをきっかけに、約10年振りにMちゃんと再会することになりました。

Iは保育園児のころから家庭環境がとても複雑で、その頃家計のために夜のスナックで働き生計を立てていたため、同じ業界繋がりでMちゃんが他店舗のスナックで働いていることを知っていたのです。

入学して間もない頃は仲の良かったMちゃん。

その後、”理由のわからない無視”が続き関係が上手くいかなくなったにせよ、突然「不登校」になり、その数年後にはご実家が火事で全焼している現場も目の当たりにしていたので、わたしも実は心のどこかで「どうしてるかな?」と少し気になっていたんです。

なので、Iに誘ってもらい「ちょっと会ってみたいかも…」という気持ちが芽生え、Mちゃんにたいして恨みつらみもなかったので、それから数日後にさっそくIとMちゃんが働いているスナックに行くことにしました。

再会当日の夜。

チリンチリン…

Iがスナックの扉を開け、先にお店に入りました。

数年ぶりの再会に少しドキドキしながら、Iに続きわたしも入店。

IがMちゃんに、

「M、お疲れさま~。○○ちゃん連れてきたよ~!♪」

と声をかけるやいなや、カウンターで接客をしていたMちゃんと目があいました。

「あー!!○○ちゃん、久しぶり~!!元気~!?」

と、大人になりチーママの貫禄をまといつつも、昔と変わらない呼び名でMちゃんが笑顔で迎え入れてくれ、わたしは

「久しぶり。元気よ。」

と、仲の良かったころの懐かしさと元気そうな姿をみられて素直に嬉しくなりそう答えました。

そして、さっそく案内してくれたテーブル席に着き、Mちゃんにだしてもらったお酒をのみながら、一通りお互いの近況を話している流れで自然と昔の話へ…

Mちゃんは、ふいにこう話しはじめました。

「そういえばさ、○○ちゃん、中一の時はほんとにいろいろごめんよ。」

と。

その時、何にたいしての謝罪かはすぐわかったので

「いいよ。昔のことやし。気にしないで。」

と、自分の中ではもう終わった話だったのでそう答えました。

しかし、Mちゃんは続けてわたしを”いじめた理由”を話してくれたんです。

その理由というのは、

「あの時、実はわたしS(クラスの男子)のことが好きだったんだけど、席替えするときに班長が班員を選べるっていうので、その時班長だったSが○○ちゃんを(Sの)隣の席に指名したんだよね。それ見て○○ちゃんに嫉妬して、だから嫌がらせしてしまって…そんなことで、ほんまごめん。。」

という内容でした。

それを聞いて、「(なんだ、そんなこと..。わたしがMちゃんに嫌なことをしていたんじゃなくて良かった。)」と安心したと同時に、Mちゃんはもう10年も前のことをずっと気にかけてしんどかっただろうなとも思いました。

ずっと心のどこかで謝りたかったのかな…と考えると、ちゃんと心がある人だな。と、今でも思い出すたびにじんときます。

謝るにも、勇気が必要だと思うんですよね。

しかも、10年も前の話です。

”過去のことになればなるほど言い出しにくくなること”ってあると思うんですよね。

なので、余計にその気持ちがとても嬉しく思え、わたしは心から「話してくれてありがとう。」と言わずにはいられませんでした。

このお酒の席で、Mちゃんの当時の心境と”いじめられた理由”を知ることができ、なにより、わたし自身の言動で直接Mちゃんを傷つけたわけではなかったという事実に心が救われたことがありがたかったのです。

そしてその後、三人で談笑し楽しいお酒を少しだけいただき、あまり長居することなくIと二人で帰ることにしました。

帰り際、Mちゃんは

「会いに来てくれてありがとう。またよかったら来てね。」

と笑顔で見送ってくれました。

結局、その後わたしがスナックに行くことはなく、Mちゃんに会ったのはこれが最後でした。

Mちゃんが元気でいてくれれば、それでいいのです。

さて、今回の”再会”にはどんな意味があったのでしょう?

わたしは、「和解するため」の再会だったんだろうと感じています。

この再会がなければ、わたしは未だに心のどこかで自分を責めてしまっていたかもしれません。

そして、Mちゃんという人間をよく知ることなく、ずっと誤解したままだったかもしれません。

Mちゃんは、おそらく愛を渇望していたのでしょう。

じゃないと、嫉妬なんてしないと思うのです。

そこには”望みや期待”があり、それを「奪われた」と感じてしまったことで気持ちが暴れたんだと思うのです。

そして、当時はわたしも同じように愛を渇望していました。

”いじめっ子”も”いじめられっ子”も、内に秘めているエネルギーは実は同じなんです。

「自分の望む愛がほしくてたまらない」

そのために

自分を傷つける(いじめられっ子)か、他人を傷つける(いじめっ子)か、ただそれだけの違いなのです。

たいていの場合、両親から”自分の望む形の愛”を与えてもらえず「自分は愛されない」と”ありのままの姿”で生きられない者同士が路頭に迷い、もがき苦しみ言動に違和感が生まれ、自分自身に無価値観を抱き、時にむしゃくしゃした気持ちを抑えきれず「どうでもいい」と自暴自棄になり、自信を失い、さらに自分も他人もどうでもよくなってしまうからこそ、その思考・意識が行動となり、自分も相手も傷つけてしまうことになります。

だから、「いじめ」はなくならない。

お互いが、低く同じエネルギーをもっている限り、どうしても引き合ってしまいます

だからこそ、「いじめ」をこの世から消したのであれば、一人一人が責任をもって

自分のことを本気で愛する

ということを、一生涯を懸けて取り組んでいくことが必須課題だと思うんですね。

本質的なことをいえば、自分のエネルギーが不平・不満・愚痴・泣き言で満たされていれば、そう感じざるをえないような不幸な現実を生きることになります。

それとは反対に、自分エネルギーが感謝で満たされていれば、目に映るすべてが感謝でしかなくなります。

自慢ではないですが、わたしは【地獄の味わい方】をよく知っていますので、もし地獄行きの切符を手に入れたいのであれば、どうぞ気軽にお声がけください。

手取り足取り、お教えします(笑)

と、話は逸れましたが…

わたしたちの場合は、中一から数年間をかけながら日々「お互いが、それぞれの場所で愛を学んできた」からこそ、ベストタイミングで今度はよい形で再会でき”あたたかい交流”ができたんだと思うんですね。

なので、Mちゃんと繋いでくれたI、そして正直に話してくれたMちゃんに心から感謝です。

終わりよければすべてよし! ALL OKです。

②中学校の部活でお世話になったM先輩との再会

さて、お次は高校一年生のころのお話になります。

その日、わたしは電車で下校をしていました。

車内には席が空いておらず、わたしは窓際に立ちボーっと流れる風景を見ていました。

そして、いつも下車する5つほど前の停留所に電車が着き、何気なくふと入り口の方に目を向けると、ドアの外には中学校時代の部活でお世話になったM先輩が立っており、今から同じ電車に乗車するところでした。

わたしが中学二年生になる頃には、いじめられることなく普通の先輩後輩の関係に戻っていたにもかかわらず、なぜがM先輩を見つけたとき、一瞬「ドキッ」と心臓があぶる感覚がありました。

そして間もなく、電車の中にいるわたしに気づいたM先輩は「あ!」という表情をしたあと、すこしぎこちない笑顔で手を振ってくれました。

それから、電車は停車し出入り口の扉が開きました。

M先輩は乗車し、まっすぐわたしのところにやってきて、

「○○ちゃん、久しぶり。元気?」

と、すこし緊張した面持ちで声をかけてくれました。

その時、わたしは反射的に出来るかぎり普通に接しようという意識がはたらき、それにもう部活の上下関係はないのだからと小学校時代の仲のよかったころのようにこう答えることにしました。

「うん。元気だよ…Mちゃんは元気?」

と。

そしてM先輩は、すこしぎこちない笑顔のまま伏し目がちに

「うん、わたしも元気…」

と言ったあと、またわたしの目を見て数秒後にこう話しだしました。

「○○ちゃん、中学の時は本当にごめんね。」

その言葉を聞き、わたしはなぜかすこしだけ複雑な気持ちになりました。

そして、

「うん。大丈夫。気にしなくていいよ。」

と答えました。

それから、M先輩は続けて

「あの時、ほんとどうかしてた…嫌な思いさせてしまって本当にごめんよ。」

と、心からの言葉をわたしに投げかけてくれたとき、わたしはさらにその短い言葉の中にある重く複雑な感情を感じとっていました。

再会して、挨拶を交わして、それからすぐに「ごめんね。」と言ってくれたM先輩。

いじめが収束してからの約2年間、おそらくその複雑な想いと共にM先輩は過ごしてきたのでしょう。

日々の生活の中でたくさんの人と関わり笑い合っていたとしても、ふと湧き上がってくる罪悪感に悩まされてしまうことが場面場面できっとあったんだろうなぁと思います。

そして、そのM先輩の「複雑な想い」というのは、一目見た時からわたしに伝わってきていた”もの(エネルギー)”でもあったんですね。

それはどういうことかといいますと、わたしはこの日までM先輩に恨みや複雑な想いを抱いていたわけではなかったのですが、M先輩の雰囲気(想い・エネルギー)が複雑なものだったため、わたしもM先輩と話しているあいだ不思議とM先輩にたいして複雑な気持ちになってしまったという点です。

一人でいる時はとくになにも感じていなくても、他の誰かと関わりだすと、なんとなくイライラしだしたり、なんとなく気持ちが穏やかになったり、ワクワクしてきたり、、本当にいろんなパターンがありますが、そういった経験が誰でもあるかと思います。

目には見えなくても、一つ一つのエネルギーは毎瞬『共振・共鳴』しており、そういう世界にわたしたちは住んでいるため、想い(エネルギー)は必ず相手に届いてしまいます。

好きな気持ちも、嫌いな気持ちも、それこそ”複雑な気持ち”も…全部です。

(特に、”目と目”が合うと本音が伝わりやすいですね。)

そして本来は、みんな繋がっているので一緒にいる人に知らず知らずのうちに影響されています。

ですので、M先輩の例でいうならば、その時常に一緒に行動を共にしていたN先輩から、あまり良くない影響を受けていた部分も少なからずあったかと思います。

(その時期に、たまたまご家庭の環境が穏やかでなかった場合も考えられますし、原因は様々です。)

小学校のときのMちゃんは、やさしく穏やかだった分、いじめをしている時のMちゃんは本当に「別人」じゃないかと思うレベル…。

「どうかしてた」と我に返り”いじめた理由がわからない”という話が本当であるならば、いじめていた自分の姿を思い返したときに、「どうしてあんなことをしてしまったのだろう…」と混乱し頭を抱えたこともあったかもしれませんね。

こういう状態を【魔が差す】といいます。

「いじめ」というものは【100%いじめっ子が悪い】だとか、【100%いじめられっ子は悪くない】という極端なものではなく、もし両者がそれぞれ悪いのだとすれば、

それは加害者側にも被害者側にも「魔を受け入れてしまう心の隙」があるという点です。

”人間目線の良い悪い”をいくら議論したところで、いじめはなくなりませんし根本的な問題解決にはなりません。

結局は、

”自分を愛して、感謝して生きる”

ことが大事かと思います。

「魔が差す隙」を与えないこと。許さないこと。

それが、自分を守り、さらには相手も守る『最大の防御』になるんですね。

「魔」というものは、ただの空想の世界のものではなく、実は見えていないだけでそこらへんにいます。

わたし自身、いろんな体験をしています。

(長くなるので、ここでは割愛します。)

ですので、心と体をいつも清潔に保ち、自分を大切に笑顔で生きましょう。

今回は、過去いじめられた相手との再会についてお話しさせていただきましたが、この二つの出来事はお互いにとってとてもありがたいことでした。

わたしの場合は、自身の心が救われ、”いじめてしまう人の心の背景や環境”を知ることができたおかげで、今こうして記事を書くことができています。

そして、M先輩の場合は謝ったことで心のつかえがとれたのでしょう。

別れ際には、晴れやかな表情で

「ありがとう!○○ちゃんまたね!」

と手をふりながら電車を降りていきました。

人は、良心を傷つけてしまったときにもがき苦しみ、そして素直な心で謝ることで自らの心を救うんだな。

やっぱり、人生には無駄なことなどないなぁ。

と、心からそう思いました。

あなたには今、謝りたい人はいますか?

謝りたい動物はいますか?

会えるのであれば、会いましょう。

素直に謝ることで、きっと、あなたの心は今よりやさしくなりますよ。

それは、あなたご自身にたいしてもです。

いっぱい我慢させてごめんね。

いつも嫌なとこばっかり見て悪口言ってごめんね。

働きすぎてごめんね。

やさしくできなくてごめんね。

・・・・ごめんね。

いつだって、あなたの心と体はあなたのために一生懸命動いてくれています。

もっともっと、どうかご自身に喜びを与えてあげてくださいね。

あなたが今日も、たくさん笑顔でいられますように。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

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