鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

霊牛降臨! 大津にみる伝統的な日本の異界への認識

前回、前々回に続いての大津ネタ。↑は滋賀県大津市長安寺にある通称「関寺の牛塔」。

京都駅からJR琵琶湖線に乗って10分ほど、大津駅のほど近くにあります(最寄り駅は京阪電鉄上栄町駅)。「大津事件」の現場を伝える碑からも近いです。オーバーツーリズムがいよいよ破滅的な状況になりつつある(?)京都駅周辺の混雑ぶりとの落差に驚愕すること疑いなしの快適な観光&散策が楽しめるところです。ちと車の交通量が多いけど。

この関寺の牛塔は高さ3メートルを越える堂々たる石造宝塔で↓はその傍らに立つ説明板。かつてこの地には関寺という非常に大きなお寺があり、そこには金色に輝く五丈(約15メートル)もの弥勒菩薩像が安置されていたらしい。この仏像は平安時代には「日本三大仏」に数えられていたというのですから相当なものですねぇ。

この説明板の内容にあるように不思議な霊潭にちなんだもので、その話が「今昔物語集」にも収録されています。その内容は説明板の通りなのですが、仏(迦葉仏)がこの牛に姿を変えてお寺の再建を手伝った。その評判がたちまち都にまで伝わって藤原道長をはじめとした当時の貴族たちがこぞって現地に赴いてそのありがた~いお姿を拝観したのだとか。

そしてお寺の再建を見届けるようにして牛は息絶え、人々はその霊牛をたたえ、供養するために埋葬した地に石造宝塔を建てたという…

長安寺の公式サイトにも説明があるのでこちらもご参照ください。

sekidera-choanji.com

ただしこの石造宝塔は鎌倉時代の作と考えられています。

長安寺へと続く道。この参道が線路に豪快に断ち切られている光景を見るとわたくしのような関東人は神奈川県の江ノ島電鉄沿線を思い出します(笑)

以前に稲荷信仰に関する投稿をした際に「稲荷のキツネはしばしば稲荷の神の化身(顕現)としてわれわれの前に姿を現す」みたいなことを書いてみました。ご一読いただければ幸いです↓

aizenmaiden.hatenablog.com

この関寺をめぐる霊牛譚では仏さまが牛の姿をとって人間の前にあらわれて霊験を示した形をとっています。

このあたり日本の伝統的な神・人間・動物の間の関係性、さらに昔の人々が神仏がどのような形で人間の前に姿をあらわし、その神秘的な力を発揮すると見ていたのかについて垣間見ることができるように思えます。

ちなみに日本霊異記には生きている間に悪行を重ねた者が死後牛に転生して苦しむ、という内容の話が収録されています。

神仏の化身としての面と、前世の悪行の報いとしての面。いずれも神秘的な面を持ち合わせていながらも牛という生き物に対して対照的な見方が存在していたことがうかがえます。

 

この地、大津といえば、かつての都人にとっての世界の果て、大津(あるいは逢坂の関)よりも東は野蛮な者たちが住む化外の地、なんだかよくわからない得体のしれない「異界」が広がっている「別世界との境界線」としての立ち位置を持っていました。

大津市の観光名所のひとつ、瀬田の唐橋をめぐる藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説などもこの大津の「異界の入口」としての面を象徴するものなのでしょう。また都をめぐって戦いが繰り広げられた際はこの瀬田の唐橋が都を守る側にとっての重要な防衛線にもなっていました。

このかつて存在していた大寺、関寺についてはここを舞台にした「関寺小町」というあの小野小町を主人公にした能楽作品もあります。↓は銕仙会の公式サイトにある関寺小町の紹介ページ。

www.tessen.org

なんでも小野小町100歳を越えた時期の話らしい。かつての若さ、美しさを失い、京の都から離れてこの大津の地で暮らしていた小野小町がつかの間若い頃の記憶を蘇らせつつもそれによってかえって自らの老いの身と世の無常に悲しみを覚える...みたいな内容。

そしてこのかつて逢坂山の関があった地域は蝉丸伝説が伝わっており、この謎めいた人物とゆかりの深い「蝉丸神社」が3社あります。長安寺はそのうちのひとつ、蝉丸神社下社のすぐ近く。

は先日の投稿でも載せましたが、その蝉丸神社下社前にあったステキな滋賀名物「とび太くん」の蝉丸バージョン。

「日本異界巡り」「日本魔界探訪」といった日本の歴史的ディープスポットを題材にしたテーマでは必ずと言っていいほど取り上げられる蝉丸神社。いずれネタにできたらな、と思っております。なのでここではとび太くんだけ(笑)

百人一首能楽作品でも知られるこの蝉丸。百人一首に選ばれた歌は↓

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

この歌の内容からしてもこのエリアが2つの世界の境界に位置していた様子がうかがえます。

そしてこの蝉丸は実在の人物かどうかも定かではないのですが、伝承では醍醐天皇の子供で、盲目ゆえに宮廷から追放されてこの逢坂の地に居を定めた、となっています。

異形のムカデの怪物

老いて容色が衰え都にいられなくなった美女

盲目ゆえに京の宮廷社会から排除された皇子

いずれも「異形性」を備え、世の「普通」になじめずに弾き出されざるを(あるいは退治されざるを)得なかったという共通した境遇を抱えています。

「普通の世界」と異界の境界にはこうした存在が集まりやすい(つまりそうした伝説が生まれやすい)環境なり、世間から持たれていたイメージなりがあったのでしょう。

そう考えるとこの関寺の牛塔に見られる「仏が牛の姿で人々の前に顕現する」という構図もこのエリアらしい「異形性」を備えているようにも感じられます。

なお、福島県茨城県の境界の福島側にはかつて東北(蝦夷の地)との境界のひとつとされた「勿来(なこそ)の関」がありますが、その一歩手前、茨城(関東)側にある港の名前も「大津港」です。

 

現在大河ドラマの影響で「源氏物語」が少し話題になっていますが、この物語の中で主人公の光源氏が宮廷内の政争に巻き込まれる形で都落ちする場面があります。その行き先は旧摂津国、現兵庫県の須磨の地。その東には平安末期に源頼政によって退治された化け物「鵺」の死体が漂着したと伝わる芦屋市なんかもあります。

おそらく平安時代の都人たちの感覚では東が大津、西が須磨あたりまでが「自分たちの世界」の範囲だったのではないでしょうか。光源氏は西の「世界の果て」へと落ちていった形になる。

そして大津の地には藤原秀郷の化け物退治の伝説があり、西の須磨がある摂津国酒呑童子退治の伝説で有名な源頼光摂津源氏の重要な拠点でした。

以前に武士にはもともと実際に戦う武力だけでなくモノノケ、悪霊、災いを取り除く「辟邪/破邪の力」が貴族たちから期待されていたと書いたことがあります。↓ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

この藤原秀郷源頼光の「東西の境界」での存在感からはそんな武士の役割が透けて見えてくるような気がします。異界から都へと入り込んでくる「得体の知れない何か」を防ぐ役割でしょうか。

さて、現在大津では大河ドラマに乗じて(笑)「大津は源氏物語が生まれた地」と猛アピールをしています。瀬田の唐橋からもそれほど遠くない石山寺では紫式部が参詣した際に源氏物語の着想を得たとか、この寺で執筆したといった伝承も伝わっています。(その真否についてはここでは問いませんが、現地にあったイラストはちょっとお気に入り↓)

まあ少なくとも石山寺からは琵琶湖は見えないよ!と言いたい(笑)

なぜ紫式部光源氏都落ちの先として須磨を選んだのでしょうか?同じ異界との境界であり、実際に訪れたことがある大津ではなく?

そこには須磨がある摂津の地が源氏の拠点だったから、という「源氏つながり」の事情があったのではないか?

そんな推測を立ててみたい誘惑にも駆られます。

 

話を関寺の牛塔に戻すと、わたしはこの塔を見た時に埼玉県の秩父にあるとある仏像を思い浮かべました。

秩父音霊場のひとつ、野坂寺にある「十牛観音」。↓はその説明板です。

昭和初期から戦後にかけて荒ぶる力を持った牛が大活躍した。その荒ぶる猛牛ぶりが死後も長く語り継がれて平成の世になってこの像が作られたらしい。

この仏像とそこに込められたコンセプトには「普通の」牛よりもはるかに優れた力を持っていたこの牛に神仏の力、いわゆる神通力が宿っていたのではないか、との思考が見て取れるのではないでしょうか?

これを観音の化身と見たか、あるいは牛を通して仏の神秘の力が人間のもとへともたらされたと見たのかは定かではありませんが、この十牛観音から垣間見られる神・人間・動物の間の関係性に対するビジョンは関寺の牛塔に一脈通じるものを感じます。

関寺の牛塔の伝承は10世紀後半、今昔物語集が編纂されたとされるのが13世紀半ば頃、そして秩父の十牛観音の元になった猛牛が活躍したのは20世紀前半から半ば。その間には800900年ほどの隔たりがあるわけですが、日本人の間で同じコンセプトが脈々と受け継がれてきた様子がうかがえるのではないでしょうか?

あと関寺の牛にせよ、秩父の猛牛にせよ、去勢の概念がなかなか定着しなかった日本ならではの話でしょうね。人間が去勢した動物が神仏の化身でもある、なんて設定はちょっと考えられないですよね。

現代のわたしたちにとっての「神通力」というと人間離れした能力を持つものが神仏にも通じるような驚くべき力を発揮する、という「人間視点」のイメージが強い、ですよね?

それに対してこれら関寺の霊牛と秩父の猛牛には「神仏の力」が人間なり動物を通してこの世に現れる、「神仏視点」のイメージが見られます。おそらく人間視点の方は修験道(厳しい修行を通して神仏に近づく)の影響が強いと思いますが、長い間この2つの「神通力」のイメージが共存し続けていたのではないでしょうか?

われわれの稲荷信仰におけるキツネに対して抱いているイメージにはこの「神仏視点」の神通力のコンセプトが根強く残っているように思えます。

 

 

旅人よ 危ぶむなかれ その旅路 志賀の山越え 仏とともに ~志賀の大仏(滋賀県大津市)

前回の投稿でも触れましたが、先日滋賀・京都に行ってきました。滋賀県の西側、湖西エリアや大津エリアにはステキないくつか石仏がありまして、それを見て回るのも今回の旅行の大きな楽しみでした。

そんなステキな石仏のひとつが大津市にある「志賀の大仏」。↓

「大仏」と書いて「おぼとけ」と読むそうです。「しがのおぼとけ」。おぼとけ!...じゃなくておぼえとけ!😴

以前から見てみたいと思っていた仏さまでした。

天智天皇大津京跡からもそれほど離れていない(徒歩4050分くらいだったでしょうか)場所にあります。

この仏像がある場所はもともと大津と京の都を結ぶ「志賀越え」または「中越」と呼ばれる街道の入口でもありました。比叡山や逢坂山ともつながりの深い志賀山を越えるルート。かつては多くの人がこのルートを使って大津~京都間を移動していました。

その歴史はかなり古く、万葉集にもこのルートを題材にした歌が収録されています。

例えば情熱的(過ぎる気もする😅)な歌をいくつか残した但馬皇女天武天皇の娘)が異母兄で恋人でもあった穂積皇子に対して送った歌、

「後れ居て 恋ひつつあらずは 追い及かむ(しかむ) 道の隅廻(くまみ)に 標結(しめゆ)へ我が背」

があります。これは近江にある「志賀の山寺」に派遣された(当時の都は京都じゃなくて飛鳥)穂積皇子に対して「後に残されて恋い焦がれて苦しむくらいなら彼を追いかけよう!わたしがわかるように道にしるしをつけておいてね、ア・ナ・タ❤❤」みたいな感じで呼びかけた内容。

情熱的ですねぇ。なんでもそもそも穂積皇子が近江に飛ばされた理由がそもそもこの二人の恋愛関係が問題になったから...なんて説もあるそうです。

今でもこのルートで京都に行くことが出来ると思いますが、現在ではほとんど使われていないようです。市街地から離れてここへと向かう山道に足を踏み入れてから誰とも会いませんでした。

は現地にあった大仏の説明板

仏さまの姿だけでも高さ3.1メートル(約1丈)と堂々たるスケール。それに対してそのお姿はなんとも言えない素朴で味わいのあるステキさ。有名寺院に安置されている「芸術的な」仏像とはまた趣の異なる仏像の素晴らしさを備えた像だと思います。

お顔立ちもじつによい感じ↓

そのお姿は定印を結んだ典型的な阿弥陀如来ですが、もともとは弥勒菩薩として信仰されてきた面もあるそうです。↓はお堂にあった御詠歌。

の画像、山道をしばらく進んだところで視界の先に見えてくるロケーションも素晴らしくて。見えてくるなり「ああ、いらっしゃる。やっと会えた!」と感慨を覚えたものでした。

説明板にもありますが、作られたのは鎌倉時代13世紀。以来700年以上にわたってこの地で京の都へと向かおうとしてる旅人たちを見守り続けてきたことになります。昔の人たちは街道へと足を踏み入れる前にこの仏さまに手を合わせて旅の無事を祈り、また京の都からはるばるたどり着いた人たちはここで一休みしつつ無事にたどり着けたことをこの仏に感謝していたのでしょう。

この石仏にはそんな名もなき人たちによる歴史が蓄積されている。そして今回訪れたわたくしはそんな歴史の一部に加わることができた(引き返しましたけど/笑)

これも寺院に安置されている仏像にはない、路傍の石仏ならではの魅力・醍醐味だと思います。

しかもこの仏さま、お堂は屋根つきなのに仏さまそのものは露座。なのでわれわれは屋根の下で拝むことが出来るというじつにありがた~い形になっておるのです。

そして、この街道の入口に立つ仏像は2つの世界(大津と京都)を結ぶ境界において災いが入り込んでくるのを防ぐ「道祖神」としての面もおそらく持ち合わせていたのではないでしょうか。

道祖神の多様性と路傍の石仏が担っていたであろうさまざまな役割をうかがううえでもこの石仏の価値はとても高いと思います。

もともと仏教ではみ仏の素晴らしさをビジュアルで表現するためにお堂や仏像を美しく飾り立てる必要がありました。いわゆる「荘厳(しょうごん)」というやつですね。海外の、とくに東南アジアの仏像は金色でキラキラしていますし、奈良東大寺の大仏などもそのために東北地方から金を求めたりしたわけですが…

日本の仏教では、とくに鎌倉新仏教の登場によって本当の意味で仏教が「日本人の宗教」になって以降はそうした「キラキラ飾り立てた仏像」よりもこの石仏のようなもっと身近で親しみやすい仏像の方が求められ、愛されたように思えます。

今年2024年は法然による浄土宗の開宗850年の記念イヤーですが、この浄土宗の登場によって身分を問わず誰でも念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ行くことができるようになり、仏像が信仰においてあまり必須なものではなくなりました。

でもやっぱり庶民の感覚としてはみ仏の存在を実感できるような拠りどころとなるものがほしかった。そんな人々の要望に応えたのが素朴なつくりの仏像だったのでしょう。

例えば現代では芸術品としての価値も高い江戸時代の円空木喰行道らが作った独特な素朴さを持ち合わせた仏像などもそんな要望に応えられる魅力を備えていたからこそ、多くの人たちから求められ、それに応えて多数作られたのだと思います。

よく美術的な観点から「日本の仏像制作は鎌倉時代がピークで以降衰退していく」と言われますが、それはあくまで芸術的な視点からの話。

むしろこうした路傍の石仏や小さなお堂に祀られている仏像は中世以降の日本仏教の(民間宗教としての)成熟ぶりを示すとともに、日本仏教の真髄を伝えるものであると言いたい。

法然親鸞の登場によって「日本の仏教は本来のインド由来の仏教から離れて完全に独自の世界を展開するようになった」とも言われますが、そんな日本仏教の特色がこれらの名もなき人たちによって作られ、名もなき人たちから信仰を集めた仏たちに宿っているのではないでしょうか。

そんな庶民の信仰の拠りどころであった素朴な仏像が今でも全国各地に残されている。それは国・自治体からの補助金などを受けながら維持されている大寺院の「芸術的な」仏像にも負けないくらいすばらしいことだと思うのです。

説明板にもあるようにどうやらこの志賀の大仏は現在でも地元の人たちによって大事にされているようです。ぜひとも、これからもずっと訪れる者たちを見守ってほしいものです。

 

は説明板にも少し書かれている志賀越えの京都側にある北白川の石仏、通称「北白川の子安観音」です。銀閣寺から少し歩いた交差点に立っており、交通量が多い場所においてまだまだ現役バリバリって感じのたたずまいを見せています。こちらも鎌倉時代の作と考えられています。

この石仏、かの豊臣秀吉が気に入って聚楽第に持ち込んだものの、毎夜毎晩「北白川に戻せ」と訴えかけたために戻された...という「いわく」つき。

行き交う車のドライバーは「おい、ぜったいにぶつけんなよ、安全運転を忘れるな」という石仏からの強烈なプレッシャーを感じているんじゃないでしょうか(笑)

最後に、日本の仏像ではあまり飾り立てずに作られた「素朴な」ものが求められた面があると書きましたが、その背景にはもうひとつ、重要な理由があるとわたくしは考えています。

その理由とは!

...近日公開!...のよてい。

なお、志賀の大仏の近くには飛鳥時代から室町時代まで存在していたという崇福寺跡という史跡もありますが、現在そのエリアへのルートは工事か何かで通行止めになっていました。もし訪れる予定がある方はご注意ください。

 

 

 

滋賀県大津市にて大津絵と遭遇す。そして自分でも描いてみた!

後述しますが、↑はわたくしの自作の大津絵です(笑)本投稿の表紙用。

先日滋賀県大津市へ観光に訪れた際に当地の名物「大津絵」を見る機会がありました。もっとも現地ではあちこちで見られるので嫌でも目につくのですが(笑)

大津絵。かつて東海道の要衝だった大津において土産物として描かれ、販売された絵。元禄時代頃から普及するようになり、江戸時代を通して広い範囲で高い人気を博すことになった。

浮世絵と並ぶ江戸時代を代表する大衆芸術...のはずなのですが、土産物として作られ、売られたこともあって消耗品のように扱われたため現在ではごくわずかしか現存していない。

そして明治に入って東海道の要衝としての大津の重要性が薄れていくにつれて大津絵も衰退し、その歴史的な役割を終えることになった…

というのが大津絵の大まかな歴史ですが、明治に入って衰退していく一方で当時の文化人・芸術家たちの間でその魅力が見出されるようになり、彼らによって残された大津絵の蒐集・記録・分類・評価などが行われるようになる。

現代のわたしたちが見ることができる大津絵はこうした「普及→衰退→終焉→再評価」という時代の波(プラス関東大震災東京大空襲による消失)をくぐり抜けて現在まで残ったもの、ということになるのでしょう。(ちなみに現在でもごく少数の作家の方々によって制作は続けられていますが)

大津市にある圓満院(三井寺のすぐお隣)↓はそんな大津絵を鑑賞することができる「大津絵美術館」があります。

enman-inn.com

「美術館」というのはちょっと大げさで展示室といった趣ですが、そこではステキな大津絵をいろいろと見ることができました。

はそんな大津絵の中でももっとも多く描かれ、広く人気を博したという「鬼の念仏」。

一方の角が折れている(「我を折る」を意味しているらしい)、撞木を手にして首から鉦をぶらさげている、そしてもう一方の手に「奉加帳」を下げている。というのが基本スタイル。

こちらは鬼の念仏と並んで大津絵を代表する図柄として知られている「藤娘」。美術館入口のパネルもそうですね。

なんとこの図柄をもとに歌舞伎の舞踊演目が作られています。京都の愛宕詣での様子を元にした構図とも。

はとくにユニークな「外法の梯子剃り」。外法とは福禄寿の別名。これ、単に大黒様が福禄寿の長~い頭を剃っているだけじゃなくて、福禄寿は走っている構図らしい。

「鬼の念仏」と「外法の梯子剃り」の解説に「大津絵十種」とありますが、大津絵にはよく描かれた絵柄が10種類ありました(「藤娘」も含む)。が、それはかなり時代を経てからの話で、もともとはもっと多彩な種類があったようです。

はそんな大津絵についての本。大津絵について知ることができる、それも文庫本で入手可能なすぐれものです。

「大津絵 ŌTSU-E 民衆的風刺の世界」 クリストフ・マルケ・著 角川ソフィア文庫

この本では大津絵に関する大まかな歴史と、絵柄についての説明、そして明治に入っての再評価の流れ、加えて再評価に大きく貢献した楠瀬日年という人物について取り上げられています。

確認できる限り大津絵の図柄は約120種類ほどあったそうです。それが人気を博しての需要増に対応して大量生産を可能にするために種類をどんどん絞り込んでいった結果、10種類まで減ってしまったらしい。

市場経済における効率と採算性の追求が多様性を損なう、という現代へのちょっとした教訓になっているでしょうか。

また、大津絵の目的/用途も時代とともに変遷しており、最初は布教のため(絵解きみたいな感じで使われたのでしょうか)、ついで教訓や風刺の表現のため(現在ではこちらのイメージが強いですね)、さらに縁起物として使用するために作られ、人気を博していたそうです。

この変遷に合わせて画題も宗教的なものから世俗的なものへと移り変わっていき、世俗性が増すにつれて面白みもどんどん増していった...らしい。

この確認されている120種類ほどの構図の中には残念ながら文章による説明しか残っておらず、実際にどんな絵だったのかわからなくなってしまっているものも10数種類ほどあるそうです。さらに版画や明治に入ってからも模写で残っているものの、肉筆の実物は現在確認されていないものも多数あるとのこと。

つくづくもったいないことをしたものだ、と思わざるを得ません。

また、現在の大津絵のイメージと言えば先ほども触れたように「土産物として販売されていたため、あまり大事にされなかったので失われてしまった」との印象が強いですが、実際にはさまざまな用途で使用されていました。

神仏を題材にした絵を布教に用いたほか、子どもの教育・勉強のためにもよく使われたとか。

大津絵にはしばしば教訓めいた道歌がついており、これを寺子屋で教材として用いていたらしい。

さらに時代を経ると縁起物として護符代わりに使用されるようになったそうで、上記の「鬼の念仏」「外法の梯子剃り」の解説にもご利益が書かれていました。ほかにも「釣鐘弁慶」が火難盗難よけ、「鷹匠」は五穀豊穣など。

布教のための素材にせよ、教材にせよ、お守りにせよ、実用品/消耗品としての面を持ち合わせていますから、これもなかなかよい状態で残らなかった理由となっているのでしう。

浮世絵に比べるとずっと知名度は落ちますが、海外でもこの大津絵を愛好していた人がいたらしい。↓

ピカソも所有していたという「猫とねずみ」

浮世絵がフランスの印象派の芸術家たちに大きな影響を及ぼしたことがよく知られていますが...↓は「傘さす女

これは浮世絵の美人画の影響のもとで描かれた絵柄と言われています。となると…

印象派の大家、クロード・モネの代表作「日傘をさす女」。彼は同じ構図の作品を3作描いていますが、そのうちのひとつ。

モネが浮世絵の影響を受けていたことはよく知られていますから、もしかしたらこの西洋絵画の名作と、大津絵の「傘さす女」はともに浮世絵の影響下から生み出された「姉妹作」のような関係にあるのかも知れません…

...なんて妄想を繰り広げるのも楽しい。

ほかに面白いものでは「女虚無僧」。

美術館の解説では男性かもしれない、とありますが、上記の書籍では虚無僧を装って売春をしていた女性かも、という説も紹介されています。江戸時代の虚無僧はかなりいかがわしい面を持っていたので可能性は十分ありそうな気がします。また、浮世絵でも女虚無僧が描かれているので歌舞伎からの連想、という説もあるそうです。

は「鬼の行水」。超楽しそうにお風呂に入ろうとしている鬼の様子がじつにいい。

解説では「体を洗っても心を清めない人を風刺している」とありますが、この題材の大津絵の中には「心の鬼を洗い落とせば鬼でも仏になれる」というよりポジティブな教訓が示されているものもあるそうです。

これは伝えたい教訓やテーマに合わせて絵が描かれるのではなく、まず先に絵があって、その題材に合わせて自由に教訓やテーマを決めていた...という大津絵の事情が透けて見えます。このあたりの自由さもまたいい。

なお、当美術館に所蔵されている大津絵の中にはおそらく、明治以降に記録のために模写したものや、明治の人たちが自己流で描いた大津絵も含まれているんじゃないかと思います(違っていたらごめんなさい!)

例えば↓の「三猿」は残念ながら江戸時代に書かれた大津絵は残されていないそうです。

絵柄が「クレヨンしんちゃん」の作者、臼井儀人氏に似ているような気がするのはわたくしだけ?😆

もちろん、だからといってこの美術館とその展示物の価値が下がるわけではなく、これらによって我々は「かつて大きな人気を博したけれども、その多くが失われてしまった」大津絵の世界を垣間見ることができる、非常に貴重なものです。

そんなわけで大変楽しい時間を過ごすことができた美術館だったのでした。

この大津絵はおそらく本職の絵師ではない人が商売のために描いていた面もあったはず。そんな本職ではないからこその素朴さ、大胆な簡略化、自由さといった魅力は地方で作られた仏像に通じるものを感じます。

地方の仏像のなかには熱心な信者や木地師によって作られたものが多数あると言われていますが、これらの地方仏が持つ素朴な味わいと大津絵の間には共通したものがあるように思えます。

そしてそこには、民間芸術の真髄が宿っている、とちょつとカッコつけていいたい。

なお、↓の「鬼の念仏」の絵には「大津絵(画)の筆のはじめは何仏」という句が書かれています。これはかの松尾芭蕉が詠んだもの、しかもこれが「大津絵」という名前が使われた最初の例らしい。

こんなところにも顔をのぞかせるのですから、俳聖芭蕉、おそるべしですね。

かつて大津絵が販売されていたという場所に碑なども見られます。逢坂山関城址の碑のほど近く。↓

↓は三井寺園城寺)境内で見つけた「鬼の念仏」。

 

滋賀県といえば、町中でよく見かける「とび太くん」も名物としてよく知られています。

の女の子だけ京都で撮影。2枚めの蝉丸バージョンが素晴らしすぎる!残念ながらわたくしのような東国人はうなぎと言えばまず近江よりも遠江を連想してしまうのですが...

滋賀県内をほっつき歩きながらとび太くんを見かけると「ああ、今滋賀に来てるんだなぁ」なんて感慨を味わうことができます。

と同時に、このとび太くんの素朴さ、自由さには大津絵と同じスピリットを感じます。これは大津絵の末裔、もしくは正統後継者か?(発祥地は滋賀は滋賀でも湖東の方らしいですが)。

いずれにせよ、日本人はこうした「立体感とか遠近法なんて知ったこっちゃないぜ」とばかりの「平面/2次元の美学」を忘れるべきではないのか?

 

というわけで、わたくしも勢いに乗ってえいやっ!と大津絵を描いてみました。

本投稿の表紙にするため冒頭でも載せましたが、改めて

鬼の念仏 in ヘヴィメタルスタイル!

「大津絵の 筆のはじめは 何メタル?」

世が世なら(どんな世だ?)大ヒット間違いなしか?

大津絵美術館で大津絵を見て回っている間にこの構図が頭に浮かんで「よしっ、帰ったら描くぞ!」のモードになったのでした。

大津絵の「早い、安い、うまい」の魅力を少しでも表現できていればよいのですが。

それと大津絵は陰影をつけない平面的な描写が大前提ですが...ちょこっとだけつけずにはいられませんでした。

ともあれ、これは大津絵である。誰がなんと言おうと大津絵である。

異論を唱える御仁にはあっかんべーのうえで地獄行き(Bound for Hell)のリストに加える所存にて候🤣。

 

 

祀れイナリ! ~そもそも稲荷のキツネってなんなの?の巻

前回の投稿の姉妹編とも言うべき内容です。↓併せてご一読いただければ幸いです(読まなくても本投稿をご理解いただくうえでとくに問題ありません)。

aizenmaiden.hatenablog.com

前回の投稿では各地に伝わる稲荷のキツネが人間のお使いとして大活躍する(ただししばしば悲劇的な結末を迎える)伝説について取り上げました。この手の伝説でとくに知られているのが秋田県山形県に伝わる「与次郎(よじろう)稲荷神社」です。かなり詳しい内容の伝説が伝えられているうえにWikiのページもあるので興味があれば御覧ください↓

ja.wikipedia.org

で、↓が秋田県、かつて久保田城があった千秋公園にある与次郎稲荷神社(與次󠄁郞稻荷神󠄀社󠄁 )です。前回の投稿でこの神社の写真を取り上げなかったのは今回のために温存しておいたのだ!😄もともと江戸初期に久保田城内に建てられた後、何度か移転した末に現在地に落ち着いております。

なかなか味のあるキツネたち

Wikiのページにもあるようにこの稲荷神社はもともと人間に化けて飛脚(お使い)として活躍したキツネそのものを神として祀っている神社です。この「与次郎」という名前からしてそのキツネの名前。

現在でもこの「キツネを祀った稲荷神社」としての面は失われていないでしょう。なお、同じ伝説を伝える山形県東根市の与次郎稲荷神社ではこのキツネ、与次郎を「与次郎大人之霊」という名前で公式に(?)祭神として祀っています。

さて、この稲荷信仰とキツネの関係ですが、一応世間一般では「キツネは稲荷の神さまではない!あくまで神さまのお使い(神使)に過ぎない」と言われています。ネット上では「でも日本人の多くが間違って神さまだと思いこんでいる」なんて意見も非常に多く見かけます。

しかし本当にそうなのか?というのが今回の投稿のテーマです。結論から言えばそうではない、ということをこれから証明していくつもりです。

現在の「神道」のイメージのほとんどは明治の廃仏毀釈国家神道の成立に伴って作り上げられたものであり、この時期に長い間日本で受け継がれてきた多くの伝統と信仰が失われてしまいました。この影響は稲荷信仰にも非常に深く及んでいます。

「ではキツネとはなんなのか?稲荷の神さまとはどんな神さまなのか」を追求しようとなると前回の投稿でも触れたダキニ天のことや、修験道密教との関係(そもそも伏見稲荷大社はかつて密教の本拠地、東寺の鎮守社的な立ち位置にあったわけで)にも触れる必要があるため、とうていわたしの手の及ぶところではないのですが...いくつかキツネが神そのもの、あるいは稲荷の神として祀られていると考えられる例(与次郎稲荷のような)を挙げていきます。

まず↓は茨城県那珂市瓜連、瓜連城址の史跡内にある「源太郎稲荷」。

全国各地に見られる典型的な稲荷の小祠といった感じですが、説明板にはこの小祠にまつわる非常に面白い伝説が記されています。↓の画像

この伝説ではまさに人間のために活躍したキツネそのものが守り神として祀られている形を取っています。

しかもこの説明にあるようにこの稲荷神社はかつての瓜連城の鬼門に位置しており、まさに城の守護神的な立ち位置とも言えます。↓は現地にあった瓜連城についての説明と、現在この地にある常福寺の画像です。

現在東京の国立博物館では浄土宗をテーマにした特別展「法然と極楽浄土」が開催されていますが、この常福寺は説明板にあるように江戸時代には関東の重要な浄土宗寺院として繁栄していました。本特別展でもこのお寺の寺宝が出展されています。

そんな重要な歴史を持つ城址と寺院にある稲荷神社が「キツネを祀った神社」であることは大きな意味を持っているはずです。

そして源太郎稲荷の伝説では源太郎キツネの兄弟分にあたる紋三郎キツネが笠間稲荷神社に祀られていると書かれています。笠間稲荷神社と言えばしばしば「日本三大稲荷神社」に数えられる非常に重要な神社(異論もあり/)

そんな稲荷信仰の歴史において重要な位置づけにある神社がもともと「キツネそのものを神として祀った」面を持ち合わせている。これも稲荷信仰とキツネの関係を知る上で重要な意味を持っていると言えるでしょう。

ちなみにこの紋三郎にちなんだ古典落語などもあります↓

ja.wikipedia.org

こうして見ても「稲荷のキツネは神ではない、単なる神使。でも日本人の多くが間違っている!」という主張が通用するのか?という疑問が出てくるのも当然と言えば当然。

は有名な犬山城の入口に当たる場所にある三光稲荷神社奥の院、のすぐ隣にある「狐女郎神(きじょろうかみ)」の小祠。

この狐女郎神の素性についてはよくわからない面もあるのですが、かつて犬山の城下町に出没していた女性に化けた狐を祀ったもの、という話を聞いたことがあります。これも「キツネを神として祀った」例として挙げて問題ないと思います。

これらはもともとキツネそのものを稲荷の神さまと見る考え/視点が広く共有されていたことを示唆しています。そもそも、稲荷信仰におけるキツネとは「神使」ではなく「眷属」であり、この「眷属とは何か」が稲荷のキツネの正体を知るうえで重要な意味を持ってきます。

眷属とは神さまの使者としての面だけでなく、「権化」「顕現」といった意味を持ち合わせています。つまり、我々の前に姿を現した稲荷のキツネは稲荷の神さまがキツネの姿をとって現れた(顕現した)もの、という見方もあるわけです。

そもそも「眷属」という言葉はこちらの「権化」「顕現」という意味合いのほうがメインだった、とも考えられています。

この「眷属=権化、顕現」の構図を補強する有名な伝説もあります。大阪に伝わる安倍晴明の出生譚としても名高い「葛の葉伝説」です。↓はこの伝説のWikiページ

ja.wikipedia.org

式神を駆使し、神秘的な力を用いた陰陽師として半ば伝説化している安倍晴明はキツネの子どもだったのだ!...というこの伝説の設定からは彼は生まれながらにして神秘的な世界に属しているからこそ神秘的な力を用いることができた、という主張が見て取れます。

しかしそれだけでなく、この「キツネの母親を持った人物」という設定は「この母親のキツネを通して稲荷の神の力・加護を得ている」という意味合いも含まれていると思います。

その根拠となるのがこの伝説の舞台ともされる(異説アリ)大阪府和泉市にある「信太森葛葉稲荷神社」。安倍晴明ブームの影響で近年知名度を高めているようです。

当神社の祭神の中に宇迦御魂神のほか、「若宮葛ノ葉姫」も含まれています。正体がキツネだった安倍晴明の母親も神さまとして祀られているわけですね。

さらに大阪市阿倍野区にある「阿部王子神社」。安倍晴明ゆかりの神社としても名高く、すぐお隣には安倍晴明生誕の地とも伝えられる安倍晴明神社もあります。

この阿倍王子神社の境内に「葛之葉稲荷神社」という末社があります。

主祭神は「葛之葉稲荷大神」。公式サイトではこの神さまは「稲荷大神の名前」であり、さらに「葛之葉姫は安倍晴明大神の母親、霊狐であったと云われる」と書かれています。

この説明からは霊狐の葛之葉は稲荷の神さまがキツネの姿でこの世界に姿を現した(顕現した)うえで、さらに女性に化けた、という状況が想定できます(ちょっとまわりくどい😅)。つまり安倍晴明は稲荷の神さまの血を直接引いている、だからこそ、彼はあれほど神秘的な力を駆使することができたのだ、というわけでしょう。

というわけで、稲荷の神さまはしばしばキツネの姿で現れ、不思議な霊力を発揮することがある。

東北地方のハンターとして近年注目されているマタギの世界では山の神さまを怒らせないよう、狩りを行う際に課せられるさまざまな決まり事やタブーの伝統を受け継いでいますが、その中には山で遭遇する動物(熊や猪?)は山の神が姿を変えて現れたものだ、という考え方もあるそうです。(アイヌにおける熊の扱いにも似ていますね)

このマタギのコンセプトはまさに「眷属」のもともとの意味を現在に伝えるものではないでしょうか。

それが時代の流れとともに「使者」としての面が強くなっていったのでしょう。前回取り上げた、そして今回の秋田の与次郎稲荷神社の由来でもある「キツネのお使い」伝説はその典型的な例なのでしょう。

前回の投稿においてこうした「キツネのお使い」伝説は江戸時代の参勤交代の制度と非常に深い関わりがありそうだ、と書きました。ですから、さらに踏み込んで考えれば「眷属」の意味が「権化」「顕現」から「使者」へと比重が傾いていく背景にはこの江戸時代の参勤交代制度を巡る環境とこの「お使い伝説」が少なからぬ影響を及ぼしている可能性も想定できるかも知れません。もしそうならとても面白いのですが。

キツネが稲荷の神さまの顕現した姿なら、そのキツネが神さまとして祀られるのもごく当然の話。そして「眷属」の言葉が顕現、権化、使者といった意味を持ち合わせている以上、稲荷の神さまの眷属であるキツネそのものを祀る稲荷神社があったとしてもちっともおかしくない。

ちなみに前回の投稿では鎌倉の志一稲荷を取り上げましたが、鎌倉には明らかにキツネを祀るために建てられたと考えられる稲荷神社もあります。↓はその代表格、光明寺の境内にある繁栄稲荷神社。

不思議な薬の種をもたらして鎌倉を疫病の流行から救ったキツネを祀るために建てられた稲荷神社。しかも子どもを助けてくれた母親キツネが恩返しをするわけですから、キツネが個人的な目的/意図で恩恵をもたらしたことになります。そんなキツネを祀った稲荷神社。となるともはや「キツネ=神さまのお使い」「キツネ=神さまが顕現した姿」の面はどちらもほとんどなく、完全に「キツネそのものがこの稲荷神社の神さま」の構図で成り立っている神社と言っても問題ないでしょう。

今回挙げた例だけでも「キツネは単なる神さまのお使い」という意見が成り立たないことが証明できると思います。そもそもキツネそのものを祀った稲荷神社なんてほかにも全国各地にあるわけで、この意見は実情が伴っていないと言っても言い過ぎではないように思えます。

現代人の我々の多くが今でもなおキツネを稲荷の神さまだと思い、キツネを恐れ、稲荷神社に参拝する時にはキツネにお供え物(あぶらあげ)を捧げ、しばしばキツネにお祈りを捧げる。これは我々がまだ稲荷信仰が本来持ち合わせていた複雑さ、多様さ、そして豊かさを忘れていない証拠なのでしょう。

ネット上の「日本人の多くが間違っている」という意見では「約7割くらいがキツネを稲荷の神さまだと思っている」といった統計()も見られますが、これだけ伝統的な習慣・信仰が失われてしまった現代においてもなお、7割の人が稲荷信仰の本質を失っていないことを示しています。これはじつに素晴らしいことである、とわたしは言いたい。

おそらく「キツネは稲荷の神さまではありません。でも日本人の多くは間違っています」と主張している人は現代の日本人は信仰心が薄れて稲荷信仰の正しい姿が理解できなくなっている、といった意味合いをこめている面があると思われます。ところがどっこい、逆であります。主張している人たちの方が理解できなくなっている、と言いたい。

こうした意見は「眷属」という言葉に込められた意味や稲荷信仰が本来持つ多様さ、豊かさを忘れかけているからこそ出てくるのでしょう。

なお、今回は秋田城址、瓜連城址、そして現存する犬山城にある稲荷神社を紹介しました。さらに前回の投稿では小浜城址、米沢城址にある稲荷神社を紹介しました。

これらを見ても江戸時代(瓜連城址南北朝時代だけど)の城内と城下町はさぞかしキツネ(霊狐)たちで賑やかな状況にあったのでしょう!

明治になってほとんどの城郭が破却され、稲荷信仰も従来の形を大きく損なわれてしまいました。だからこそ、せめて我々の心の中で、かつての賑やかで、多様で、豊かだった稲荷信仰の伝統を残していきたいものです。

「キツネが稲荷の神さまだというのは間違っている」という主張はそんな我々の心のなかで受け継がれてきた概念を抹消する行為にもなりかねない。

と、ちょっとエラそうに警鐘を鳴らしつつ、この投稿を締めくくりたいと思います。

 

 

 

 

走れイナリ!~稲荷信仰と参勤交代との意外なカンケイ

日本最大勢力の神社といってもおそらく過言ではない稲荷神社。その歴史は少なくとも奈良時代以前にまで遡ることができると言われていますが、現在のような全国各地に無数の神社や祠が建てられ、信仰されるようになったのは江戸時代に入ってからと考えられています。

その理由として挙げられるのが徳川家康がライバルを倒すための呪力を手に入れるためにダキニ天(荼枳尼天)を信仰していたため...とも言われています。この点に関しては以前に投稿したことがあります。

ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

そして見事天下統一を果たした家康はその加護への感謝の意図を込めて稲荷信仰の浸透を図った...とも言われています。

そしてもうひとつは江戸時代の参勤交代制度の存在。江戸において将軍さまのお墨付きのような形で広まっていた稲荷信仰を、参勤交代で江戸に来ていた地方の武士たちが受け入れた。彼らはまず自分たちの江戸屋敷に稲荷神社を勧請し、それをさらに地元へと「持って帰る」形で広めていった…

さらに稲荷の持つ個人的な願望(欲望?)を叶えてくれる呪術的な面(まさに家康が頼りにしていた部分)が当時天下泰平の世のもとでの市場経済の浸透と結びついて商売繁盛の神さま(ビジネスは戦争だ!😅)としての面を強く持つようになり、江戸の町を中心に身分を問わず信仰を集めるようになっていった。

参勤交代によって広いエリア、つまり水平方向に広がり、富をはじめとした現世利益への期待によって広い身分、つまり垂直方向に広がっていく。これが稲荷信仰が日本最大勢力の神社となった原動力なのでしょう。

稲荷神社の総本社は京都にある伏見稲荷大社、そして現在の稲荷神社の主祭神はウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)となっていますが、稲荷信仰拡大の「震源地」は江戸、そして信仰拡大の原動力となったのはダキニ天だった、と言うことになります。

そもそも、現代でもなお日本人の深層心理に巣食い続けている「稲荷さまはちょっと怖い」イメージはまさににダキニ天の呪術的な世界観を引きずったものと言えるはず。

そんな江戸の町から参勤交代制度を通して稲荷信仰が全国へ普及していったことをうかがわせる伝説が各地に見られます。今回はそのひとつ、福井県小浜市、旧小浜藩領にある「八助稲荷大明神」をご紹介します。かつて小浜城が建っていた地にある小浜神社の末社として境内に鎮座しています。

は神社の説明。そして...

がこの伝説の説明。文中の「仲間」は「なかま」じゃなくて「ちゅうげん」ですね。

こうした「稲荷のきつね(白狐)がおつかいをする」というパターンはけっこうありまして、おそらくもっとも全国的な知名度が高いのは秋田県山形県の間で伝わる「与次郎稲荷神社(與次󠄁郞稻荷神󠄀社󠄁)」、あとわたくしが把握しているものでは山形県米沢市上杉神社(米沢城址内にある神社)末社福徳稲荷神社、さらに神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮のすぐ向かいにある「志一(しいち)稲荷」などが挙げられます。

全国各地を駆け回る動物と言えば今はクロネコ、しかしかつては白狐だったのだ!

上杉神社の境内にある福徳稲荷神社の霊験記。

ちょっと字が小さくて見づらいので霊験記の部分をアップしたものも↓

こちらは呪術的なダキニ天のカラーがとくに全面に出ていますね。ちなみに上杉謙信の兜の前立ての飾りは飯縄権現です。

こちらは鎌倉の志一稲荷神社の説明板。訴訟のためにはるばる九州から鎌倉に来る...室町時代初期を舞台にした伝説らしいですが、元寇を契機に朝廷が西日本の統治権を失っていった状況がうかがえるのでしょうか。

そしてこれらの伝説のうち鎌倉の志一稲荷を除いたほかはすべてかつて藩主の城郭内にあり(秋田の与次郎稲荷は久保田城址にある)、しかも江戸との往来で白狐が活躍した設定になっています。これは稲荷が江戸から参勤交代の制度を通して各地に広がっていった経緯を示していると想定できるのではないでしょうか?

参勤交代の制度においては単に藩主やその家族が一定期間江戸で暮らすだけでなく、さまざまな理由で江戸と本国の間での連絡が行われていた、そしてその環境が各藩にとって大きな負担になっていた様子もうかがえそうです。白狐がお使いとして活躍する伝説はそんな当時の参勤交代の面倒くささやいろいろと起こったであろうトラブルが反映されているのかも知れません。

そして鎌倉の志一稲荷の話がどこまで時代的に遡ることができるかはわかりませんが、伝説が室町初期に設定していることを考えると参勤交代制度が導入される前にすでに形成されており、稲荷信仰の普及・拡大とともにこの伝説も各地域に合わせて多少改変されつつ広がっていったシチュエーションも想定できそうです。何しろ参勤交代制度は基本的に(江戸からの距離による負担の違いはありますが)どの藩も同じ面倒を強いられたわけですから、同じ伝説が基本的な骨格を変えることなく広がっても不自然ではない。

その時代の社会のシステムや環境が文化、信仰に大きな影響を及ぼす。そしてそのことを伝説や民話から垣間見ることができる。

じつに面白いものですね。

もう少し八助稲荷神社の画像を↓

なかなかにいい感じの顔立ちをしてらっしゃる狐たち

いい感じの小祠

面白い姿をしている木

参勤交代制度は幕府による各藩を統制する強力な手段として機能していた一方、各藩を結びつける役割も担っていました。何しろ全国各地の藩主が定期的に一定期間江戸に住んでいたわけですから。稲荷信仰もそんな「結び目」を通して広まっていったのでしょう。

そして白狐のような霊力を備えていない人間ができるだけスムーズに江戸と本国を往来できるよう、ルート上のインフラが整えられていった。

江戸時代には一般の民衆の間で富士講伊勢参りが流行しましたが、それが可能だったのもこのインフラ環境があってこそでしょう。

おそらく江戸時代とそれ以前との間では日本人の信仰心や信仰の実践において大きなボーダーラインが引かれていると思います(仏教の檀家制度も含めて)。檀家制度によって信仰圏がローカルになった一方で参勤交代によってグローバルになった面もある。

そしてもうひとつ大きな信仰史のボーダーラインとも言えるのがご存知明治時代の廃仏毀釈。これによって残念ながら日本の信仰は取り返しのつかないダメージを被ることに。

かたや整備、かたや破壊。

近世と近代の落差に切なくなってきます。

小浜神社の境内にはかつての小浜城の痕跡も見られます。↓は本丸跡。

さらに他にも建築時の人柱伝説を伝えるお地蔵さまや小浜地方の代名詞ともいえる八百比丘尼伝説ゆかりの石など面白い見どころがありますが、もうひとつ。

かつては北陸を代表する巨樹&ご神木であったものの、残念ながら2003年に枯死してしまった「小浜神社の9本ダモ(タブノキ)」が生えていました。現在では八助稲荷大明神のすぐ目の前に株だけが残っています。

これが現在の姿。

そのため、現在の小浜神社は城郭と巨樹両方の史跡となっている状況です。

その九本ダモを見ながら元気だった頃の姿を見たかった😥...としみじみ思ったりもしました。

さらにさらにもうひとつ、この小浜神社の祭神はかつての小浜の初代藩主、酒井忠勝(1587-1662)

そして山形県鶴岡市の鶴ケ岡城址(かつての出羽庄内藩の城)にある荘内神社の祭神のひとり(一柱)は出羽庄内藩の初代藩主、酒井忠勝(1594-1647)

同時代に生きた、同名異人。

徳川四天王の一角、酒井忠次の子孫が出羽庄内藩のほう。

観光スポットとして有名な埼玉県川越市川越藩の藩主でもあった酒井家の一族が小浜藩主のほう。

おそらく日本でもっとも紛らわしい神さまでしょう😅。

信仰に関しては歴史の過程で似たような立ち位置・ご利益の神仏がやがて同一視されるようになる、というケースがしばしば見られます。なのでこの二人の酒井忠勝もいずれごちゃごちゃになったうえで同一視されるようになるのかもしれません…

...ってもうなってる?

 

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Unmasked ~化粧の正体 若狭・丹後の化粧地蔵を追ってみた!

神さま/仏さまの像に色を塗りたくる(化粧をする)習慣が各地に見られます。有名なのでは青森・津軽地方の化粧地蔵と九州南部の田の神さぁ(田の神さま)がまず挙げられると思いますが、前者のルーツは京都の化粧地蔵だと言われており、現在でも京都の中心部においても路傍に白く化粧を施したお地蔵さまを祀った祠を見ることができます。

この京都の北部、旧丹後国やお隣福井の若狭国では京都中心部よりもさらにこの習慣が根強く残っているようで、先日わたくしが訪れた時にはあちこちで印象深いステキな像と出会うことができました。そこでこの化粧が施された仏像(以後化粧地蔵で統一)について書いてみることにしました。

の画像は八百比丘尼伝説でよく知られた福井県小浜市で見かけて撮影したものです。小浜市ではとくに化粧地蔵にまつわる行事・習慣(地蔵盆)がよく残されているようです。

とくにインパクトがあったのが↓の化粧地蔵群。八百比丘尼の住んでいた地と伝われる八百姫神社のほど近く。

カルフルなだけでなくハッピーな雰囲気を備えているのがこの地域の化粧地蔵の魅力だと思います。(それに比べて青森の化粧地蔵は少し深刻な印象)

一見して「?」な祠。近寄ってみると…

首だけ!

首だけのお地蔵さまの祠は向かって左側にあるものです。

↑こちらは八百比丘尼終焉の地として名高い入定洞がある空印寺の入口すぐ脇にあった小祠。

はこの地域の路傍で見つけたステキな化粧地蔵群。「ちょっと失礼します」と挨拶したうえで格子越しに祠の内部を撮影。

東大寺二月堂の「お水取り」の儀式とも浅からぬ縁がある若狭姫神社の向かい側にあったもの。ちょっと控えめ?

当地のお盆シーズンには地蔵盆という風習が行われており、毎年この時期になると子どもたちが化粧が施された仏像を持ち出して海水で洗ってその化粧を落としたうえであらたに彩色を施すのだそうです。

興味のある方は小浜市のホームページをご参照ください 

 www1.city.obama.fukui.jp

今回投稿した化粧地蔵もみな褪色や色が剥がれ落ちた様子もなくきれいな色をしているので、おそらく毎年塗り直されているのでしょう。

さらにかつては子どもたちが地蔵像を持って念仏を唱えながらあちこちの家を回ってお小遣いをもらって歩く...なんて習慣もあったとのことです。

この子どもたちが家々を回ってお小遣いをもらうスタイルは折口信夫が「さへの神勧進」と読んだ風習、さらに↓のような現在では民俗文化財にも指定されている「塞の神まつり」と共通したコンセプトをうかがわせます。

ja.wikipedia.org

まさに「日本版ハロウィン」とも言うべき面白い風習ですが、とくに↑の塞の神まつりでは祝儀が少ない家に対して災難を持ち込むとされる木偶人形が投げ込まれるというのですから、まさに「Trick or Treat」の世界。もっと過激で「Threat or Treat」か?🤣

もともと道祖神と地蔵は同じ役割を担うことが多く、しばしば習合していることからも小浜の地蔵盆とこれらの塞の神まつりが根っこの部分では同じコンセプトを持っていると見て問題ないのでしょう。

折口信夫の「さへの神勧進」という名称はまさにこの伝統が勧進行為を兼ねていたことを示しています。つまり子どもたちがその土地の信仰を維持するために必要な資金(祠や仏像の維持・修復など)を確保するために家々を回ってお金などを集めてまわる、そしてそのお駄賃としてお菓子なりお小遣いをもらう、というのがもともとの形なのでしょう。

折口信夫は随筆「石の信仰とさえの神と」において(青空文庫で読めます)この手の勧進行為をなぜ子どもが担当するのかについて生殖器信仰を挙げつつずいぶんと難しい意見を並べています。

しかしそんなに難しく考えなくてもしばしば道祖神と習合するお地蔵さまが子どもの守護神としての面を持っているとか、子どもはまだ半分神さま・仏さまの世界に属している(つまり道祖神のように2つの世界の境界線上にいる)といった基本的な概念でも十分説明できるように思えます。

いずれにせよ、この地蔵盆/さへの神勧進のシステムは現在のハロウィンよりもずっと合理的ですよね?子どもにとって楽しいイベントであるだけでなく共同体を維持するための取り組みにもなっている。

そして先述した「塞の神まつり」の「用意した祝儀が少なくて木偶人形を投げ込まれた家では災難が起こる」というコンセプトには塞の神のもともとの役割がよく現れているように思えます。

もともと塞の神(道祖神)とはある地域の境界に置かれたうえで外の世界からやってくる災いやケガレといったものが内部の世界に入りこむのを防ぐ役割を担っている神さま。それゆえにケガレや災いと接することになるため、道祖神そのものがケガレを負ってしまう面もある。

道祖神八百万の神さまの中ではあまり地位が高くないとされているのもおそらくそれが理由です。

この「ケガレを追い払う者は自身がケガレを負うことになる」という構図については、先日平安時代におけるケガレの概念をめぐる朝廷と武士の関係をメインに大江山酒呑童子伝説と絡めつつ書いてみたことがありました。

の投稿。ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

この「武士が朝廷に災いやケガレが舞い込んでくるのをその破邪/辟邪の武力でもって防ぐ。でもそのために武士はケガレを負うことになる」という図式と、

道祖神の「地域に災いやケガレが入り込んでくるのを防ぐ役割を担っているために身分の低い神とみなされる」という図式との間には共通点が見られます。

つまり、もともと武士には道祖神のような役割が求められていたのか?

そうなると、化粧地蔵の「毎年海水で化粧を落として彩色しなおす」という構図は「像/お地蔵さまに付着したケガレを洗い流して浄化したうえでその本来の霊力が十分に発揮されるに相応しいフレッシュな状態に戻す」という考えがおそらく含まれている。さらに洗い落としたケガレを海の向こうへと押し流すというコンセプトも垣間見ることができるでしょう。

そのため、「塞の神まつり」においてまだケガレを払っていない木偶人形は災いをもたらす危険な面を持ち合わせている状態にある、ということなのでしょう。

日本神話ではイザナキが死んだ妻イザナミを連れ戻すために黄泉の国へと出向いたものの、失敗して逃れた後に「ケガレた国へ行ったので禊(みそぎ)をしよう」と水の中で体を洗う(すすぐ)、というとても有名なシーンがあります。このみそぎのときにアマテラスオオミカミスサノオノミコト(ツクヨミノミコト)が生まれることになる。

化粧地蔵の化粧を海水で洗い流すという行為からはこの日本神話のシーン/コンセプトの残響が聞こえてくるようです。

また日本では長い間「島流し」の刑罰が実施されていましたが、これも罪を犯した者(つまりケガレを背負った者)を海の向こうに流すことで正常な状態を回復する、という面も持ち合わせていたと思われます。罪人を流すだけでなく、罪そのものも流す、という構図。

かくして、かつての過剰なくらいケガレを忌避し、清浄な状態を保とうと腐心した京都の朝廷と、現在まで(かろうじて?)受け継がれている一般の人々による伝統・風習とが見事に結びつく。

じつに奥が深い、と感嘆せざるを得ません。そしてこの化粧地蔵はまさしく京都発祥とされるに相応しい、「いかにも京都らしい」内容を備えていると痛感させられます。

この小浜の化粧地蔵にはそんな歴史の醍醐味が宿っているように思えます。

そして、こうした点を踏まえながら化粧地蔵/地蔵盆/塞の神まつりのコンセプトを見ていくと昔の人たちの信仰/風習には非常に優れた合理性が宿っているのがうかがえます。子どもを媒介に共同体を維持するための行事を実施し、災いの種を取り除いて地域全体の無事息災を祈り、さらに子どもたちに楽しい機会を提供する。

舶来モノのハロウィンで大騒ぎをしている場合じゃないぞ!みたいな。

「タイパ」や「コスパ」など合理性を重視する概念が猛威を振るっている一方で本来なら必要なもの、大事なものまで削ぎ落とそうとしている現代人が、昔の人たちよりも合理的などと言えるのでしょうか?

とまあ、疑念もよぎります。(念のために言っておくとわたくしは「昔の日本はよかった」「昭和の頃はよかった」などというタイプの人間では断じてありません。)

以下の画像は若狭国の西隣、丹後の国で撮影したものです。

は景勝の地でおなじみ天橋立の入口に位置する「日本三大文殊」のひとつ、智恩寺にあったものです。

は同じく智恩寺に境内にあった六地蔵のメイクアップバージョン...というか女性バージョン。これはかなりレアではないでしょうか。

舞鶴市細川幽斎の築城でも知られる田辺城址のすぐ近くにあったものです。

どれもこれも味があっていいですねぇ。

そうそう、東京にはお地蔵さまの顔におしろいを塗りたくる「おしろい地蔵」なるものがあります。こちらは化粧地蔵のように「洗い流す/落とす」ためのものではなく、美白や美顔のために「塗りたくる」のをメインのコンセプトとしているようです。

最後に、この記事のタイトルですが、これはアメリカのロックバンド、KISS(派手なメイクをしてプレイすることで有名)のアルバム「Unmasked ~仮面の正体」のパロディ(パクリ?😆)です。

「Unmasked」で「暴露する」「正体をあばく」みたいな意味だそう

すぐに気づいてくださった方、いますか?

もしいらっしゃったらお友達になってください😘。

 

 

里見vs北条の激戦の地にて異形の怪樹と遭遇す

は「賀恵渕のシイ(スダジイ)」。千葉県君津市

関東屈指の秘境線にして全国屈指の不採算路線として知られるJR久留里線のエリアにある巨木です。最寄り駅はそのJR久留里線小櫃駅(おびつ)。

一応八坂神社の境内にあります。「一応」というのは神社そのものがもともとこの樹を祀ることを前提に創建されたと考えられるから。説明板には「樹冠は境内の大半を覆っている」と書かれていますが、この樹木に合わせて境内が確保されている、といった方が適切に思えます。

現地の説明板

なんと言ってもその異形な姿に圧倒されます。写真でも十分にその異形さが伝わるのではないでしょうか?成長をはじめたかなり早い段階で斜め...というか横に傾いてしまい、しかもその姿勢を押し通して成長を続けてきた、みたいな。

パッと見は樹木ではなく動物系、それも化け物/怪物のように見えます。いまにも動き出しそう😲

あちこちに見られるこぶが目のように見えますし、横倒しに傾いて伸びている幹を支えている根が地表に露出しているような部分は手足が体を支えているようにしか見えません。四つん這いの怪物が今にも獲物に飛びかかろうとするように身構えているような。

しかも見る位置によって印象がかなり変わってくるうえに、どの位置から見てもやっぱり異形の姿をしています。

などは中央やや下に見える枝が切られてできた空洞が口に見えてなにやら雄叫びを上げているようにも見えるのですがいかがでしょうか?

はくぼみに入れられていたもの。これは...ぱっと見たところ金精さま(男根の姿で表される)に見えました。この樹の旺盛な生命力にあやかって、かな?

境内の隅っこにある社殿。これからして主役が巨樹なのが一目瞭然って感じ。

↑元禄期の庚申塔

は腕が生えて立ち入りを制限している柵の外に手を伸ばしているようにも見えます。そのすぐ左には切られた枝の切り株が見えますが、10年くらい前まではこれも腕のように伸びていたかなりインパクトがあったようです。

しかも樹勢もまだまだ旺盛、放っておけばさらに枝(手足?)をあちこちに伸ばしそうな印象。じつに頼もしい。

この巨樹のすぐ近くを駅名の由来になっている小櫃川(おびつがわ)が流れています。↓

こちらは上流側を見たもの

こちらは下流

この小櫃川は房総半島の南東部を水源として半島を北西に向かって斜めに横切る形で流れて最終的に東京湾に流れ込んでいます。長さ約88km、千葉県内では利根川についで長い川となっております。

この賀恵渕のシイの木が生えているエリアは戦国時代に里見氏と北条氏との間に激しい争奪戦が繰り広げられており、この川を小櫃を背負った兵士たちが船で頻繁に行き来していたことから「小櫃川」と呼ばれるようになった...との由来が伝わっています。

この巨樹から数キロほど小櫃川を遡ると里見氏と北条氏、さらに真里谷武田氏も絡んだ争奪戦が繰り広げられた久留里城(JRの路線名の由来でもある)がありますから、この地名由来もあながち伝説では片付けられない真実性を備えているように思えます。

のマップもご参照ください

久留里城からさらに上流へとさかのぼると現在では紅葉の名所としても知られる小櫃川を堰き止めて作られたダム湖亀山湖もあります。

JR久留里線そのものが小櫃川に寄り添うように走っている面もあるので「小櫃線」の方がふさわしい気もしますが。インパクトが弱すぎるかな?

里見氏は現代人の視点から見ると圧倒的有利に見える北条氏の攻勢に対してしぶとく抵抗を続けた大名、とのイメージが強いですが、それが可能だったのも東京湾制海権をかなり把握していた「海の大名」の面を持ち合わせていたからと言われています。

過去に何度かネタにしているので「しつこいよ!」とお叱りを受けそうですが、東京湾を挟んだ房総半島西部と三浦半島東部との間には古墳時代から交流・交易が活発に行われていた痕跡が見られます。

その点について少し触れた投稿を書いたことがあります↓ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

なお、小櫃川の由来に関してはヤマトタケルノミコト(ここでも登場!)がらみの伝説によるもの、という説もあります。↓は小櫃川Wikiページ。日本住血吸虫症についての歴史もあったりしてなかなかおもしろいです。

ja.wikipedia.org

そう考えると房総半島を斜めに横切る形で、それも久留里城をはじめとした要衝の近くを経由して東京湾へと流れ込むこの小櫃川は人の交通・物流両面において非常に重要な役割を担っていたことが予想されます。(ヤマトタケル、里見vs北条いずれの地名伝説においても海上交通との関わりがうかがえますし)

この川の河口には弥生時代にはすでに人が生活していた痕跡が見られ(菅生遺跡)、現在の状況を見ても河口のすぐ北側に房総と東京・神奈川を結ぶ「東京湾アクアライン(アクアブリッジ)」が架けられ(通され)、すぐ南には自衛隊の駐屯地がある。さらに対岸には羽田空港も!

↓こんな感じで。

こうした現在の地図からもこの川の重要性がうかがうことができそうです。

となると房総半島の覇権をめぐる里見vs北条の戦いにおいてもこの川(の交通権?)をどちらが制するかが大きな意味を持っていたはず。

...そんなことを考えつつ川辺にたたずんでいると今にも視界の向こうから小櫃を背負った兵たちを乗せた船が姿を現すのではないか(またはそのへんの茂みに伏兵や忍者が潜んでいるんじゃないか/)...なんて妄想も脳裏をよぎるのでありました。

ちなみに説明板では樹齢は不明とありますが、500600年くらいという資料も見られます。となると里見vs北条氏の激しい争奪戦が展開していた頃にはこの巨樹はすでにその体を大きく横に傾けつつ争奪戦の様子を見守りながら異形の姿へと成長を続けていたのでしょう。

なお、この小櫃川、かなりクネクネと蛇行しながら房総半島を横切っています。なので多くの「淵」がある。そしてそれほど川幅があるわけでもない。なのでこの河川名はもともと「小渕川(おぶちがわ)」であって、後になってヤマトタケルノミコトの伝説、あるいは里見vs北条の歴史と結びついて「小櫃川(おびつがわ)」に変わったのかもしれない...という説もちょっと考えてみたい。(「小櫃」の字を見たときに「おびつ」と「こびつ」のどちらをまず思い浮かべますか?)

そしてこの賀恵渕のシイよりもさらに南、上記にリンクを貼った投稿で触れた海蝕洞窟~古墳時代に首長の墓所として使用された痕跡がある~が見られるエリアよりもやや北には三浦半島と房総半島を結ぶ東京湾フェリーも運行されています。

この地域の交通の要衝は少なくとも1700年くらいの間あまり変わっていないのかもしれません。

...と言いたいところなんですが、では交通・物流の動脈として重要な役割を担っていたと見られる小櫃川に沿って運行されている久留里線が全国屈指の不採算路線になってしまっているのか?

自動車社会はこうした形においてもわれわれ現代人と歴史との関係を分断しようとしているのでしょうか。

あと南関東在住の方ならご存知かもしれませんが、このJR久留里線の始点/終点となる駅は「日本三大タヌキ伝説」で名高い證誠寺の狸囃子の舞台でもある木更津駅(木更津は港町でもある)。駅のホームで流れる発車メロディの曲も證誠寺の狸囃子、という筋金入りの「たぬきタウン」となっております。