前回、前々回に続いての大津ネタ。↑は滋賀県大津市の長安寺にある通称「関寺の牛塔」。
京都駅からJR琵琶湖線に乗って10分ほど、大津駅のほど近くにあります(最寄り駅は京阪電鉄の上栄町駅)。「大津事件」の現場を伝える碑からも近いです。オーバーツーリズムがいよいよ破滅的な状況になりつつある(?)京都駅周辺の混雑ぶりとの落差に驚愕すること疑いなしの快適な観光&散策が楽しめるところです。ちと車の交通量が多いけど。
この関寺の牛塔は高さ3メートルを越える堂々たる石造宝塔で↓はその傍らに立つ説明板。かつてこの地には関寺という非常に大きなお寺があり、そこには金色に輝く五丈(約15メートル)もの弥勒菩薩像が安置されていたらしい。この仏像は平安時代には「日本三大仏」に数えられていたというのですから相当なものですねぇ。
この説明板の内容にあるように不思議な霊潭にちなんだもので、その話が「今昔物語集」にも収録されています。その内容は説明板の通りなのですが、仏(迦葉仏)がこの牛に姿を変えてお寺の再建を手伝った。その評判がたちまち都にまで伝わって藤原道長をはじめとした当時の貴族たちがこぞって現地に赴いてそのありがた~いお姿を拝観したのだとか。
そしてお寺の再建を見届けるようにして牛は息絶え、人々はその霊牛をたたえ、供養するために埋葬した地に石造宝塔を建てたという…
長安寺の公式サイトにも説明があるのでこちらもご参照ください。
ただしこの石造宝塔は鎌倉時代の作と考えられています。
↑は長安寺へと続く道。この参道が線路に豪快に断ち切られている光景を見るとわたくしのような関東人は神奈川県の江ノ島電鉄沿線を思い出します(笑)
以前に稲荷信仰に関する投稿をした際に「稲荷のキツネはしばしば稲荷の神の化身(顕現)としてわれわれの前に姿を現す」みたいなことを書いてみました。ご一読いただければ幸いです↓
この関寺をめぐる霊牛譚では仏さまが牛の姿をとって人間の前にあらわれて霊験を示した形をとっています。
このあたり日本の伝統的な神・人間・動物の間の関係性、さらに昔の人々が神仏がどのような形で人間の前に姿をあらわし、その神秘的な力を発揮すると見ていたのかについて垣間見ることができるように思えます。
ちなみに日本霊異記には生きている間に悪行を重ねた者が死後牛に転生して苦しむ、という内容の話が収録されています。
神仏の化身としての面と、前世の悪行の報いとしての面。いずれも神秘的な面を持ち合わせていながらも牛という生き物に対して対照的な見方が存在していたことがうかがえます。
この地、大津といえば、かつての都人にとっての世界の果て、大津(あるいは逢坂の関)よりも東は野蛮な者たちが住む化外の地、なんだかよくわからない得体のしれない「異界」が広がっている「別世界との境界線」としての立ち位置を持っていました。
大津市の観光名所のひとつ、瀬田の唐橋をめぐる藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説などもこの大津の「異界の入口」としての面を象徴するものなのでしょう。また都をめぐって戦いが繰り広げられた際はこの瀬田の唐橋が都を守る側にとっての重要な防衛線にもなっていました。
このかつて存在していた大寺、関寺についてはここを舞台にした「関寺小町」というあの小野小町を主人公にした能楽作品もあります。↓は銕仙会の公式サイトにある関寺小町の紹介ページ。
なんでも小野小町が100歳を越えた時期の話らしい。かつての若さ、美しさを失い、京の都から離れてこの大津の地で暮らしていた小野小町がつかの間若い頃の記憶を蘇らせつつもそれによってかえって自らの老いの身と世の無常に悲しみを覚える...みたいな内容。
そしてこのかつて逢坂山の関があった地域は蝉丸伝説が伝わっており、この謎めいた人物とゆかりの深い「蝉丸神社」が3社あります。長安寺はそのうちのひとつ、蝉丸神社下社のすぐ近く。
↓は先日の投稿でも載せましたが、その蝉丸神社下社前にあったステキな滋賀名物「とび太くん」の蝉丸バージョン。
「日本異界巡り」「日本魔界探訪」といった日本の歴史的ディープスポットを題材にしたテーマでは必ずと言っていいほど取り上げられる蝉丸神社。いずれネタにできたらな、と思っております。なのでここではとび太くんだけ(笑)
百人一首や能楽作品でも知られるこの蝉丸。百人一首に選ばれた歌は↓
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
この歌の内容からしてもこのエリアが2つの世界の境界に位置していた様子がうかがえます。
そしてこの蝉丸は実在の人物かどうかも定かではないのですが、伝承では醍醐天皇の子供で、盲目ゆえに宮廷から追放されてこの逢坂の地に居を定めた、となっています。
異形のムカデの怪物
老いて容色が衰え都にいられなくなった美女
盲目ゆえに京の宮廷社会から排除された皇子
いずれも「異形性」を備え、世の「普通」になじめずに弾き出されざるを(あるいは退治されざるを)得なかったという共通した境遇を抱えています。
「普通の世界」と異界の境界にはこうした存在が集まりやすい(つまりそうした伝説が生まれやすい)環境なり、世間から持たれていたイメージなりがあったのでしょう。
そう考えるとこの関寺の牛塔に見られる「仏が牛の姿で人々の前に顕現する」という構図もこのエリアらしい「異形性」を備えているようにも感じられます。
なお、福島県と茨城県の境界の福島側にはかつて東北(蝦夷の地)との境界のひとつとされた「勿来(なこそ)の関」がありますが、その一歩手前、茨城(関東)側にある港の名前も「大津港」です。
現在大河ドラマの影響で「源氏物語」が少し話題になっていますが、この物語の中で主人公の光源氏が宮廷内の政争に巻き込まれる形で都落ちする場面があります。その行き先は旧摂津国、現兵庫県の須磨の地。その東には平安末期に源頼政によって退治された化け物「鵺」の死体が漂着したと伝わる芦屋市なんかもあります。
おそらく平安時代の都人たちの感覚では東が大津、西が須磨あたりまでが「自分たちの世界」の範囲だったのではないでしょうか。光源氏は西の「世界の果て」へと落ちていった形になる。
そして大津の地には藤原秀郷の化け物退治の伝説があり、西の須磨がある摂津国は酒呑童子退治の伝説で有名な源頼光の摂津源氏の重要な拠点でした。
以前に武士にはもともと実際に戦う武力だけでなくモノノケ、悪霊、災いを取り除く「辟邪/破邪の力」が貴族たちから期待されていたと書いたことがあります。↓ご一読いただければ幸いです。
この藤原秀郷、源頼光の「東西の境界」での存在感からはそんな武士の役割が透けて見えてくるような気がします。異界から都へと入り込んでくる「得体の知れない何か」を防ぐ役割でしょうか。
さて、現在大津では大河ドラマに乗じて(笑)「大津は源氏物語が生まれた地」と猛アピールをしています。瀬田の唐橋からもそれほど遠くない石山寺では紫式部が参詣した際に源氏物語の着想を得たとか、この寺で執筆したといった伝承も伝わっています。(その真否についてはここでは問いませんが、現地にあったイラストはちょっとお気に入り↓)
まあ少なくとも石山寺からは琵琶湖は見えないよ!と言いたい(笑)
なぜ紫式部は光源氏の都落ちの先として須磨を選んだのでしょうか?同じ異界との境界であり、実際に訪れたことがある大津ではなく?
そこには須磨がある摂津の地が源氏の拠点だったから、という「源氏つながり」の事情があったのではないか?
そんな推測を立ててみたい誘惑にも駆られます。
話を関寺の牛塔に戻すと、わたしはこの塔を見た時に埼玉県の秩父にあるとある仏像を思い浮かべました。
↑は秩父観音霊場のひとつ、野坂寺にある「十牛観音」。↓はその説明板です。
昭和初期から戦後にかけて荒ぶる力を持った牛が大活躍した。その荒ぶる猛牛ぶりが死後も長く語り継がれて平成の世になってこの像が作られたらしい。
この仏像とそこに込められたコンセプトには「普通の」牛よりもはるかに優れた力を持っていたこの牛に神仏の力、いわゆる神通力が宿っていたのではないか、との思考が見て取れるのではないでしょうか?
これを観音の化身と見たか、あるいは牛を通して仏の神秘の力が人間のもとへともたらされたと見たのかは定かではありませんが、この十牛観音から垣間見られる神・人間・動物の間の関係性に対するビジョンは関寺の牛塔に一脈通じるものを感じます。
関寺の牛塔の伝承は10世紀後半、今昔物語集が編纂されたとされるのが13世紀半ば頃、そして秩父の十牛観音の元になった猛牛が活躍したのは20世紀前半から半ば。その間には800~900年ほどの隔たりがあるわけですが、日本人の間で同じコンセプトが脈々と受け継がれてきた様子がうかがえるのではないでしょうか?
あと関寺の牛にせよ、秩父の猛牛にせよ、去勢の概念がなかなか定着しなかった日本ならではの話でしょうね。人間が去勢した動物が神仏の化身でもある、なんて設定はちょっと考えられないですよね。
現代のわたしたちにとっての「神通力」というと人間離れした能力を持つものが神仏にも通じるような驚くべき力を発揮する、という「人間視点」のイメージが強い、ですよね?
それに対してこれら関寺の霊牛と秩父の猛牛には「神仏の力」が人間なり動物を通してこの世に現れる、「神仏視点」のイメージが見られます。おそらく人間視点の方は修験道(厳しい修行を通して神仏に近づく)の影響が強いと思いますが、長い間この2つの「神通力」のイメージが共存し続けていたのではないでしょうか?
われわれの稲荷信仰におけるキツネに対して抱いているイメージにはこの「神仏視点」の神通力のコンセプトが根強く残っているように思えます。