冬の帰り道は、寒い。
なんてったって、私が住んでいる場所は田舎だ。田舎というのはバスが少ない。待ってるくらいなら歩いて帰った方が早い。
だから、私はよく歩いて帰る。自転車を使っても良いんだけど、いかんせん坂道しかない。ペダルをこぎ出すより、足を踏み出した方が労力が少ない。だから、結果として己の足が頼りになる。
灰色の空が広がる帰り道。もうすぐ家に着く。でもその前に立ちはだかる最後の難関、上り坂を歩いている時。私は向かう先に光るものを見つけた。
冬の弱い太陽の光を受けて、僅かに光る何か。
「…………?」
大抵、その光る何かって、小さな小さなガラス片。砂粒より小さい。よくそんなものが光るなって思うけど、夏とかの強い日差しがある時なんかは、一ミリにも満たない小さな何かが、日の光を反射するのよね。
でも今日は違う。雲間からは弱々しい光しか差さないし、大体今は夏じゃないし、落ちている何かは結構な大きさがある。おまけに、すぐ傍まで来たってのに、それはまだ僅かに光って、存在を主張する。こういうのって光の加減ですぐ光らなくなるはずなのに。
そっとしゃがみ込み、じっくりと観察。薄くて丸に近い扇形。周りの風景をそっくりそのまま映し出している、それは。
「鏡?」
そっと注意深く摘まむ。大きさは、拳大。ホントよーっく見ないと気付けないわこれ。うっすい鏡だ。よく踏まなかったわ私。まぁ遠くから光って自己主張してくれたおかげだけど。
鏡なんだけど、この薄さで商品として成り立つのかしら? ちょっとでも圧力かけたら割れちゃいそう。
なんて思いながら、気付けばそれを持ったまま歩き出している私。
この時から、事態に慣れ始めた私の頭は冷静に状況を推測していた。
もう少し歩くと見える、草がぼうぼうの空き地。私はそこで、あるものを拾った。
それは喋る市松人形で、見た目は女の子だけど中身は男の人で。
どうやら物の怪らしい。
彼(?)に会ってから一度、私は訳の分からない物の怪(のようなもの)に絡まれている。多分それは、彼を拾ったからこそ起こった事態なんだと、思っている。
本人に言ったら『俺のせいか? 俺のせいなのか?』と子犬ばりに目をうるうるさせて(実際人形の時の彼は表情が動かないから良く分からない。声から推測した私の妄想だ)訴えて来そうなので、言わないけど。
普通だったら、周りの風景に同化した薄い鏡なんか、私は気にしない。気付かない。むしろ踏んでから気付くと思う。だから今回のは“気付かされた”気がする。ここで拾わなければ色んなものに巻き込まれないで済むんだけど、悲しいかな、拾っちゃうのが私なんだ。
だってそうじゃないと、今も市松さんといる事に説明が付かないでしょ?
「ただいまー」
手に持った薄い鏡に気をとられたまま家に帰って、階段を上って自分の部屋へ。
途中、お母さんに「手は洗ったの?」とか訊かれた気がするけど、今はそれどころじゃない。
「ただいまー」
自室の扉を開けながら、部屋にいる市松さんに向けて、私は二回目のただいまを言った。
目線は鏡に向いたままだ。これは危険だ。良い子は真似しない。
「おー咲―おかえりー」
気の抜ける声で出迎えてくれたのは、机の上に置かれた市松人形。もとい市松さん。
「ねぇ、これ何だか分かる?」
私は前置きもなしに、市松さんに向けて鏡を突き出した。
「…………」
さっきも言ったけど、人形の時の市松さんは表情が人形のまま動かない。だから、市松さんが何を考えてどこ見てるのか、正直こっちは分からない。
でも。
「すまん。もうちょっと近くで見せてくれないか?」
と言われたので、私は市松さんの置かれた机に近付いて、ずいと目の前にそれを掲げた。
手に持っているのも怪しまれる程、周りと同化する鏡。それを、市松さんの顔にくっつくんじゃないかってくらい、近付ける。
「色んな方向から見せてくれ」
私は市松さんの指示に従って、鏡を持つ手首を色んな方向へしならせる。その間、市松さんはずっと無言で鏡を見ている(多分)。
「うん。もう良い。ありがとう、咲」
言われて、私は鏡を持つ手を下げた。
手を離したら今度こそ見失ってしまいそうなので、机の上に置く事も出来ない。
「分かった?」
私の質問に、市松さんは答えなかった。
しかも。
「咲、今宵の丑三つ時、起こしても良いか?」
と質問される。
明日は休みだ。だから別に問題ない。それでも私は、非常に苦い顔で市松さんを見下ろす。
前回の経験が、確実に尾を引いてる。
「怖いもんだったら、嫌だよ?」
「大丈夫だ」
人形の市松さんは、表情が動かない。その代わり、とても声の表情が豊かだ。
私には、その声が優しい笑みを浮かべて言った風に聞こえ、とりあえず市松さんの言葉を信じる事にした。
「……さき、咲」
そっと肩を揺らされて、瞼がゆっくりと開く。
「なに……いちまつさん……?」
頭はまだ眠ってる。
「ああ、すまん。寝てたかったら、それでも良い」
寝返りを打った私は、暗闇の中に浮かぶ人影を見て目が覚めた。
人の大きさの市松さんがいる。それはつまり、今が丑三つ時だって事。
そういえば、起こして良いかって言われてたわね。そのくせ私が不満げな声を出したら『寝てて良い』とは。市松さんは押しが弱い。
それは置いておいて。
市松さんが人の姿になっているのを見るのは、これで二回目だ。元が女の子の人形なのに中身が男の人なものだから、人の姿になると、両方が混ざって中性的な顔立ちになる。
髪は長いまんまだし、服も振り袖のまま。だから本来は女装って事になるんだけど、違和感はない。むしろ似合う(って言ったら複雑な顔されそう)。
身長は高い。私を優に超えてる。この辺は、男の人って感じ。
私はベッドから起き出して、目を擦りながら市松さんを見上げる。
「何か上に羽織るもの、あるか?」
眠る前。私は市松さんに頼まれ、ベランダに続く雨戸を半分だけ開けておいた。別に今でも良いんだろうけど、雨戸って結構開け閉めで音出すものね。他の人が起きないようにっていう、市松さんなりの配慮なんだろう。
ただ、それと今市松さんに言われた言葉が示す先は、一つしかない。
「怖いのは嫌だよ? ホントにヤだよ?」
上着を着ながら、警戒心丸出しの私。すでに窓を開けてベランダに出ていた市松さんは、振り返って苦笑を浮かべる。
「だから大丈夫だと言うておろうが。今回は俺もいるのだし」
確かに、前回は夢の中で一人だったけど、今回は現実で市松さんも一緒だ。でも、市松さんがどんな力を持った物の怪なのか、私は知らない。
だから、実際どのくらい安全なのか、計る術がない。
「……咲は、俺も怖いか?」
黙っていたら、また捨てられそうな子犬みたいに訊いて来たので、私は首を振ってベランダに出た。部屋の中に冷気が入ると嫌だから、窓は閉める。
寒い。当たり前よね。まだ真冬の、しかも真夜中だもん。思わず上着の前をぎゅっと掴んで肩を縮める。
口から出る息が、真っ白。
「大丈夫か?」
「寒いよ……寒くないの? 市松さん」
「んーこれくらいはなぁ」
そうだった。今は人間の姿だけど、市松さん物の怪だった。
物の怪に人間の常識を説いても仕方ない。
「でも咲が風邪をひくのは困るな」
夜中に寒空の下に出しておいて何を言うか!
「ふあっ」
心の中で不満を言っていたら、市松さんが片腕を回してきた。全くの無防備だった私は、市松さんの腕に半ば抱えられる形で抱き締められる。
市松さん振袖なんだよね。おかげで、足元まで振袖に巻かれて、大分寒さがマシになる。
でも、この状態はマシじゃないよ!
「多分この辺りにいると思うのだ」
私を抱き締めてる事に関して、市松さんは全然気にする素振りも見せず(それはそれで心境としては微妙だ)、あの鏡を空に向けて翳していた。
そこで私は、初めて空を見上げた。金色に輝く月(満月だ)と、銀色に輝く星がとても綺麗。雲は一つもなくて、空気も澄んでる。……まぁ、星が綺麗なのは田舎だからだけど。
「……来るぞ」
と言われても、私には何も見えない。市松さんは何かを目で追ってるみたいで、その目で追ってる先を私も追ってみるけど、やっぱり何も見えない。灯りの消えた家々と、空に散らばる月と星だけ。
空を見上げていた市松さんの頭が、段々と下がっていく。視線も遠くから近くを見る感じで、最終的に、ベランダの柵の方へと落ち着く。
でも、やっぱり何も見えない……。
「お話し中の所、失礼仕る」
カツッという音と共に、聞いた事のない渋声が聞こえて、私はびくりと体を強張らせた。でもやっぱり何も見えない。市松さんを見上げると、確信的にベランダの柵の真ん中辺りを見つめてる。
「いや。近々この界隈の者達に挨拶回りをしなければと思っていた。呼び出してしまったようで悪いが、来てくれて感謝する」
誰と喋ってんの市松さん~。
「いやいや。貴殿がこの辺りに現れる日が来ようとは、再びお目に掛かれる日が来ようとは。この鏡龍、光栄の極み。人の子に向けて目印を落とした甲斐があったというもの」
”かがみりゅう”の言う言葉に、私は驚いた。物の怪の社会情勢なんかよく知らないけど、”かがみりゅう”の言葉通りだと、市松さんって凄い人っぽい。
でも、喋ってる本人が見えない。
「……市松さん、誰と喋ってるの?」
会話の邪魔したら不味いんだろうなって思いながら、私は恐る恐る口を挟む。市松さんは私を見て、”かがみりゅう”の方を見て、思い出したように言った。
「すまないが、ちょっと姿を見えるようにしてくれないか?」
……あれ? もしかして市松さんも見えてないのかな? 物の怪同士、気配とかで探ってたとか?
「これはこれは、気付かずに。失礼仕った」
渋声がしてから起きた事に、私は小さく息を呑んだ。
何て言うんだろう。全身が水晶みたいな、鏡みたいな、ガラスみたいな……。透けているような、周りと同化しているような、言葉だけじゃ形容しがたい。強いて言うなら、周りの風景を映し出すガラス細工みたいな龍(西洋ドラゴン《竜》じゃなくて、体がヘビみたいに長い方ね)が、音もなく私たちの前に姿を現した。鬣もガラス細工みたいで、でもふわっふわの飴細工みたいに輝いてる。
瞳は満月みたいに綺麗な金色。見ているだけで吸い込まれそうな深みのある色。
これは綺麗だわ。市松さんの言う通り、(見た目は)怖くない。
「普段から意識しておりませんで、言われないと己がどこに居るかすら定かではないのです。どうぞご容赦を」
「いや、こちらこそ無理を言ってすまない。だが折角来てくれたのだ。咲にもその姿、見せたくてな」
鏡龍(意味合い的にこれで合ってるよね?)と話す時は、市松さんの口調がちょっと硬い。まぁそうか。何か相手も偉い感じの物の怪っぽいもんね。
「左様で。時に――まつ殿。久方ぶりに、この老いぼれに現を報せてはくれませぬか」
「ああ、俺で良ければ。咲が一緒でも構わぬか?」
「勿論に御座ります」
話についていけないんだけど。もしかして鏡龍さん、今市松さんの事なんか名前で呼ばなかった? 名前あったの? 聞いた事ないよ? でもそれについて訊く暇もないまま、市松さんは身軽にベランダの柵に乗って、そこから私に向けて手を伸ばしていて。
「……え?」
一体何をするつもりなのか訊こうと思った頃には、私は市松さんに腕を引かれ、鏡龍さんの長い体に腰掛けていた。後ろには市松さんが座っていて、片腕で私の体を、もう片腕で鏡龍さんの体を抱えている。
「いち、まつ、さん?」
「大丈夫。少し飛ぶだけだ」
全然平気じゃないよ 私の中で“嫌な予感ゲージ”が針を振り切ったよ!
抗議する暇は貰えなかった。でもこんな夜中に大声で叫び散らす訳にもいかず、私の体はあっという間に空へと舞い上がっていく。
エレベーターって、上がる時自分の体が圧縮されていくような感覚があるじゃない? あれの強化版みたいなのが一気に体に押し寄せて、ある一点を境にふわって、全部が解放されたような感覚に襲われる。
気が付けばベランダは遥か下で、私たちは瑠璃色の空の中を飛んでいた。
月と星の灯りがあるから、真っ暗じゃないんだ。しかもその空の色が、鏡龍の鱗に絶妙に映って凄く綺麗。そういえばこの鱗、どこかで見覚えが……と思って、私は気付いた。
鏡龍が私に向けて落とした“目印”って、鏡じゃなくて自分の鱗だったんだ。市松さんは、それを使って自分の居場所を教えてたって訳ね。
眼下には灯りがちらほら。田舎だから、道路にある街灯とか、自販機の灯り以外に光はない。でも、視線を上げて遠くを見ると、都会方面はこんな時間でも随分明るい。
きっと、向こうではこっちみたいに星が見えないんだろうなぁ……。
「綺麗だろう?」
背後から市松さんの声が聞こえて、私は黙ったまま頷く。まだ何となく私がビビってるのが分かるのか、市松さんは体に回した腕に力を込めた。
すうっと、私が座っている鏡龍さんの体が透けて……ううん、周りの背景に溶け込んでいく。……消えてるんじゃないよね? 落ちないわよね?
と思ってたら、市松さんが鏡龍の体をトントンと叩いた。
すうっと、鏡龍が姿を現していく。瑠璃色の体が、月の光と星の灯りと、周りの空気の色を吸い込んで淡く輝いている。
「落ちはしないから大丈夫だ」
そう言って、ぎゅっと抱き締めてくれる市松さん。おかげで、鏡龍は結構な速さで飛んでいるから風が冷たいはずなんだけど、全然分からない。
鏡龍が消えそうになるたびに、市松さんがその体を叩く。何度かそれを繰り返しながら近場をぐるりと飛んで、私たちは再び、家のベランダまで戻っていった。
「では、失礼仕ります」
鏡龍は、市松さんにお礼を言って、音もなく消えて行った。市松さんが視線で追う先を私も追って、鏡龍を見送る。
「怖くなかったろ?」
未だふわふわする体で自室に戻って、窓を閉めてカーテンを引く。ふらふらしながらベッドに座った私は、机に寄り掛かるようにして立つ市松さんの言葉に、こくんと頷いた。
「鏡龍は、周りに溶け込みながら飛び回ってるから、たまに自分が夢にいるのか、現にいるのか、此の世にいるのか、彼の世にいるのか、分からなくなるんだそうだ。だから、誰かを背に乗せて飛んで、自分がどこに居るのか確認したいらしい」
「そうなんだ……」
私はそれしか答えられなかった。生身で空を飛んだ衝撃と感動(ついでにその間ずっと市松さんに抱き締められていた動揺)が、未だ冷めやらずにぼーっとしてる。
「大丈夫か? 咲。外は寒かったからな。温かくして休むのだぞ」
夜中に起こしてきた人(あ、物の怪か)の台詞じゃないと思うんだけど。市松さんがいつもの“捨てられそうな子犬顔”で心配して来るから、私はのそのそと外出用の上着を脱いで、毛布の中に潜り込む。
そう言えば市松さんに訊きたい事があった気もするんだけど、質問する力が残ってない。
「付き合わせて悪かった。でもありがとうな、咲。おやすみ」
「おやすみなさい……」
市松さんに頭を撫でられて、私はあっという間に眠りの世界へと引き込まれて行った。
終。
「付物神と藤の花」目次へ
なんてったって、私が住んでいる場所は田舎だ。田舎というのはバスが少ない。待ってるくらいなら歩いて帰った方が早い。
だから、私はよく歩いて帰る。自転車を使っても良いんだけど、いかんせん坂道しかない。ペダルをこぎ出すより、足を踏み出した方が労力が少ない。だから、結果として己の足が頼りになる。
灰色の空が広がる帰り道。もうすぐ家に着く。でもその前に立ちはだかる最後の難関、上り坂を歩いている時。私は向かう先に光るものを見つけた。
冬の弱い太陽の光を受けて、僅かに光る何か。
「…………?」
大抵、その光る何かって、小さな小さなガラス片。砂粒より小さい。よくそんなものが光るなって思うけど、夏とかの強い日差しがある時なんかは、一ミリにも満たない小さな何かが、日の光を反射するのよね。
でも今日は違う。雲間からは弱々しい光しか差さないし、大体今は夏じゃないし、落ちている何かは結構な大きさがある。おまけに、すぐ傍まで来たってのに、それはまだ僅かに光って、存在を主張する。こういうのって光の加減ですぐ光らなくなるはずなのに。
そっとしゃがみ込み、じっくりと観察。薄くて丸に近い扇形。周りの風景をそっくりそのまま映し出している、それは。
「鏡?」
そっと注意深く摘まむ。大きさは、拳大。ホントよーっく見ないと気付けないわこれ。うっすい鏡だ。よく踏まなかったわ私。まぁ遠くから光って自己主張してくれたおかげだけど。
鏡なんだけど、この薄さで商品として成り立つのかしら? ちょっとでも圧力かけたら割れちゃいそう。
なんて思いながら、気付けばそれを持ったまま歩き出している私。
この時から、事態に慣れ始めた私の頭は冷静に状況を推測していた。
もう少し歩くと見える、草がぼうぼうの空き地。私はそこで、あるものを拾った。
それは喋る市松人形で、見た目は女の子だけど中身は男の人で。
どうやら物の怪らしい。
彼(?)に会ってから一度、私は訳の分からない物の怪(のようなもの)に絡まれている。多分それは、彼を拾ったからこそ起こった事態なんだと、思っている。
本人に言ったら『俺のせいか? 俺のせいなのか?』と子犬ばりに目をうるうるさせて(実際人形の時の彼は表情が動かないから良く分からない。声から推測した私の妄想だ)訴えて来そうなので、言わないけど。
普通だったら、周りの風景に同化した薄い鏡なんか、私は気にしない。気付かない。むしろ踏んでから気付くと思う。だから今回のは“気付かされた”気がする。ここで拾わなければ色んなものに巻き込まれないで済むんだけど、悲しいかな、拾っちゃうのが私なんだ。
だってそうじゃないと、今も市松さんといる事に説明が付かないでしょ?
「ただいまー」
手に持った薄い鏡に気をとられたまま家に帰って、階段を上って自分の部屋へ。
途中、お母さんに「手は洗ったの?」とか訊かれた気がするけど、今はそれどころじゃない。
「ただいまー」
自室の扉を開けながら、部屋にいる市松さんに向けて、私は二回目のただいまを言った。
目線は鏡に向いたままだ。これは危険だ。良い子は真似しない。
「おー咲―おかえりー」
気の抜ける声で出迎えてくれたのは、机の上に置かれた市松人形。もとい市松さん。
「ねぇ、これ何だか分かる?」
私は前置きもなしに、市松さんに向けて鏡を突き出した。
「…………」
さっきも言ったけど、人形の時の市松さんは表情が人形のまま動かない。だから、市松さんが何を考えてどこ見てるのか、正直こっちは分からない。
でも。
「すまん。もうちょっと近くで見せてくれないか?」
と言われたので、私は市松さんの置かれた机に近付いて、ずいと目の前にそれを掲げた。
手に持っているのも怪しまれる程、周りと同化する鏡。それを、市松さんの顔にくっつくんじゃないかってくらい、近付ける。
「色んな方向から見せてくれ」
私は市松さんの指示に従って、鏡を持つ手首を色んな方向へしならせる。その間、市松さんはずっと無言で鏡を見ている(多分)。
「うん。もう良い。ありがとう、咲」
言われて、私は鏡を持つ手を下げた。
手を離したら今度こそ見失ってしまいそうなので、机の上に置く事も出来ない。
「分かった?」
私の質問に、市松さんは答えなかった。
しかも。
「咲、今宵の丑三つ時、起こしても良いか?」
と質問される。
明日は休みだ。だから別に問題ない。それでも私は、非常に苦い顔で市松さんを見下ろす。
前回の経験が、確実に尾を引いてる。
「怖いもんだったら、嫌だよ?」
「大丈夫だ」
人形の市松さんは、表情が動かない。その代わり、とても声の表情が豊かだ。
私には、その声が優しい笑みを浮かべて言った風に聞こえ、とりあえず市松さんの言葉を信じる事にした。
「……さき、咲」
そっと肩を揺らされて、瞼がゆっくりと開く。
「なに……いちまつさん……?」
頭はまだ眠ってる。
「ああ、すまん。寝てたかったら、それでも良い」
寝返りを打った私は、暗闇の中に浮かぶ人影を見て目が覚めた。
人の大きさの市松さんがいる。それはつまり、今が丑三つ時だって事。
そういえば、起こして良いかって言われてたわね。そのくせ私が不満げな声を出したら『寝てて良い』とは。市松さんは押しが弱い。
それは置いておいて。
市松さんが人の姿になっているのを見るのは、これで二回目だ。元が女の子の人形なのに中身が男の人なものだから、人の姿になると、両方が混ざって中性的な顔立ちになる。
髪は長いまんまだし、服も振り袖のまま。だから本来は女装って事になるんだけど、違和感はない。むしろ似合う(って言ったら複雑な顔されそう)。
身長は高い。私を優に超えてる。この辺は、男の人って感じ。
私はベッドから起き出して、目を擦りながら市松さんを見上げる。
「何か上に羽織るもの、あるか?」
眠る前。私は市松さんに頼まれ、ベランダに続く雨戸を半分だけ開けておいた。別に今でも良いんだろうけど、雨戸って結構開け閉めで音出すものね。他の人が起きないようにっていう、市松さんなりの配慮なんだろう。
ただ、それと今市松さんに言われた言葉が示す先は、一つしかない。
「怖いのは嫌だよ? ホントにヤだよ?」
上着を着ながら、警戒心丸出しの私。すでに窓を開けてベランダに出ていた市松さんは、振り返って苦笑を浮かべる。
「だから大丈夫だと言うておろうが。今回は俺もいるのだし」
確かに、前回は夢の中で一人だったけど、今回は現実で市松さんも一緒だ。でも、市松さんがどんな力を持った物の怪なのか、私は知らない。
だから、実際どのくらい安全なのか、計る術がない。
「……咲は、俺も怖いか?」
黙っていたら、また捨てられそうな子犬みたいに訊いて来たので、私は首を振ってベランダに出た。部屋の中に冷気が入ると嫌だから、窓は閉める。
寒い。当たり前よね。まだ真冬の、しかも真夜中だもん。思わず上着の前をぎゅっと掴んで肩を縮める。
口から出る息が、真っ白。
「大丈夫か?」
「寒いよ……寒くないの? 市松さん」
「んーこれくらいはなぁ」
そうだった。今は人間の姿だけど、市松さん物の怪だった。
物の怪に人間の常識を説いても仕方ない。
「でも咲が風邪をひくのは困るな」
夜中に寒空の下に出しておいて何を言うか!
「ふあっ」
心の中で不満を言っていたら、市松さんが片腕を回してきた。全くの無防備だった私は、市松さんの腕に半ば抱えられる形で抱き締められる。
市松さん振袖なんだよね。おかげで、足元まで振袖に巻かれて、大分寒さがマシになる。
でも、この状態はマシじゃないよ!
「多分この辺りにいると思うのだ」
私を抱き締めてる事に関して、市松さんは全然気にする素振りも見せず(それはそれで心境としては微妙だ)、あの鏡を空に向けて翳していた。
そこで私は、初めて空を見上げた。金色に輝く月(満月だ)と、銀色に輝く星がとても綺麗。雲は一つもなくて、空気も澄んでる。……まぁ、星が綺麗なのは田舎だからだけど。
「……来るぞ」
と言われても、私には何も見えない。市松さんは何かを目で追ってるみたいで、その目で追ってる先を私も追ってみるけど、やっぱり何も見えない。灯りの消えた家々と、空に散らばる月と星だけ。
空を見上げていた市松さんの頭が、段々と下がっていく。視線も遠くから近くを見る感じで、最終的に、ベランダの柵の方へと落ち着く。
でも、やっぱり何も見えない……。
「お話し中の所、失礼仕る」
カツッという音と共に、聞いた事のない渋声が聞こえて、私はびくりと体を強張らせた。でもやっぱり何も見えない。市松さんを見上げると、確信的にベランダの柵の真ん中辺りを見つめてる。
「いや。近々この界隈の者達に挨拶回りをしなければと思っていた。呼び出してしまったようで悪いが、来てくれて感謝する」
誰と喋ってんの市松さん~。
「いやいや。貴殿がこの辺りに現れる日が来ようとは、再びお目に掛かれる日が来ようとは。この鏡龍、光栄の極み。人の子に向けて目印を落とした甲斐があったというもの」
”かがみりゅう”の言う言葉に、私は驚いた。物の怪の社会情勢なんかよく知らないけど、”かがみりゅう”の言葉通りだと、市松さんって凄い人っぽい。
でも、喋ってる本人が見えない。
「……市松さん、誰と喋ってるの?」
会話の邪魔したら不味いんだろうなって思いながら、私は恐る恐る口を挟む。市松さんは私を見て、”かがみりゅう”の方を見て、思い出したように言った。
「すまないが、ちょっと姿を見えるようにしてくれないか?」
……あれ? もしかして市松さんも見えてないのかな? 物の怪同士、気配とかで探ってたとか?
「これはこれは、気付かずに。失礼仕った」
渋声がしてから起きた事に、私は小さく息を呑んだ。
何て言うんだろう。全身が水晶みたいな、鏡みたいな、ガラスみたいな……。透けているような、周りと同化しているような、言葉だけじゃ形容しがたい。強いて言うなら、周りの風景を映し出すガラス細工みたいな龍(西洋ドラゴン《竜》じゃなくて、体がヘビみたいに長い方ね)が、音もなく私たちの前に姿を現した。鬣もガラス細工みたいで、でもふわっふわの飴細工みたいに輝いてる。
瞳は満月みたいに綺麗な金色。見ているだけで吸い込まれそうな深みのある色。
これは綺麗だわ。市松さんの言う通り、(見た目は)怖くない。
「普段から意識しておりませんで、言われないと己がどこに居るかすら定かではないのです。どうぞご容赦を」
「いや、こちらこそ無理を言ってすまない。だが折角来てくれたのだ。咲にもその姿、見せたくてな」
鏡龍(意味合い的にこれで合ってるよね?)と話す時は、市松さんの口調がちょっと硬い。まぁそうか。何か相手も偉い感じの物の怪っぽいもんね。
「左様で。時に――まつ殿。久方ぶりに、この老いぼれに現を報せてはくれませぬか」
「ああ、俺で良ければ。咲が一緒でも構わぬか?」
「勿論に御座ります」
話についていけないんだけど。もしかして鏡龍さん、今市松さんの事なんか名前で呼ばなかった? 名前あったの? 聞いた事ないよ? でもそれについて訊く暇もないまま、市松さんは身軽にベランダの柵に乗って、そこから私に向けて手を伸ばしていて。
「……え?」
一体何をするつもりなのか訊こうと思った頃には、私は市松さんに腕を引かれ、鏡龍さんの長い体に腰掛けていた。後ろには市松さんが座っていて、片腕で私の体を、もう片腕で鏡龍さんの体を抱えている。
「いち、まつ、さん?」
「大丈夫。少し飛ぶだけだ」
全然平気じゃないよ 私の中で“嫌な予感ゲージ”が針を振り切ったよ!
抗議する暇は貰えなかった。でもこんな夜中に大声で叫び散らす訳にもいかず、私の体はあっという間に空へと舞い上がっていく。
エレベーターって、上がる時自分の体が圧縮されていくような感覚があるじゃない? あれの強化版みたいなのが一気に体に押し寄せて、ある一点を境にふわって、全部が解放されたような感覚に襲われる。
気が付けばベランダは遥か下で、私たちは瑠璃色の空の中を飛んでいた。
月と星の灯りがあるから、真っ暗じゃないんだ。しかもその空の色が、鏡龍の鱗に絶妙に映って凄く綺麗。そういえばこの鱗、どこかで見覚えが……と思って、私は気付いた。
鏡龍が私に向けて落とした“目印”って、鏡じゃなくて自分の鱗だったんだ。市松さんは、それを使って自分の居場所を教えてたって訳ね。
眼下には灯りがちらほら。田舎だから、道路にある街灯とか、自販機の灯り以外に光はない。でも、視線を上げて遠くを見ると、都会方面はこんな時間でも随分明るい。
きっと、向こうではこっちみたいに星が見えないんだろうなぁ……。
「綺麗だろう?」
背後から市松さんの声が聞こえて、私は黙ったまま頷く。まだ何となく私がビビってるのが分かるのか、市松さんは体に回した腕に力を込めた。
すうっと、私が座っている鏡龍さんの体が透けて……ううん、周りの背景に溶け込んでいく。……消えてるんじゃないよね? 落ちないわよね?
と思ってたら、市松さんが鏡龍の体をトントンと叩いた。
すうっと、鏡龍が姿を現していく。瑠璃色の体が、月の光と星の灯りと、周りの空気の色を吸い込んで淡く輝いている。
「落ちはしないから大丈夫だ」
そう言って、ぎゅっと抱き締めてくれる市松さん。おかげで、鏡龍は結構な速さで飛んでいるから風が冷たいはずなんだけど、全然分からない。
鏡龍が消えそうになるたびに、市松さんがその体を叩く。何度かそれを繰り返しながら近場をぐるりと飛んで、私たちは再び、家のベランダまで戻っていった。
「では、失礼仕ります」
鏡龍は、市松さんにお礼を言って、音もなく消えて行った。市松さんが視線で追う先を私も追って、鏡龍を見送る。
「怖くなかったろ?」
未だふわふわする体で自室に戻って、窓を閉めてカーテンを引く。ふらふらしながらベッドに座った私は、机に寄り掛かるようにして立つ市松さんの言葉に、こくんと頷いた。
「鏡龍は、周りに溶け込みながら飛び回ってるから、たまに自分が夢にいるのか、現にいるのか、此の世にいるのか、彼の世にいるのか、分からなくなるんだそうだ。だから、誰かを背に乗せて飛んで、自分がどこに居るのか確認したいらしい」
「そうなんだ……」
私はそれしか答えられなかった。生身で空を飛んだ衝撃と感動(ついでにその間ずっと市松さんに抱き締められていた動揺)が、未だ冷めやらずにぼーっとしてる。
「大丈夫か? 咲。外は寒かったからな。温かくして休むのだぞ」
夜中に起こしてきた人(あ、物の怪か)の台詞じゃないと思うんだけど。市松さんがいつもの“捨てられそうな子犬顔”で心配して来るから、私はのそのそと外出用の上着を脱いで、毛布の中に潜り込む。
そう言えば市松さんに訊きたい事があった気もするんだけど、質問する力が残ってない。
「付き合わせて悪かった。でもありがとうな、咲。おやすみ」
「おやすみなさい……」
市松さんに頭を撫でられて、私はあっという間に眠りの世界へと引き込まれて行った。
終。
「付物神と藤の花」目次へ