冬の帰り道は、寒い。

 なんてったって、私が住んでいる場所は田舎だ。田舎というのはバスが少ない。待ってるくらいなら歩いて帰った方が早い。

 だから、私はよく歩いて帰る。自転車を使っても良いんだけど、いかんせん坂道しかない。ペダルをこぎ出すより、足を踏み出した方が労力が少ない。だから、結果として己の足が頼りになる。

 灰色の空が広がる帰り道。もうすぐ家に着く。でもその前に立ちはだかる最後の難関、上り坂を歩いている時。私は向かう先に光るものを見つけた。

 冬の弱い太陽の光を受けて、僅かに光る何か。

「…………?」

 大抵、その光る何かって、小さな小さなガラス片。砂粒より小さい。よくそんなものが光るなって思うけど、夏とかの強い日差しがある時なんかは、一ミリにも満たない小さな何かが、日の光を反射するのよね。

 でも今日は違う。雲間からは弱々しい光しか差さないし、大体今は夏じゃないし、落ちている何かは結構な大きさがある。おまけに、すぐ傍まで来たってのに、それはまだ僅かに光って、存在を主張する。こういうのって光の加減ですぐ光らなくなるはずなのに。

 そっとしゃがみ込み、じっくりと観察。薄くて丸に近い扇形。周りの風景をそっくりそのまま映し出している、それは。

「鏡?」

 そっと注意深く摘まむ。大きさは、拳大。ホントよーっく見ないと気付けないわこれ。うっすい鏡だ。よく踏まなかったわ私。まぁ遠くから光って自己主張してくれたおかげだけど。

 鏡なんだけど、この薄さで商品として成り立つのかしら? ちょっとでも圧力かけたら割れちゃいそう。

 なんて思いながら、気付けばそれを持ったまま歩き出している私。

 この時から、事態に慣れ始めた私の頭は冷静に状況を推測していた。

 もう少し歩くと見える、草がぼうぼうの空き地。私はそこで、あるものを拾った。

 それは喋る市松人形で、見た目は女の子だけど中身は男の人で。

 どうやら物の怪らしい。

 彼(?)に会ってから一度、私は訳の分からない物の怪(のようなもの)に絡まれている。多分それは、彼を拾ったからこそ起こった事態なんだと、思っている。

 本人に言ったら『俺のせいか? 俺のせいなのか?』と子犬ばりに目をうるうるさせて(実際人形の時の彼は表情が動かないから良く分からない。声から推測した私の妄想だ)訴えて来そうなので、言わないけど。

 普通だったら、周りの風景に同化した薄い鏡なんか、私は気にしない。気付かない。むしろ踏んでから気付くと思う。だから今回のは“気付かされた”気がする。ここで拾わなければ色んなものに巻き込まれないで済むんだけど、悲しいかな、拾っちゃうのが私なんだ。

 だってそうじゃないと、今も市松さんといる事に説明が付かないでしょ?



「ただいまー」

 手に持った薄い鏡に気をとられたまま家に帰って、階段を上って自分の部屋へ。

 途中、お母さんに「手は洗ったの?」とか訊かれた気がするけど、今はそれどころじゃない。

「ただいまー」

 自室の扉を開けながら、部屋にいる市松さんに向けて、私は二回目のただいまを言った。

 目線は鏡に向いたままだ。これは危険だ。良い子は真似しない。

「おー咲―おかえりー」

 気の抜ける声で出迎えてくれたのは、机の上に置かれた市松人形。もとい市松さん。

「ねぇ、これ何だか分かる?」

 私は前置きもなしに、市松さんに向けて鏡を突き出した。

「…………」

 さっきも言ったけど、人形の時の市松さんは表情が人形のまま動かない。だから、市松さんが何を考えてどこ見てるのか、正直こっちは分からない。

 でも。

「すまん。もうちょっと近くで見せてくれないか?」

 と言われたので、私は市松さんの置かれた机に近付いて、ずいと目の前にそれを掲げた。

 手に持っているのも怪しまれる程、周りと同化する鏡。それを、市松さんの顔にくっつくんじゃないかってくらい、近付ける。

「色んな方向から見せてくれ」

 私は市松さんの指示に従って、鏡を持つ手首を色んな方向へしならせる。その間、市松さんはずっと無言で鏡を見ている(多分)。

「うん。もう良い。ありがとう、咲」

 言われて、私は鏡を持つ手を下げた。

 手を離したら今度こそ見失ってしまいそうなので、机の上に置く事も出来ない。

「分かった?」

 私の質問に、市松さんは答えなかった。

 しかも。

「咲、今宵の丑三つ時、起こしても良いか?」

 と質問される。

 明日は休みだ。だから別に問題ない。それでも私は、非常に苦い顔で市松さんを見下ろす。

 前回の経験が、確実に尾を引いてる。

「怖いもんだったら、嫌だよ?」

「大丈夫だ」

 人形の市松さんは、表情が動かない。その代わり、とても声の表情が豊かだ。

 私には、その声が優しい笑みを浮かべて言った風に聞こえ、とりあえず市松さんの言葉を信じる事にした。



「……さき、咲」

 そっと肩を揺らされて、瞼がゆっくりと開く。

「なに……いちまつさん……?」

 頭はまだ眠ってる。

「ああ、すまん。寝てたかったら、それでも良い」

 寝返りを打った私は、暗闇の中に浮かぶ人影を見て目が覚めた。

 人の大きさの市松さんがいる。それはつまり、今が丑三つ時だって事。

 そういえば、起こして良いかって言われてたわね。そのくせ私が不満げな声を出したら『寝てて良い』とは。市松さんは押しが弱い。

 それは置いておいて。

 市松さんが人の姿になっているのを見るのは、これで二回目だ。元が女の子の人形なのに中身が男の人なものだから、人の姿になると、両方が混ざって中性的な顔立ちになる。

 髪は長いまんまだし、服も振り袖のまま。だから本来は女装って事になるんだけど、違和感はない。むしろ似合う(って言ったら複雑な顔されそう)。

 身長は高い。私を優に超えてる。この辺は、男の人って感じ。

 私はベッドから起き出して、目を擦りながら市松さんを見上げる。

「何か上に羽織るもの、あるか?」

 眠る前。私は市松さんに頼まれ、ベランダに続く雨戸を半分だけ開けておいた。別に今でも良いんだろうけど、雨戸って結構開け閉めで音出すものね。他の人が起きないようにっていう、市松さんなりの配慮なんだろう。

 ただ、それと今市松さんに言われた言葉が示す先は、一つしかない。

「怖いのは嫌だよ? ホントにヤだよ?」

 上着を着ながら、警戒心丸出しの私。すでに窓を開けてベランダに出ていた市松さんは、振り返って苦笑を浮かべる。

「だから大丈夫だと言うておろうが。今回は俺もいるのだし」

 確かに、前回は夢の中で一人だったけど、今回は現実で市松さんも一緒だ。でも、市松さんがどんな力を持った物の怪なのか、私は知らない。

 だから、実際どのくらい安全なのか、計る術がない。

「……咲は、俺も怖いか?」

 黙っていたら、また捨てられそうな子犬みたいに訊いて来たので、私は首を振ってベランダに出た。部屋の中に冷気が入ると嫌だから、窓は閉める。

 寒い。当たり前よね。まだ真冬の、しかも真夜中だもん。思わず上着の前をぎゅっと掴んで肩を縮める。

 口から出る息が、真っ白。

「大丈夫か?」

「寒いよ……寒くないの? 市松さん」

「んーこれくらいはなぁ」

 そうだった。今は人間の姿だけど、市松さん物の怪だった。

 物の怪に人間の常識を説いても仕方ない。

「でも咲が風邪をひくのは困るな」

 夜中に寒空の下に出しておいて何を言うか!

「ふあっ」

 心の中で不満を言っていたら、市松さんが片腕を回してきた。全くの無防備だった私は、市松さんの腕に半ば抱えられる形で抱き締められる。

 市松さん振袖なんだよね。おかげで、足元まで振袖に巻かれて、大分寒さがマシになる。

 でも、この状態はマシじゃないよ!

「多分この辺りにいると思うのだ」

 私を抱き締めてる事に関して、市松さんは全然気にする素振りも見せず(それはそれで心境としては微妙だ)、あの鏡を空に向けて翳していた。

 そこで私は、初めて空を見上げた。金色に輝く月(満月だ)と、銀色に輝く星がとても綺麗。雲は一つもなくて、空気も澄んでる。……まぁ、星が綺麗なのは田舎だからだけど。

「……来るぞ」

 と言われても、私には何も見えない。市松さんは何かを目で追ってるみたいで、その目で追ってる先を私も追ってみるけど、やっぱり何も見えない。灯りの消えた家々と、空に散らばる月と星だけ。

 空を見上げていた市松さんの頭が、段々と下がっていく。視線も遠くから近くを見る感じで、最終的に、ベランダの柵の方へと落ち着く。

 でも、やっぱり何も見えない……。

「お話し中の所、失礼仕る」

 カツッという音と共に、聞いた事のない渋声が聞こえて、私はびくりと体を強張らせた。でもやっぱり何も見えない。市松さんを見上げると、確信的にベランダの柵の真ん中辺りを見つめてる。

「いや。近々この界隈の者達に挨拶回りをしなければと思っていた。呼び出してしまったようで悪いが、来てくれて感謝する」

 誰と喋ってんの市松さん~。

「いやいや。貴殿がこの辺りに現れる日が来ようとは、再びお目に掛かれる日が来ようとは。この鏡龍、光栄の極み。人の子に向けて目印を落とした甲斐があったというもの」

 ”かがみりゅう”の言う言葉に、私は驚いた。物の怪の社会情勢なんかよく知らないけど、”かがみりゅう”の言葉通りだと、市松さんって凄い人っぽい。

 でも、喋ってる本人が見えない。

「……市松さん、誰と喋ってるの?」

 会話の邪魔したら不味いんだろうなって思いながら、私は恐る恐る口を挟む。市松さんは私を見て、”かがみりゅう”の方を見て、思い出したように言った。

「すまないが、ちょっと姿を見えるようにしてくれないか?」

 ……あれ? もしかして市松さんも見えてないのかな? 物の怪同士、気配とかで探ってたとか?

「これはこれは、気付かずに。失礼仕った」

 渋声がしてから起きた事に、私は小さく息を呑んだ。

 何て言うんだろう。全身が水晶みたいな、鏡みたいな、ガラスみたいな……。透けているような、周りと同化しているような、言葉だけじゃ形容しがたい。強いて言うなら、周りの風景を映し出すガラス細工みたいな龍(西洋ドラゴン《竜》じゃなくて、体がヘビみたいに長い方ね)が、音もなく私たちの前に姿を現した。鬣もガラス細工みたいで、でもふわっふわの飴細工みたいに輝いてる。

 瞳は満月みたいに綺麗な金色。見ているだけで吸い込まれそうな深みのある色。

 これは綺麗だわ。市松さんの言う通り、(見た目は)怖くない。

「普段から意識しておりませんで、言われないと己がどこに居るかすら定かではないのです。どうぞご容赦を」

「いや、こちらこそ無理を言ってすまない。だが折角来てくれたのだ。咲にもその姿、見せたくてな」

 鏡龍(意味合い的にこれで合ってるよね?)と話す時は、市松さんの口調がちょっと硬い。まぁそうか。何か相手も偉い感じの物の怪っぽいもんね。

「左様で。時に――まつ殿。久方ぶりに、この老いぼれに現を報せてはくれませぬか」

「ああ、俺で良ければ。咲が一緒でも構わぬか?」

「勿論に御座ります」

 話についていけないんだけど。もしかして鏡龍さん、今市松さんの事なんか名前で呼ばなかった? 名前あったの? 聞いた事ないよ? でもそれについて訊く暇もないまま、市松さんは身軽にベランダの柵に乗って、そこから私に向けて手を伸ばしていて。

「……え?」

 一体何をするつもりなのか訊こうと思った頃には、私は市松さんに腕を引かれ、鏡龍さんの長い体に腰掛けていた。後ろには市松さんが座っていて、片腕で私の体を、もう片腕で鏡龍さんの体を抱えている。

「いち、まつ、さん?」

「大丈夫。少し飛ぶだけだ」

 全然平気じゃないよ 私の中で“嫌な予感ゲージ”が針を振り切ったよ!

 抗議する暇は貰えなかった。でもこんな夜中に大声で叫び散らす訳にもいかず、私の体はあっという間に空へと舞い上がっていく。

 エレベーターって、上がる時自分の体が圧縮されていくような感覚があるじゃない? あれの強化版みたいなのが一気に体に押し寄せて、ある一点を境にふわって、全部が解放されたような感覚に襲われる。

 気が付けばベランダは遥か下で、私たちは瑠璃色の空の中を飛んでいた。

 月と星の灯りがあるから、真っ暗じゃないんだ。しかもその空の色が、鏡龍の鱗に絶妙に映って凄く綺麗。そういえばこの鱗、どこかで見覚えが……と思って、私は気付いた。

 鏡龍が私に向けて落とした“目印”って、鏡じゃなくて自分の鱗だったんだ。市松さんは、それを使って自分の居場所を教えてたって訳ね。

 眼下には灯りがちらほら。田舎だから、道路にある街灯とか、自販機の灯り以外に光はない。でも、視線を上げて遠くを見ると、都会方面はこんな時間でも随分明るい。

 きっと、向こうではこっちみたいに星が見えないんだろうなぁ……。

「綺麗だろう?」

 背後から市松さんの声が聞こえて、私は黙ったまま頷く。まだ何となく私がビビってるのが分かるのか、市松さんは体に回した腕に力を込めた。

 すうっと、私が座っている鏡龍さんの体が透けて……ううん、周りの背景に溶け込んでいく。……消えてるんじゃないよね? 落ちないわよね?

 と思ってたら、市松さんが鏡龍の体をトントンと叩いた。

 すうっと、鏡龍が姿を現していく。瑠璃色の体が、月の光と星の灯りと、周りの空気の色を吸い込んで淡く輝いている。

「落ちはしないから大丈夫だ」

 そう言って、ぎゅっと抱き締めてくれる市松さん。おかげで、鏡龍は結構な速さで飛んでいるから風が冷たいはずなんだけど、全然分からない。

 鏡龍が消えそうになるたびに、市松さんがその体を叩く。何度かそれを繰り返しながら近場をぐるりと飛んで、私たちは再び、家のベランダまで戻っていった。



「では、失礼仕ります」

 鏡龍は、市松さんにお礼を言って、音もなく消えて行った。市松さんが視線で追う先を私も追って、鏡龍を見送る。

「怖くなかったろ?」

 未だふわふわする体で自室に戻って、窓を閉めてカーテンを引く。ふらふらしながらベッドに座った私は、机に寄り掛かるようにして立つ市松さんの言葉に、こくんと頷いた。

「鏡龍は、周りに溶け込みながら飛び回ってるから、たまに自分が夢にいるのか、現にいるのか、此の世にいるのか、彼の世にいるのか、分からなくなるんだそうだ。だから、誰かを背に乗せて飛んで、自分がどこに居るのか確認したいらしい」

「そうなんだ……」

 私はそれしか答えられなかった。生身で空を飛んだ衝撃と感動(ついでにその間ずっと市松さんに抱き締められていた動揺)が、未だ冷めやらずにぼーっとしてる。

「大丈夫か? 咲。外は寒かったからな。温かくして休むのだぞ」

 夜中に起こしてきた人(あ、物の怪か)の台詞じゃないと思うんだけど。市松さんがいつもの“捨てられそうな子犬顔”で心配して来るから、私はのそのそと外出用の上着を脱いで、毛布の中に潜り込む。

 そう言えば市松さんに訊きたい事があった気もするんだけど、質問する力が残ってない。

「付き合わせて悪かった。でもありがとうな、咲。おやすみ」

「おやすみなさい……」

 市松さんに頭を撫でられて、私はあっという間に眠りの世界へと引き込まれて行った。





 終。








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