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Proと呼ばれたい...そして日々悪戦苦闘する
Brofessional な職業人の安息の日誌

【失意の果てに/麻生太郎物語(日本経済新聞)】

2019-03-01 | 政治

 

 

 

 

 

政治家、麻生太郎氏を私が初めて知ったのは、1996年の事でした。
私が母の介護のために、東京から福岡に移住したのが1993年の事でしたから、
それまで、政治の世界にまったく無関心であった私は、「麻生太郎」の名すら
知らなかったのです。

当時の私は、医療材料の販売会社で、ITネットワークの構築の仕事をしていて、
取引先の病院で、医療機器メーカーの営業の人と世間話をしていて聞かされたのです。
話題は、当時イギリスで騒ぎになっていた『狂牛病』についてでした。
「近く『狂牛病対策』が日本でも問題になるかも知れない。。。」
「その時、牛肉の個体管理(トレーサビリティ)が重要課題になるだろう。。。」

当時の麻生さんは、第2次橋本内閣の経済企画庁長官として、ようやく初入閣したばかりでした。
「世の中分からないぜ、ひょっとすると、麻生さんが総理大臣になるかもしれない。。。」
そんな、話題がきっかけでした。

当時、私は医療ネットワークの構築に意義と将来性を感じて、厚生省の価格調査への対応や、
取引先病院とのネットワーク構築、社内のOA化と、「来たるべきネットワーク社会」
に向かって、企業現場の最前線で日々格闘していました。

前年には「Windows95」が、そして「WindowsNT」が登場し、社内に導入されていたものの
未だ稼働していなかったIBMのオフコンに変えて、社内に「Oracle7」を導入しようとしていて、
経営陣に交渉を続ける毎日でした。
曰く「これからは、インターネットの時代です。オープンシステムが必要なのです!」
厚生省が予算を付けた『J-Menet』と云う、医療物流ネットワークシステムにも、
九州の企業代表として打合せに参画していました。
しかしこの時代は、業界内も疑心暗鬼で、折角付いた予算を業界団体自身が辞退してしまいました。

そんな私が、次に再就職した会社が「株式会社麻生情報システム」です。
1998年に通産省がIPA事業として公募したプロジェクトに、福岡県の飯塚研究開発センターが
応募したのを契機に、会社はプロジェクトリーダー要員を募集していたのです。
この時の『高齢者用生活支援EC開発実証実験事業』は、NTTや福岡銀行とコンソーシアムを組織して
参画したプロジェクトでしたが、未だISDN回線でインターネット接続していた草創期でもあり、
2000年から始まる介護保険制度にも備えた、大変意欲的なものでした。
しかし採択されるまでの道程は険しく、私はこの時初めて、飯塚研究開発センターの部長の鞄持ちとして
霞が関の通産省に、直接陳情に乗り込んだのでした。

この時はそれでも、「政治家、麻生太郎氏」に直接お会いする事はありませんでした。
麻生グループの事業は、弟の麻生泰氏が経営トップであり、麻生さんは「政治家」だからです。

私が麻生さんを直接見たのは、2000年にプロジェクトを完遂して、会社を退職した後の事です。
私の地元の福岡5区から選出されている、原田義昭衆議院議員(現環境大臣)の応援演説のために、
地元に来ていた時の事でした。

大勢の人だかりの中での演説で、直接会話を交える機会は無かったのですが、私はこの時の演説
一度きりで、「麻生さんの大ファン」になりました。
その時の印象が、まさに「べらんめぇ調のワルぶる閣下」だったのです。
※ちなみに、弟の麻生泰氏は「知的で上品な超エリート」を絵に描いた様な方です。(笑)

その後、麻生さんは、半ば冗談交じりで噂していたとおりに、内閣総理大臣まで昇り詰めました。
そして、リーマンショックと自民党の惨敗です。。。
でも、その後も私の「麻生さん大ファン」は、変わりませんでした。
何よりも、麻生さんが「デフレ脱却」を自身の「政治目標」に掲げ続けていたからです。

◇今必要なのは財政再建ではない!~麻生元総理,財政政策を語る
 https://blog.goo.ne.jp/ayakikki/e/90883d6c13f23f77f710ead73be03da0

民主主義の政治は、必然的にポピュリズムの政治家を産み出します。
「ポピュリズムの対局に在る『信念の政治家』」
そんな姿が、麻生さんの魅力なのかもしれません。


 — 川上 善久 (@zen_kawakami) 2019年2月10日




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