「私、家庭教師なんて…それに、」
そこまで言って朱音は目の前の男性をちらっと見る。その先の言葉を言うのを躊躇った。高校一年生にもなって男の先生が嫌だなんて言うのは子供っぽい気がしたのと、男性だから嫌、と言うのが悪いような気がした。
「でも、成績が思う様に上がらなくて悩んでいたでしょう。勉強のコツを教えて貰うだけでもプラスになるのじゃないの。勿論、あなたが嫌だったら無理にとは言わないけど」
「私は…」
「今日は無料なんでお試しと言う事でどうですか?家庭教師と言ってもやっぱり相性もあるしね、嫌いだなあって思う先生とは上手くやっていけないと僕も思うし」
公洋が朱音の顔を覗き込むようにそう言った。その笑顔が鳴海の兄の笑顔と重なった。鳴海の兄の大祐とは夏休みにサッカーの試合を見て行ってから何度か顔を合わせている。大祐には全く警戒心は働かない、鳴海の兄という事が大いに影響しているとは思うが、大祐は朱音も鳴海と同じような感じで接してくる。鳴海の家にお泊りに行ったときも大祐のお陰で緊張が取れた。そしてこんな「お兄ちゃん」がいれば楽しいだろうなと思ったくらいだ。その大祐が朱音を見る目と公洋の朱音に対する目が似ていると感じて思わず頷いてしまった。
「良かった、じゃ、早速始めようか。じゃ、このリビングのテーブルお借りして良いですか?」
公洋が母に向かってそう尋ねた。朱音はその事にホッとした。家庭教師と言うから朱音の部屋で二人で閉じ籠って勉強するのかと思うとそれだけで息苦しくなるような気がしたのだ。リビングでなら母もいるし気分的にずっと楽だ。もしかしたら公洋は朱音のそんな気持ちに気付いていたのかも知れない。
「ええ、勿論」
公洋の言葉に母も頷いた。
「じゃ、何から始める?」
「え…っと、私、化学が苦手で…二学期の学期末も化学の成績が思ったように伸びなくて」
他の科目は平均して上がっていた。化学も順調に上がれば鳴海に総合で抜かれる事は無かったかもしれないと思う。鳴海は理数系が得意なようだ。朱音も数学は大好きなのに、化学がどうしても頭の中に入ってこない。
「化学かあ、それは良い」
「は?」
「あ、僕、こう見えて理工学部。得意分野だよ」
「あ、そうなんですか」
「うん、じゃ、このままここで始める?それとも着替えてくる?」
「あ、着替えてきます。直ぐに」
「急がなくて良いから」
朱音の背中越しにそういう公洋の声が聞こえた。いつの間にか緊張感が消えていた。そして公洋の教え方はとても分かり易かった。朱音の質問にもとても丁寧に答えてくれ、いつの間にか公洋が男性である事すら忘れていた。
「じゃ、面接の結果は塾の方へ。僕も連絡しておきます」
公洋は帰り際、母にそう言って帰って行った。
「面接の結果って?」
朱音がそう聞くと母は朱音に笑顔を向ける。
「朱音と紫園先生の面接」
「面接なの?」
「だって、そうでしょう」
「先生が私を選ばないって事もあるの?」
「それはあるでしょうね。だって先生も仰っていたじゃない、お互いの相性があるからって。先生だってこの子は無理だとか思ったら上手に教えられないかも知れないわ」
「そうなんだ…」
母の言葉に妙にがっかりしている自分に気付く。
「その様子じゃ朱音の方は合格って事ね」
「わ、私、別に」
「あら、じゃ、お断りする?」
「そ、そんな事言っていない」
その翌週から週2回、公洋は朱音の家庭教師としてやって来る事になった。公洋に断られなかった事に胸を撫で下ろした。公洋は不思議なくらい、男性を感じさせなかった。鳴海には家庭教師が来る事になったと何故か言い出せなかった。塾に行くわけでもなく、クラブも頑張りながら勉強をしている鳴海と比べて何だか自分がズルをしている様な気分になったからだ。
でも公洋の教え方が良いせいかそれ迄より朱音は勉強がより楽しくなった。今迄難しく捉えていた問題も公洋が教えてくれたようにすると割と簡単に解く事が出来るようになった。やっぱりどこか勉強の仕方が間違っていたのだと思った。
「朱音ちゃんみたいに素直な生徒だと教え甲斐がある。どんどん吸収してくれるから次来るのが楽しみになるよ。今度はどんな難しい問題を作って行こうかなって」
「え~、そんな事考えているんですか。なんか段々、難しくなってきていると思っていたら」
「そりゃそうだよ、段々簡単になったりしたら意味ないでしょう。家庭教師なんて学校の授業とは余分な勉強なのだからその分学力も知識も向上させなければお金が勿体無い」
「そりゃそうですけど」
「第一、朱音ちゃんは楽しんでいるでしょう。特に難問が解けた時の顔は凄く嬉しそうだ」
確かに問題が難しい程やる気が出る。次に公洋が来る迄に絶対先生が文句を付けられないような完全な回答を用意してやると思ってしまう。問題の答えは単に正解だから良いというわけでもない。特に化学はそのプロセスも大事だと公洋は言う。何故その答えが導き出されたか、それが理解できていなければ本当にその問題を解いたとは言えないと。だから朱音は必死でそれを考える。家庭教師なんてと最初は結構抵抗があったが今ではすっかり公洋が来る日を楽しみにしている。日が経つにつれ朱音は公洋の事をまるで本当の兄のようだと思う、朱音に兄がいたらきっとこんな感じだったに違いないと。そうして三学期の学年末試験はトップ十位に入れた。いきなりのアップに担任も驚いていたが鳴海はもっと驚いた。
「朱音、凄い!今回は完全に私の負け。ねえ、勉強の秘訣は何?学習の仕方変えた?私も結構頑張ったんだけどなあ」
「鳴海ちゃんだって凄いじゃない。二十一位だもん。クラブだって頑張っているのに。確実に上がっている」
「それでも朱音より十一番も下、正直差つけられたなって思っている。実はさ、私、朱音に内緒で冬休み前から進学塾行ってたんだ。それなのに」
「本当?そうだったんだ」
「ごめん、内緒にしていて。でも朱音は友達だけどライバルだと思っているから。負けたくないって気持ちもある」
鳴海の言葉に朱音は同じだと思った。
「私も、同じだよ。鳴海ちゃんに負けたくないといつも思ってしまう。なんか、それが嫌だなって思う事もあるんだけど、でもそういう思いも消せない」
「良かったあ。兄貴が言っていた、良き友は良きライバルでもあるって。友達だからって勝ち負けは譲れない、どんな事もどんな時も一生懸命勝とうとすれば良いんだって。でも正々堂々とねって。でも内緒で塾行っていた。それは正々堂々じゃないかな」
「ごめん、私も鳴海ちゃんに言ってなかった…実は私も三学期から家庭教師の先生に勉強見て貰っていたの」
「家庭教師?そっか、そう言う事か。納得。勉強のやり方は人それぞれだから、どこでどんな風に勉強しているかなんて言わなくて良いのかも知れないけど、なんか朱音に内緒で塾行っているのちょっと後ろめたかったんだ。でも、これですっきりした」
「私も、なんかズルしている様な気がしていた」
「じゃ、お互い様だね。これからも良きライバルで頑張ろうね」
「うん」
鳴海の言葉に肩の荷が下りたような気がした。そして同じなんだなと改めて感じた。