壱百陸拾捌(百六十八) | タイトルのないミステリー

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「朱音の事件の事は覚えている?」

やはりその事かと思う。その話はずっと避けて来た。出来れば一生蓋をしておきたいと思っていた。事件当時まだ小学一年生になったばかりだった。その為、周りは気を使って事件の事を深くは聞いてこなかった。母親と妹の無残な姿を見た女の子にはみんな同情的だった。そしてまるで腫れ物に触るかのように事件の事には触れないでいてくれた。寧々も自ら語る事は無かった。話したのは事件食後、警察に聞かれた時だけだ。寧々は唯一の目撃者だ。でもまだ七歳になる前の子供の証言などきっと誰も当てにはしていなかったに違いない。寧々が何も覚えていない、見ていないと言うとそれ以上聞かれる事も無かった。

 アメリカに渡った後はそんな事件の事もとても遠くの出来事のように感じた。ただ、父の寧々を見る目を除けば。でも日本に帰って来てから改めての事件を身近に感じる様になった。自分の母や妹が殺された凄惨な事件だ、身近な事件に感じるのが当たり前なのに寧々は自分でも気付かないうちにそれを意識しないようにしていたのかも知れない。そこには決して触れてはいけない事実があるから。否、それは事実とは言い切れない。でも昨年あの男が殺された。心の奥にホッとするものがあったのと同時に増々事件を近くに感じた。一体誰が――その疑問は消えない。でも平気で人を殺すような男だ、色んな人に恨みを買っていてもおかしくない。寧々には関係が無い、そう思った。兎に角、あの男がもうこの世にいない、それで十分だと。

「どんな…事ですか?」

「事件の日、あなたは家にいたのでしょう」

寧々は黙ったまま頷く。この人は一体、何を聞くつもりなのだろう。寧々から何を聞き出そうとしているのだろう。まさかあの秘密を知っているわけではあるまい、そんな不安が頭を擡(もたげ)げる。

「でも、私、妹と隠れん坊をしていて押し入れにいてそのまま眠ってしまっていたので何も見ていません」

「今になって何か思い出したとかそういう事も無い?」

「何もありません」

「そう…」

鳴海はじっと寧々を見る。その目が嘘を吐くなと言っているように見える。

「…本当に何も見ていないし、何も覚えていません」

寧々は言葉を重ねる。

「でも…あなたが朱音と莉子ちゃんを見つけたのよね」

その言葉にあの時の光景が蘇る。ただの一度も、否、片時も忘れた事のないあの光景。血の海の中にいた母と妹の無残な姿。あの光景だけは何度眠っても、どんなに楽しい時間を過ごしても頭の中から消える事は無い。そしてそれと同時に響くあの悪魔の言葉――お前は俺の娘だ――掻き消しても掻き消してもそれはいつまでも耳の中で木霊し続ける。寧々は無意識に耳を塞ぐ。身体が小さく震えているのを感じる。

「寧々ちゃん…?」

山下岳のあの言葉が再び寧々を襲ってくるような感覚に陥る。

「寧々ちゃん、大丈夫?ごめんなさい、あなたには辛い事なのに。でも、私は知りたいの。どうしても知りたいの」

その言葉に寧々は顔を上げる。

「誰が朱音や莉子ちゃんにあんな惨い事が出来たのか、朱音がどうしてあんな目に合わなければいけなかったのか。私は朱音の無念を晴らしたいの。寧々ちゃんもそう思うでしょう」

そんな事は思わない、母や莉子を殺した人間は憎い。それは間違いない、でもそれよりももっと寧々には隠さなければいけない事がある。だから何も分からないままの方が良いのだ。

「私は…私はもうあの事件の事は忘れたいです」

「朱音や莉子ちゃんを殺した犯人の事は?」

「それは憎いです。あんな事件が無ければ…何度そう思ったか知れない」

それは本当だ。あの事件さえ起らなれば寧々はきっと今も何も知らず父と母と莉子と普通に暮らしていた筈だ。母さえ生きていてくれたら父との間もこんなに隔たる事も無かっただろう。普通の幸せな家族でいられたのに、そうであったならと何度も思った。

「でも、もうお母さんも莉子も帰っては来ない。事件が解決して犯人が捕まっても昔には戻れない…」

この先犯人が捕まる事は永久にない、彼はもう死んでしまったのだ。だからもう良いのだ、そんな思いが寧々の胸中を占める。

「そうね…例え犯人が捕まっても、事件の真相が分かっても朱音も莉子ちゃんも帰っては来ない。真実は辛いだけかもしれない。でもそこから逃げても何も始まらない」

この人は本当の事を知っているのだろうか、そんな思いが頭を掠める。否、そんな筈はない。あの事は寧々以外誰も知っている筈がない。それを知っている母ももうこの世にいない。

「真実を知る事ってそんなに大事なんですか?現実を変える事も出来ないのに」

「寧々ちゃん…」

「何も変える事が出来ないなら、もっと未来に目を向けるべきなんじゃないですか?」

寧々の言葉に鳴海は複雑な表情をする。何を考えているのだろうと思う。寧々は心の中を覗かれないようにと極力平静を装う。今迄ずっとあの事は言わなかった。そしてこれからも決して喋る事は無い。それだけは何があっても。例え、どんな人が目の前に現れようとも。

「あなたの言う通りかもしれないわね。私は朱音を救ってあげられなかった事を今も引きずっているのでしょうね。もっと色んな話を朱音としたかったのに、朱音の思いを分かろうともせずに突き放してしまった。その後悔をただ取り戻そうとしているだけなのかも知れないわ」

そこで鳴海は言葉を切って暫く口を噤んだ。何かを考えているようだ。寧々は鳴海の口から次にどんな言葉が出てくるのかと身構えてしまう。例え何を聞かれても良い様にと。

「…お父さんはいつもそんなに遅いの?」

「え?」

少し不意を突かれたような気分だ。ここで父の話になるとは予想外だ。

「あ、え、ええ。仕事が忙しいみたいで」

「そうなの。お父さんはあなたに優しい?」

胸の中がチクッとする。小さな針で突かれたような感覚だ。どうしてそんな質問をしてくるのだろうと言う疑念が湧く。

「普通に…優しいです。どうしてですか?」

「あ、いえ。さっきも言ったように私はあまりよく知らないのでどんな人なのかなって思ったのよ。今度、あなたのお父さんともお話がしたいわ」

「そうですか。でも父はあんまり家にいないので」

何だろう、言葉の中に何か含みがあるように感じてしまう。それは寧々の中に抱えている秘密があるから何もなくてもそんな風に感じてしまうだけなのだろうか。

「こんな広いお部屋に殆ど一人でいるの?」

「慣れているから平気です。私、料理とかも得意なんですよ。あ、そうだ、今日晩御飯、食べて帰ります?私、何か作りますよ」

「あら、それは嬉しい。およばれしたいところだけど今日は遅くなるって言ってこなかったから子供も待っているので残念だけどそれはまたの機会にするわ。お父さんにもいつも作ってあげているの?」

「ええ、あ、そうそう、この前、父の大学時代の友達の家族が来て私、腕ふるっちゃいました。みんな喜んでくれました。小学生の女の子がいて莉子が生きていたらあんな感じだったのかなってちょっと思った」

「そうなの」

「でも花音ちゃんはまだ小学五年生だったから莉子より小さいけど、莉子が生きていたらもう中学生二年生だし」

「かのん…ちゃん?」

鳴海がえ?という顔をして寧々を見る。

 

 

 

     

<壱百陸拾玖(百六十九)へ続く>