「うだつが上がらない」とは…。

隣家からの火事が燃え移るのを防ぐために防火壁として造られたレンガ造の「うだつ」が上がる家。
画像の一番右側、頂部に小さな屋根が取り付くのが「うだつ」である。
「うだつ」を造るにはお金がかかり、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られており、これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。
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古きを温めて、新しきを知る。自然と調和した理想の空間を目指して。
永井昭夫建築設計事務所
今週のいけばな

雪晃木(せっこうぼく 洋名:シンフォリカルポス)・ガーベラ・リンドゥ・ヤツデ

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古きを温めて、新しきを知る。自然と調和した理想の空間を目指して。
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水戸市内の建築設計事務所が神栖市立小体育館の耐震診断結果を偽造していた問題で、県は24日、同じ建築設計事務所に委託した県立岩瀬高(桜川市)の格技場の耐震補強工事実施設計において、耐震判定書の日付が改竄(かいざん)されていたことが判明したと発表した。
 県が委託したのは、水戸市備前町の天建築設計事務所。判定書の発行日は4月24日だったが、原本をカラースキャンするなどして履行期間内の3月14日に改竄し、県に提出したという。
 7月に神栖市で耐震診断結果の偽造が発覚し、県が平成19年度以降に発注した耐震関連委託業務591件を調査したところ、判明した。県営繕課は「指名停止などの措置を考えていきたい」としている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130925-00000016-san-l08

日付を改竄(かいざん)した首謀者は天建築設計事務所でも、それを教唆したのは営繕課の担当者の可能性が非常に高いでしょう。改竄することによるメリットは営繕課側の方が明らかに大きい。この事件を刑事告発すれば、営繕課も返り血を浴びることになるので、この件は行政処分で終わります。首謀者より教唆の方が罪が大きい場合もありますから。
なぜ新聞記者はそこまで突っ込んだ記事を書けないのでしょうか?
新聞記者にそもそも能力がないこともありますが、記者クラブ制度の弊害で、新聞記者も骨抜きにされてしまっているのでしょうか。

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『盲獣』  1969年
監督:増村保造 原作:江戸川乱歩
出演:船越英二 緑魔子 千石規子(3人だけ)

「彼(盲人)を愛し始めると同時に、私の目も弱り始めた。...
触覚の楽しさは素晴らしい、甘くて深くて、確かで。色なんて薄っぺらだ。
指が敏感になった。昆虫の触覚のように。
この世に始めに生まれた生物。
人間のふるさとのように。……」

「僕は彫刻家の真似をしている者です。生まれつき目の見えない者です。
人の話や点字で知るところによると、この世には目を楽しませるものが一杯ある。
太陽の光、雲の色、美しい景色、しかし、僕にはどうする事もできない。
盲人の世界に残されているものは、音と匂いと味と触覚ばかりだ。
音は、音楽は、僕には吹きすぎる風のようで、物足りない。
匂いは悲しいことに、人間の鼻は、犬のように鋭敏でない。
食べものは、ただ腹がふくれるばかりだ。
そう考えてみると、触覚こそ、わたしたち盲人に残されたたった一つの楽しみでることがわかったのです。
わたしは、このたった一つの楽しみにとりすがった。なんでもかんでも撫でて見ないでは承知が出来なかった。いろいろな物の中でも、生き物の手触りが一ばん楽しかった。
暖かで。柔らかくて犬や猫を抱いたこともある。牧場で一日中、羊と遊んだこともある。
だが、どんな生きものでも、人間の、それも女に及ぶものがないことが、ハッキリとわかってきた。」

主人公は盲人である代償として、触覚が異常に発達し、その鋭敏な感覚で、物を知り、物を楽しんでいくうちに、女体こそ最も素晴らしきものと思い、理想の女性を追い求め、ある日、そんな理想の女性(緑魔子)を自らのアトリエに監禁する。
触覚で得た理想の女性を表現するため、彫刻を通じて、「触覚の芸術」を創造していく

監禁された緑魔子も最初は抵抗しながらも、「触覚の世界」に目覚め、次第にその虜になっていく。「触覚の芸術」、そして「触覚の性愛」に溺れた二人がいきつく先は…。

「芸術」は奇麗事では決して生まれない。決して高尚なものではない。無意識のうちの「道化」の世界であり、「道化者」に成り切れない者が「芸術」を志すなど、ちゃんちゃら、おかしい、私はそう思っております。
「芸術」に高尚なイメージがあるとしたならば、「道化者」に成り切れない者が作り出す憧れの世界に過ぎないのであり、自らの内臓を曝け出して売り物に出来るだけの覚悟がない者が「芸術家」を気取り、あるいは「道化者」ならぬ「小市民」の立場を死守する評論家たちが言論を振りかざすことなどの要素が起因して、世間に、まがい物が氾濫し、正当に評価されるべきものが評価されないなんてことがよく起こるわけです。

余談ですが、私の生業である「建築」は「芸術」ではありません。あくまで「実用品」です。
強いて言うならば、「設計者」とは「生活総合技術者」であり、「芸術家」とはまるで違った立ち位置です。「設計者」が「建築」しか知らないでは全くお話になりません。
どうしても、自称「建築家」が、「デザイン性」あるいは「芸術」を志したいならば、「建築」などはやめて、他人様の金を当てにすることなく、絵画や彫刻などの自己完結型の分野に没頭して、「道化者」に成り切ってもらいたいと私は考えています。

末筆となりますが、この映画は万人にお勧めできる映画ではございません。グロいですから。自己責任にてご観賞下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=uJzVX_ReyA4

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2020年の東京オリンピック決定との知らせで、日本国内、喜びの声に沸いている状況のなかで、あまり水を差すようなことを言いたくありませんが、私がその知らせを聞いて、ふと直感的に思ったのが、「1940年東京オリンピック」の二の舞にならないかということです。
福島原発の事故の収束がさっぱり見えないなかで、本当に、国を挙げて、堂々と外国人を招待して、祭り事を行えるような状況なのかと問い質したいのですね。この問題を、「福島」と「東電」に押し付けて封印するような風潮が強まる方向性になることだけは見過ごすことが出来ないのです。
放射能の数値があーだから大丈夫、こーだから安全、という話のレベルでなく、どうしても、国として危機感が足らない、希望的観測過ぎるのではないかという感じが否めないのです。

1940年の東京オリンピックの開催についても、当時の日本は、1910年代位から人種的差別撤廃を国際的に強く主張...してきており、有色人種の国にも初のオリンピックの開催権をということで、推進活動が行われ、その結果、1936年にその開催が決定していたわけですが、国際的情勢を鑑みて、ちょっと、あまりに希望的観測過ぎないか、本当にそんなことを開催している状況なのかという声は当時、少なからずあったようです。案の定、1940年は東京はおろか、代替地のヘルシンキですら、オリンピックは開催されませんでした。

私は、原発反対とか原発推進とか、そういうのは難しくて、よくわからないので、正直、今後の原発に関する意思表示はしておりません。
しかし、決して国土の広くない日本で、国際的に看過することの出来ない事故の収束が見えない以上、東京オリンピック開催については延期もしくは自粛すべきというのが私個人の意見です。私自身、国際感覚が身に付いているとは全く思っていませんが、震災前から長く続いていた「東京オリンピック」開催への推進活動は、震災が発生し、福島原発事故が深刻化した2011年に、国として、延期すべきであったのではないかというのが、あくまで私個人の意見です。私の意見は間違いなく少数意見に過ぎず、この記事もほとんど「いいね!」が付かないでしょうけれど、私の信念は、「多数決は民主主義の横暴」というものですから、その辺、ご容赦頂きますよう、お願い申し上げる次第です。


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