クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎近辺ひまわりは終了 H-30- 8-17

2018-08-17 20:00:38 | 高崎・甘楽・藤岡方面

今朝、起きて吃驚。まるで秋を感じるような爽やかさ。北からの高気圧の
悪戯らしいが何とも変動の激しい夏だ。

昼間でも30℃に届かないというので保渡田の「上毛野はにわの里」の
ひまわり見物に出かけた。ここは明日から「埴輪の里・夏祭り」があるので
混雑を避けるためには今日の内が良い。

はにわの里には毎年のように秋の「王の儀式・再現劇」を見に来ているので
馴染み深い。「保渡田古墳群」と称するのは下の写真で左から「八幡塚古墳」
「二子山古墳」「薬師塚古墳」の三つだ。



位置関係は資料画像に一寸加工して見るとこんな感じで並んでいる。



何故、高崎のこの地に古墳群? については過去の爺イのブログから記述を
再録してみる。
「三世紀の頃、高度な農業技術を持った大集団が東海地方から海路で東京湾に
上陸し利根川を遡上して高崎周辺の低湿地帯に至り、その灌漑技術によって
現地の弥生人たちが為し得なかった湿地の水田化を実現した。不毛の地が
「毛野」に変貌した瞬間である。
彼らの頭領たる王はその死後、高崎・元島名町の「将軍塚古墳(県内最古)」に
葬られた。それが四世紀の事。
そして五世紀の後半、榛名山東南麓を開発する豪族が活躍。彼らは周到な計画を以って
渡来人を多数招聘して先進技術を導入、農業・馬生産・手工業を興す。その大王たちは
井出から保渡田に至る古墳群に眠っている。従ってこの地域では先進文明国の技術集団の
末裔達が多く棲むと言う。
だがこの地域はその絶頂期の五世紀末に火砕流を伴う第一回の榛名山大爆発に見舞われる。
火砕流は広範囲の森林・耕地・村々を焼き払い、せき止められた自然ダムが決壊して
土石流が山麓を埋め尽くした。そしてそれから25年後には第二回の爆発で大量の軽石が
数メートルも降り積もる。
そのために高崎に文明を開いたこれら豪族達は古墳を残して忽然と消息を絶ち
1500年後の2012年11月、群馬県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査によって発見され、
その全容が確認されるまでこの痕跡は永く眠り続けたのだ。
「保渡田古墳群」は三大前方後円墳で今はコスモスの名所になっている井出二子山古墳は
最初に作られた墳丘長108M、整備が完了し埴輪群の展示があるのが二番目の八幡塚古墳で
96M、西光寺薬師堂が乗った薬師塚古墳は105Mで三番目ーー」と云う事。
この三基は50年間ぐらいの築造との推定で 同族の首長の親、子、孫3代の墓と
思われると解説されている。

さて、肝心のひまわり畑では地元小学生が設計した「ヒマワリ迷路」が売りだが
残念にも祭りを明日に控えて花は完全にお辞儀をしているので終盤。
だが、ヒマワリの花は終盤になると生育の程度が千差万別でまるで百面相の様で
比べてみる楽しみもある。
その様子はyoutubeでご覧ください。

はにわの里ひまわり


序で恐縮だが数日前に訪問した鼻高展望花の丘の最後のひまわり畑「北エリア」も
同様に深々とお辞儀をして今シーズンの終わりを告げていたのでそれも
百面相を短いyoutubeでお楽しみください。

鼻高最後のひまわり


もう一つおまけ

ひまわり百面相



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