クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

埴輪の里コスモスと保渡田古墳群 R- 1-10 -15

2019-10-16 16:23:23 | 高崎・甘楽・藤岡方面
特に中部から東日本に大きな災害を齎した19号台風も通り過ぎた。
幸いにして高崎の拙宅近辺は風雨とも弱く被害は全くなかった。
その直後の13日には巨人がCSを抜けたしラグビーも
強敵との接戦を制して史上初の8強となり明るい話題も。

連休明けの15日、今週末に予定されている高崎・保渡田
地区の古墳祭り「王の儀式」会場周辺のコスモスが
台風被害を受けていないか? 一寸様子を見に行った。

かみつけの里博物館に駐車してコスモス畑のある二子山古墳に
向かったが、心配していた通りほぼ満開が近いコスモスは
強風になぎ倒されている。ヒマワリと同じく密生のものが
一旦総倒れになると重なり合うから多分自力での復元は
不能、倒れて地に這ったまま咲き続けるしかないだろう。



例年ならこんな具合になっているのに。



しかし、古墳祭りは野外の再現劇がメインだから倒れていても
花の勢いはあるので我慢の範囲だろう。
本日現在のコスモス畑の様子。倒れているために写し易いという皮肉。

埴輪の里コスモス


気分を変えて古墳見物。ここの保渡田古墳群は南から「二子山古墳」
「八幡塚古墳」「薬師塚古墳」と並ぶがこのうち北の薬師塚古墳は
西光寺の建設で原型は壊され出土品の舟形石棺が置かれているだけ。



「かっての記録から再録」

「三世紀の頃、高度な農業技術を持った大集団が東海地方から海路で東京湾に上陸、
利根川を遡上して高崎周辺の低湿地帯に至り、その灌漑技術によって現地の
弥生人たちが為し得なかった湿地の水田化を実現した。不毛の地が「毛野」に
変貌した瞬間である。彼らの頭領たる王はその死後、高崎・元島名町の
「将軍塚古墳(県内最古)」に葬られた。それが四世紀の事。

「群馬は海に無縁」ではなくこの様に1700年も前から群馬の物流・情報は
遥か大海に繋がっていたのである。
そして五世紀の後半、榛名山東南麓を開発する豪族が活躍。彼らは周到な計画を以って
渡来人を多数招聘して先進技術を導入、農業・馬生産・手工業を興す。その大王たちは
井出から保渡田に至る古墳群に眠っている。
だがこの地域はその絶頂期の五世紀末に火砕流を伴う第一回の榛名山大爆発に
見舞われる。火砕流は広範囲の森林・耕地・村々を焼き払い、せき止められた自然ダムが
決壊して土石流が山麓を埋め尽くした。六世紀中期には第二回の爆発で大量の
軽石が山麓に数メートルも降り積もる。そして、高崎に文明を開いたこれら豪族達は
古墳を残して忽然と消息を絶つ」

五・六世紀に活動したこの先人たちは二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で
相次いで建設し、この地に有力な豪族がいたことを現代に伝えた。その名は
上毛野氏の同族の「車持氏」。
だが、二度に亘る榛名山大噴火の後、1500年後の2012年11月、群馬県埋蔵文化財
調査事業団の発掘調査によって発見され、その全容が確認されるまでこの豪族の
痕跡は永く眠り続けたのである。

先ず、最南端の二子山古墳に向かう。



途中に1/100の古墳復元模型がある。



頂上には数種の説明資料。



高さは10m程度だか周辺は開けているので山々が良く見渡せる。

   

次いで八幡塚古墳。



榛名山を背にして堂々たる姿に復元されている。



いつもの埴輪群も健在だったが

八幡塚古墳埴輪群


内堀には未だ台風の後遺症が残り関係者が重機を駆使して整備中。



一部立ち入り禁止なので遠回りして頂部に向かう。

八幡塚古墳


最後は薬師塚古墳。
西光寺本堂の右側から石段で薬師堂へ。その横に舟形石棺。



来訪の序に下のバナーをポチッと。
登山・キャンプランキング



コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« みのわの里 キツネの嫁入り... | トップ | かみつけの里・古墳祭 R- 1-... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

高崎・甘楽・藤岡方面」カテゴリの最新記事