クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

清水寺アジサイ R-2 -6-26

2020-06-27 14:27:25 | 高崎・甘楽・藤岡方面
浜川公園から移動して観音山に向かうが清水寺の石段下には
駐車場所は無いので白衣観音大駐車場から脇道に入って
上の駐車場。

木立の中の参道を進むと沿道のアジサイは勢いが良く大輪で
大いに気を持たせた。だが、観音堂前の「舞台」から石段下を
眺めると花の気配が殆どない。どうやら浜川に続いて二連敗。

そこで早々と史跡探訪を重点にすることに方針転換。
520段の石段下までの往復は一寸息が上がったが
全部搔き集めても収穫はこれだけ。
清水寺アジサイ


この後は史跡探訪を楽しんだ。

駐車場から本堂に向かう林間の道に早速芭蕉句碑。

「草いろいろ 各々花の 手からかな」

1688年の作、『更科紀行』出発に際して美濃の
門人達に残した留別吟4句のひとつ。



間もなく観音堂と呼ばれる本堂が見えてくる。
808年に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐の兵士の
健勝と武運長久を祈って、京都東山の清水寺から勧請し
開基されたと伝わる。高橋克彦が愛する「火怨・阿弖流為」
の時代だ。ここの「観音山」と言う名前はこの清水寺観音堂
「大悲閣」にある御本尊「千手観音」が元になって
いるのであって1936年建設の「白衣大観音」があるから
ではない。



「観世音」の掲額のある観音堂。



堂内を撮影するも広範囲は
見えないので解説にある狩野常信の筆による
大絵馬一対「龍頭二観音現出ノ図」と「能楽吉野詣ノ図」や、和算の
大家として知られる斉藤宣義奉納の算額fは確認できない。



回廊を時計回りに進むと最初の角にこんな像。
閻魔様が守っているのかと思ったら手の組み方がどう
見ても閻魔ではない。深大寺にある「なで仏」 に
雰囲気が似ているので多分十六羅漢第一番の
賓度羅跋羅堕闍尊者(びんどらはらだしゃそんじゃ)
通称「お賓頭盧さま」だ。


回廊には献額十六面などが飾ってあるが何れも摩耗が
酷く画像らしきものが撮れたのはこれ一枚。


丁度、観音堂の裏手に「千手堂」という額が掛けられ
ていており、ここに本尊の後方を護っている愛染(ゼン)
明王がいる。



中を覗くと解説其のままに一面六臂で忿怒相であり、
頭には獅子の冠をかぶり、宝瓶の上に咲いた蓮の華の
上に座っている。



観音堂の北側には「山門(舞台)」があり部分的に入れるが
付近の樹木が成長してしまい、かってここから市街地を
眺められたというのはもう無理。



そこから振り返ると観音堂と手前に鐘楼。
この鐘は「梵鐘」よりも小さいので、「半鐘」という
との事、「梵鐘」は時の鐘で「半鐘」は合図の鐘。



西側に「田村堂」がある。



ここは、坂上田村麻呂の像を安置してあり堂内には、
1864年に下仁田において水戸天狗党と戦って戦死した
高崎藩士36人の木像も安置している。何しろガラス
戸越しなので余計なものが
映り込んでしまうが田村麻呂像は最上台に見える。



アジサイを探しながら石段を下ると中間地点で
馬頭観世音と掲額のあるお堂。



中はこんな感じで何があるのか判然としない。



やがて仁王門の中門を潜る。




石段下には再び芭蕉句碑。
「観音の 甍みやりつ 花の雲」
1686年、深川の病床から浅草の観音様を眺めての作。



その脇に二つの石燈籠に挟まれた石碑。
石碑の台石の上には、鋳銅製の「露天聖観世音立像」が
あったと碑文に記されている。
5m近い大きな観音像だったらしいがこの観音像が戦時中
の軍需資材として供出されてしまったことを残念に思い、
ここに観音像があったことを後世に伝えようと、台石の
上に碑を建てたと記されている。(隠居の思ひつ記より)



其の他、出会った石造物。


何とも中途半端な気持ちで本日終了。

ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
登山・キャンプランキング
5勝2敗1分
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 浜川公園アジサイ R- 2- 6-26 | トップ | 神成古代ハスの里とアイリス... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

高崎・甘楽・藤岡方面」カテゴリの最新記事