パンセ(みたいなものを目指して)

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予算・決算委員会であれこれ思うこと!

2019年03月19日 10時49分19秒 | 市政、市議会に関することなど

少しばかり面倒くさい話

年に4回開かれる新城市議会
3月のそれは来年度の予算を扱う重要な定例会
定例会最終日の本会議で予算案の議決が行われ、承認されると執行できるようになるが
現実的にはその前に開かれる予算・決算委員会の採決で大体が決まる

その予算・決算委員会に昨日出かけた
正直なところ面白くないだろうな、、と思っていたが思いのほか面白かった
でも傍聴者は一般質問のときと比べて少ない
思いの外面白かったとの評価と相反するが、傍聴者が少ない現実も納得できる
少なくともこれを初めて傍聴した人は、次も傍聴にトライしようとするかといえば
正直なところその可能性はかなり低いと思われる

最近わかったきたが議会には、似たようなことをしているが違う役割の言葉がある
「質問」「質疑」「討論」(これらは通告書が必要とされる?)
このうち「質問」は議員さんの晴れ舞台(?)の一般質問で想像される行為
持ち時間があって行政にいろいろ聞いたり、質問との言葉があるが再質問等で
こうした方が良いのではないかなどと議論する場合もあるようだ
「質疑」は行政に確かめるためにただ聞くだけで良し悪しの判断は要求されない
「討論」は採決に際し、案件に賛成か反対かの意見を述べる機会のこと
知ってしまえばなんてことないが、分かる前は頭の中が整理できずになんで同じようなことを
繰り返しているのだろうと思ったものだ
(自分の認識はその程度だったと言うこと、そして多分多くの人も似たようなものだと思われる)

議会の進め方がわかるとそれに沿って傍聴者にも配布された通告書を見ながら
ただただ成り行きを見続けるだけになるが、今回思いのほか面白いと感じたのは
市が行っていること、お金を使っていることが多岐に渡っていて
その一つ一つがぼーっと生きてる身には全然意識になかったが、
実生活には微に入り細に入り必要なことに繋がっていることがわかったこと

農林業に関すること、福祉・教育に関すること、観光に関すること、広報に関することなどなど
呆れるほど細かなところまで気が配られ予算がつけられ何か実行されることになっている
議員さんは議員さんだけに配られる300ページ(?)ほどの分厚い予算の明細の書かれた書類のなかから
不明な点を行政にお尋ねするというのが予算・決算委員会の質疑

ただこうして眺めていると漠然とだが、これらの予算はあまりにも多岐に渡っているので
実際にはこれらの全てを詳細に理解している人はいないのではないか、、
物知りの行政の人間ですら他の分野の事柄については理解していないのではないか
そして、この細かすぎる予算案は、予算の提案権は首長にあるというものの現実には
現場の職員がそれぞれの責任感の上でつくられていて、首長が誰であっても似たような
継続的な予算案が作られるのではないか、、と想像してしまった
言い換えると、首長の予算への意図は目立つ政策に反映されて、
それ以外は現実には職員の真面目な仕事の結果であるような気がしてならない

人間の能力の限界を考えると、予算の全てを理解・把握・判断するのは難しいと思われる
だからそれらは、一人が全てを見るのではなく、一人ひとりは特定の分野を専門的に見る
としたほうが効率的なように思われる
議員さんは市民の代表との言葉があるが、現実には議員さんは分業としてチェック作業を担う機関ではないか
市民一人一人がとんでもなく法的なこと数字的なことを考えるのは社会的に効率が悪く
それならば代わりの人に依頼して方が効率が良い
専門職としての分業としての議員さん、、社会的に尊敬されるべき対象としての議員さんではなく
最近は1つの役割・機能としての議員さんという存在を感じている

そこで要求されるのはチェック機関の専門家・プロフェッショナルとしての仕事ぶり
これが問題なく行われていれば良いのだが、現実の世界に戻ると今回の300ページにもわたる予算書を
じっくり読み込んで前年との比較を行い、なにか疑問を感じることはないか、、、と
自らの仕事に責任をもっておこなう人がどれだけいるかと言えば、、、、少し怪しいのではないか
でもこの否定的なことは、多分自分の住む市だけのことではなくて、きっと確率的にはどの地方でも見られるとも想像される
(仕方ないのかもしれない?)

ところで、昨日の質疑のなかで記憶に残った違和感を感じるものがあった
それはある学校の楽器の修理に要する金額が、学校とか教育で使われる中からではなくて、
地域自治区予算から捻出されるがそれはおかしいのではないか、、との指摘に対する行政の答え
(地域自治区は地元の問題解決のために地元の判断で使用できる自治区予算がある)
学校の備品である楽器が古くなって修理が必要なのだから、学校でなんとかするのは当然、、
と普通の人間は思うが(質疑した議員さんもそう考えた)どうやらそのお金はないので(市の学校に対する予算が小さいので)
しびれを切らした地域の人が自治区予算で賄うことを選択した、、というのだが
それを正当化する行政のかたの理由が少し無理筋っぽくて笑えてしまった
「楽器は学校のものだけでなく、敬老会や各種の地域のイベントで使われることもあり、そこで地域の人は音楽を楽しんでいる
 それゆえに地域の自治区予算で修理を賄うのは不自然ではない、、、」

さすが行政、こじつけが凄まじい、、
これはいろんな申請書を書く時のこじつけを連想されて、国会の答弁でも見られるが「ああ言えばこう言う」類の
一般人には少し理解しづらい理屈だ
学校への予算が少ないと思われることは先日の一般質問でも取り上げられた
それは余りにもありえない話のようで、そのまま信じて良いのかわからないことだったが
ある学校の職員室の蛍光灯が一本消えている、、それを補うために蛍光灯代が必要となるが、学校には
そのお金がなくて困っている、、とある市議さんが指摘した
そんなことあるのか、、、と直感的に思ったが、月木の朝のあいさつ運動で話すことが多くなった
近所の小学校の校長先生に聞いてみると、確かに小学校に対する予算は少なくなっているとのことだ

肝心なところにお金が回っていないのではないか
この視点が議員さんには必要なのだが、ここで思いつくのがこのブログでも時々取り上げる
新東名経由の名古屋直行バスのこと
このバスは平均一台6.8人の乗車客数で、このために市は約3700万円の予算を計上している
これは来年度だけでなく、今年度も昨年度も同様な金額を負担している
学校に蛍光灯を取り替える費用がない、楽器を修理する金額がない、、、
だが、どう考えても乗降客の一発逆転を想像できない事業に3700万円もかけるというお金の使い方
それが果たして正しいものなのか、、疑問に思えて仕方ない

市の職員は、上司の存在する職員であると同時に納税者としての市民でもある(市外からの職員もいるが)
その納税者としての市民の感覚からすると、いくら庶務上の上司の意向とはいうものの
こうした政策(予算)を逡巡もなく計上して良いものだろうかと、、フト考えてしまう
これは、公務員の働き方とか個人の判断とか責任、、というややこしい問題につながるが
こんな面倒なことではなくて、誰もが納得するようなことが粛々と行われないかな、、
とつい無い物ねだりをしてしまう




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