パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

1対1、1対多

2019年09月15日 07時58分29秒 | あれこれ考えること

今月の新城市議会はいつものように傍聴には出かけなかった
傍聴より優先したいことがあったためだが、傍聴しないことで気づくことがあった

それは、一般的な(傍聴していない)市民は
市議会は何をしているかわからない
知らないところで知らないことが決められていく、、
と思うだろうと想像できたことだ
議場の傍聴でなくて、テレビやインターネット中継を見ている方々がいるとしても
その数はさほど多いとは思われず、視聴している人でも自分の関心事や
直接関係していること以外の話題であったなら集中して見られず、
まして普通の生活の上では聞いたことのないような法律の何条などと
聞かされるハメになると嫌気を覚えるのではないだろうか

一般市民は自分の生活が忙しいし、考えなければならないこともたくさんあって
いちいち、市のお金の使い方なんぞにかまっていられない
そのために自分たちの代わりに適切な判断をする人物としての議員さんを送り出している
そんな認識だろうと思われる

ところが、多分我市だけではないことだろうが、議員さんたちは必ずしも期待に
応えるような人たちばかりではない
議員さんを過度に期待したりするのは現実的ではないが、それでも肝心なところの
判断や議決権の行使が安易すぎるのではないか、、と思うのは、傍聴した経験からの印象

この現実を知ってしまうと、選挙のときだけ議員さんに関心を持つのは良くないことだとわかる
そして議員さんたちが議決した内容も、本当にそれで良かったのかと疑問を覚えることになる

こうして一種のオンブズマン的な関心を持つようになると、人は一種の事情通になる
ここで問題となるのは、この事情通の判断は正しいかという点と、その事情の他者への伝達のこと

いつも実感するのは1対1で伝える場合は、物事の経緯や問題点などをじっくりと相手の理解度を測りながら
話すことができるが、これをある程度の人数を相手にするとこの話し方は通じないというか、現実的でなくなってしまう
1対多の場合は、人々は細かなことは面倒で理屈を追って考えることができにくい
理屈を話すよりもむしろ断言のほうが効果的で、それでわかったような気になれる
そして、一種の上澄みのようなこのシンプルな断言が、その根拠も理解していない人の中にも自らの考えとして定着する

市民運動を活性化するためには人数を必要とする
だが1対多のような、断言の方法で伝えることは正しいのだろうか
断言に至るのは「カクカクシカジカ」の理由で、、と理解しないで、勢いとか雰囲気で数を増やして(増えるとしたら?)
いいものだろうか

本当は一人ひとりが事情通になって、議員さんも議決の良し悪しも判断できるようになるといいと思うが
これは夢物語なのかもしれないと自分の中のリアリストの面が囁く
それでも何かを知るということは、知らないことよりは確実に良いことなので
面倒でも1対1での伝達を試みるようにしなければいけないかもしれない

 

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