こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生はあっという間だな、あと少しの間どうやって生きよう

文の上手い人の文

2020年09月17日 | 読書、映画、音楽、美術
 新聞とか雑誌に載っているエッセイーーー小説ではなくーーーを読むとき、こういうところに文章を書く人というのはどんな書き方をするのだろう、組み立てとか、導入とか、主題(タイトル)への移行とか、文章に隠されているそういったもろもろのテクニックを少しでも学んで自分のブログ書きに役立てたいと、日々駄文を書き連ねている身としてはそんなことを考えながら読むことがある。

 そんな文章の書き手が俳優、タレント、元アイドルだったりすると、お手並み拝見と少々上から目線で読み始めることもあるのだが、さすが皆さんお金を取っているだけの事はある。お金を取ってというよりは、新聞にしても、雑誌(多くはカード会社が出しているカタログとか何かの会社の広報誌の類)にしても、私が金を払ってまで読ませていただいているだけのことはある。とにかく皆さん文が上手い。当然のことながら、私のように毎日の往復の時間で書きなぐって、推敲もそこそこにアップしている訳ではなく、それなりの時間をとって書き、編集者がチェックを入れ、”商品”としての文章に磨き上げてから世に出すのだろうから、良質なものであるのは当然だが、そういったこと以上に”才能”のようなものを感じる。

 そんな上質な文章に接すると、才能のない私なんぞはせめてテクニックを学ぼう(盗んでやろう)と思って読み始めたはずなのに、読んでいるうち、そんなことはすっかり忘れ、その内容に取り込まれている。読み終わってから”しまったこんなはずでは”と思ったところで時すでに遅し、文章術などよりも、その人が感じたこと、考えたこと、提供された話題などの方が、私の中ではよほど大事なこととなっていて、文章を読み直すにしても観点はすでに異なっている。まんまとやられた。まるきりミイラ取りがミイラ。
 上手な文章を書くことができるようになるのには、文章術なりなんなり、そういったものを学ぶといいのだろうが、そういう時間はなかなか取れない。学問するのに早い遅いはないといっても、日々ぶち当たる難症例についての勉強すらおぼつかず、また、往復の時間で哲学書を読むようになって頭の中がこんがらかっている状態では、文章術の勉強までは手が回らない。人間それぞれに与えられた時間は同じなわけで、これまでの人生、時間をどう使ってきたかを思い直して反省したところで遅いのだ。今の私にとって文章が上手に書けるようになるかは、病理、哲学の次あたりの位置づけなので、そのテクニックを勉強するのはもうしばらく先になるだろう。結局、新聞雑誌のエッセイや、文の上手いブロガーさんのエントリーなどをこまめに読み、それらの視点や切り口、表現方法を学んでいくしかないだろう。

 実践的といえば実践的なのかもしれないが、私の理解力にも問題があるので、日々の駄文が劇的に改善する日はまだ先のことになりそうだ。
起承転結それとも序破急

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