短編鍛錬小説「熱血」 | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 彼女の第一印象。それはひと言で言うなら「迷子の子供」だった。
 自分に自信がなくオドオドして、いつも誰かに救いを求めるように視線をさまよわせている。
「普段は決して勉強ができないというわけではないんですが……。テストになると、どうしても成績がぱっとしないんです」
 彼女の母親から聞かされた言葉である。勉強ができないわけではない。つまり、決して基礎的な学力が身についていないわけではない。それなのにテストの結果がついてこないのは、自分の書いた解答に自信がなく、何度も見直しているうちに回答時間が終わってしまうのが、要因の一つだと考えられた。
 個人指導を始めるに当たり、方針を決めなくてはいけない。私は尋ねた。
「お母さんとしては、受験対策を中心とした成績アップを望まれますか? それとも、『人間力』とでもいうような、総合的なスキルアップを望まれますか?」
「それは……できたら、総合的な力を上げてもらいたいですね」
「その場合、こう言っては何ですが、学業指導が二の次になる可能性もあります。また、かなり独自の指導を行うことになりますが、その点をご理解いただけますでしょうか?」
「それで結構です。よろしくお願いします」
「わかりました」
 そんなやり取りを経て、私は彼女の部屋に入った。
「はじめまして。今日からキミの家庭教師として個人指導を担当する、萩野です。よろしく」
「ュゥヵです……」
 ぼそぼそと、文字通り蚊の鳴くような声で答える。うつむいたままなので、ただでさえ小さい声が一層聞き取りづらい。これは、骨が折れそうだった。

「まず、キミの指導方針について話をしたい」
「……はい」
 私は彼女の斜め前に、横向きに座った。彼女の正面には、私の横顔が位置する。視線を合わせることなく、リラックスしたまま対話できる距離、角度を保って、私は話を始めた。
「お母さんからは、学業指導を二の次にしてでも、人間力アップを目指してもらいたいという言葉をもらっている。キミのテストの回答などを見せてもらったけれど、基本的な理解力はある。だけど、キミには根本的に足りていないものがある」
「……はい」
「はっきり言おう。それは、決断力だ。確信や自信と言ってもいい。それが根本的に不足しているからこそ、答えに迷い、本来なら正解できるはずの問題まで間違ってしまっているんだ」
「……はい」
「キミに必要なのは成功体験だ。まず、身をもって行動し、体験する。その体験を二度、三度と積み重ねていくことで、経験になっていくんだ」
「……はい」
「よく、『時間が解決してくれる』なんて言う人がいる。だけど、何もしないまま、ただ時間を浪費しているだけでは、何も解決なんてしない。するはずがない。大事なのは、行動することだ。どんな些細なことでも、自分のために行動し、経験を積み重ねていけば、そのために費やした時間は、必ず問題を解決してくれる」
「……はい」
「キミに必要なのは熱だ。熱くなれ。弱い自分と決闘するんだ。逃げるな。恐れるな。自分の中の弱さと向き合って、それを克服するんだ」
「……はい」

 翌日から、彼女の指導が始まった。
 指導内容は行動目標をリストアップして視覚化し、一つひとつ消化していくメンタルトレーニングのメソッドと、ジョギング、ボイストレーニング、ヨガなどの運動を組み合わせたものだ。加えて、基礎学力を維持するため、いくつかの問題集を宿題として課した。
「自信がなく消極的で、おとなしすぎる」という性格ではあっても、決して彼女は不真面目なわけでも、やる気がないわけでもなかった。だから、彼女は着々と課題やトレーニングをこなし、自分の心に抱えた障壁を一つ、また一つと乗り越えていった。
 わずか一週間で彼女の表情には自信がみなぎり、ハキハキした受け答えもできるようになった。
 だから、ある日、彼女が初めて会った日のようにうなだれ、オドオドとしているのを見たときは、少なからず驚いた。その理由は、すぐに明らかになった。
「宿題? ……やってません」
 なるほど、そういうことだったのか。私は納得した。
 宿題をやっていないのは、大した問題ではなかった。そんなもの、別にやってもやらなくても構わない。それよりも、ずっと大きな問題があった。
 私は冷徹に指摘した。
「聞こえない」
 そう。自信を持たなくてはならない。過ちを犯したときこそ、自らの非を受けとめ、真摯な態度で臨まねばならない。
「宿題、やってません」
「まだ足りない」
「宿題、やってません!」
「まだ聞こえない、伝わらないっ!」
「宿題っ、やってませんっ!」
「そう、その調子だっ! もう一度っ!」
「宿題ッッ、やッッてませんーッッ!!!」
「そうだっ、それでいいっ! 腹の底から声を出すんだっ!『宿題をやっていなかった』と伝えることを、恐れちゃいけない。過ちは正すことができる。課題はこれからやればいい。大事なことは、現実と向き合わずに逃げ出そうとしないことだ! さあ、あの夕陽に向かって走るぞ!」
「先生ーッッ、まだ昼ですッッッ!!!」
「……はい」
「聞こえませんッッ!」


本作は某コミュニティサイト内で募集したお題に基づいて執筆したものです。
本作のお題は「『宿題? ………やってません』、迷子の子供、決闘する」でした。