イラスト講義日本史

旧「歴史のじょーせき」。日本史が好きになってほしいという気持ちから、イラストつきで講義するよ!

仏教公伝と受容をめぐる争い

2011年04月20日 01時15分43秒 | 古代史


久々の更新です。
でも、細々とでも続けていきます。

538(『日本書紀』では552)年、百済の聖明王から、仏像と経典が
欽明天皇に送られた。

欽明天皇はこの外国の神を受け入れるかどうかを自分一人で決めずに、
臣下の者に訪ねた。

すると、蘇我稲目(いなめ/馬子の父)が進み出て、
「西の国々はみな仏教を信仰している。どうしてわが国だけ(その流れ)に、ひとり背く必要がありますか。(せっかくだから信仰しましょう)」と、欽明天皇に申し上げた。

それに対して物部尾輿(おこし/守屋の父)と中臣鎌子が言うには、
「今、改めて外国の神を信じたならば、恐らく国内の神々怒るに違いありません」と答えた。

物部氏と中臣氏は、伝統的な祭祀を職とするので、それが仏教受容を反対した理由と考えられている。
一方、蘇我氏が仏教の受容を勧めたのは、仏教を国教化することが、すなわち祭祀を職とする物部氏の権力削減につながるという計算があったのかも知れない

面白いのは、欽明天皇の決断。
「試しに、蘇我稲目に仏像を預けて拝ませてみよう。」

お試し期間」設けるんだ~

さて、そのお試し期間に、なんと伝染病が流行してしまった。

当然、物部氏は「そら見たことか」ってノリだろう。

それで、朝廷は、役人を派遣して、上記のように仏像を川に投げ込み、
蘇我氏がつくった寺を焼いてしまったという。

この蘇我稲目と物部尾輿の対立が、子の代まで継承され、
587年には、とうとう蘇我氏と物部氏の武力対立にまで発展してしまう

次回は、その戦いとその後のことについて書きます。
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蘇我氏の台頭

2011年04月15日 06時50分26秒 | 古代史


大伴金村が失脚して、大連(おおむらじ)という重職を物部氏が独占するようになった。
その頃、もう一つの重職「大臣(おおおみ)」を独占し、台頭した氏族に蘇我氏がある。

蘇我氏は、斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)
…というヤマト政権の重要な
三蔵(みつのくら/さんぞう)と呼ばれる3つの蔵を管理するようになった。

平安時代の初頭に成立した『古語拾遺』という書物に伝わる話によれば、
蘇我稲目の曾祖父の蘇我満(麻)智という人物のとき、
雄略天皇(=倭王武)から任されたといわれる。

斎蔵は、神宝や祭器を収める蔵。
内蔵は、朝鮮半島諸国からの貢納物を収める蔵。
大蔵が国内からの貢納物を納める蔵。

『古語拾遺』という本が成立した時期(807年。9世紀初頭)があまりにもあとなので、
細かいところは信憑性(しんぴょうせい)は低い。
しかし、おおまかに「ヤマト政権の財政を任された」ととらえていいだろう。

おわかりのように、「内蔵」については、色々問題が出そうだが、
朝鮮各王朝からヤマト政権に「おつきあい」程度の贈答品はいくらでもありそうで、
ヤマト政権が、国家のプライドのため「贈答品」を「貢納物」と言い換えるぐらいのこと

…アリって思わない?

入試的に出しやすいのは、斎蔵(いみくら)。
これだけは、「読み」も含めておぼえておこう

ちなみに「三蔵(みつくのら/さんぞう)」は、山川の用語集の最新版にも載っているよ


蘇我氏に少し興味を持った方には、こんな本があります。
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謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)
水谷 千秋
文藝春秋


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大伴金村の失脚

2011年04月13日 18時10分45秒 | 古代史


大伴金村は、欽明天皇の時代になって、失脚した。

継体天皇のあとは、その子安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇が相次いで即位したことになっている。
あくまでも、『日本書紀』だけどね

実際は、安閑天皇と宣化天皇の政権は、欽明天皇の政権は対立・並立していたらしい。

それはよく解明されていないので、大学入試なら無視して欲しい

とりあえず、父親の継体天皇の時代では権勢を誇っていた大伴金村が、
その子の欽明天皇の時代になって、
失脚することは「事実」として把握しよう。

すでに、512年の「任那(みまな)四県割譲問題」については、4月12日の記事で触れたけど、
欽明天皇が即位した540年になって、新羅が、ヤマト政権の拠点があるとされる「任那」を併合する事件が起きた。

その際に、任那四県問題が蒸し返された。
要は責任のなすりつけあいってとこかもね

そこで、物部尾輿(もののべのおこし)によって、「大伴金村は、百済に賄賂をもらっている」という爆弾発言がされた。

証拠はないようだ。

第一、任那四県割譲は、大伴金村の独断ではなく、継体天皇も承知している。
もし、これが、継体天皇の治世だったら、きっと物部尾輿の言うことは取り上げられなかっただろうね

特定の天皇や将軍の信任や寵愛だけで権勢を握る人物は、
その特定の天皇や将軍が亡くなったあとは、
だいたい、惨めな末路を迎える。

そういう例は日本史上、多いよ。
奈良時代の道鏡や、江戸時代の田沼意次なんか、その代表的例だよね。

いかに、権勢を握った時代に、他の人達の心をつかんでおくかってことだよね

さて、個人的なことだけど、
明日からうちの予備校(S台予備学校)は、新学期。
ちょっと忙しくなるから、「毎日更新」は無理だけど、続けるから楽しみにしててね。

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大伴金村と朝鮮半島情勢

2011年04月12日 16時12分01秒 | 古代史


5世紀から6世紀にかけて高句麗(こうくり)の南下の動きが活発になった。
特に、倭国の友好国である百済(くだら)と5世紀から戦争状態になっていた。

南下する高句麗に押されるように、百済(くだら)も新羅(しらぎ)も南下し、
朝鮮半島の伽耶(かや)諸国(『日本書紀』では「任那(みまな)」)に進出する。

そのような中、『日本書紀』によれば、
4月11日の記事に触れた大伴金村が、百済の使者の要求に応えて、「任那四県」を百済に割譲する。


この任那四県とは、南朝鮮のヤマト政権の勢力地とされている。
『日本書紀』では、「任那日本府」と呼ばれる本拠地が、任那内にあったとされている。

入試レベルを越えるが、『日本書紀』では、初めに言い出したのは、穂積押山(ほづみのおしやま)という者らしい。
それに、継体天皇と大伴金村が同調したというところらしい。

しかし一方で、継体天皇の第一皇子である、勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)などには隠していた
決して、公の決定ではない

『日本書紀』によれば、この内容を難波(なにわ/現:大阪)に来ていた百済の使者に伝える役には、
金村と並ぶ大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(もののべのあらかび)が選ばれていたそうだ。
だが、彼は妻の助言に従い、仮病を使ってその役を辞退した。

なお、私が「任那」を使っているのは、
ここは、『日本書紀』に基づく歴史叙述をしているからで、
全く、他意はないことを断っておく。

このときの大伴金村たちの思惑がよくわからない

しかし、のちのちの結果を見れば、
最終的に「任那」は562年に新羅に滅ぼされる。
そこから類推しても、金村たちが一番危惧したのは、「任那」が新羅に滅ぼされることだったのではないか?

倭国としては、自国の拠点がある(とされている)任那を、みすみす新羅に渡すくらいなら、
友好国の百済に預けた方が、悪いようにされないから、「まだマシ」だと思ってたのではないか?

もう、ちょっと丁寧に言えば、百済に「割譲」したのではなく、
百済に「託した」という意識だったのではないか?

しかも、これは、高句麗の南下に苦しむ友好国百済への援助にもなるのだから、
そういう点で、一挙両得のいい政策…ではないかな~~~???と、思っている。

ちょっと、金村に対して、好意的過ぎる解釈かな
私は、大筋、歴史上の政治家には甘いところがあるかも…

まっ、いずれにしろ、古代史はわからないことが多いから、
色々、想像する余地があんだ。
「わからな~~~い」と歎くよりも、
こんな風に自由に「空想」してみると楽しい

ただし、入試レベルの「事実」は逸脱しないでね

入試レベルの確認は、山川出版社の『日本史B用語集』が一番だよ
使い方については→ここの記事クリックしてね。

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継体天皇と大伴金村

2011年04月11日 12時23分54秒 | 古代史


一昨日の記事「筑紫国造磐井の乱」の頃のヤマト政権の状況はどうなっていたか?

このころのヤマト政権は動揺していた。

武烈天皇という天皇に男子がなく、皇統が途絶えた。
しかし、ヤマト政権の大王(おおきみ)家なら、親類にいくらでも男子がいそうであるが、

それなのに、何故か、越前国(現:福井県)の豪族を時期大王として迎えたのである。
ただし、血統は全く関係ないわけではなく、
応神天皇の「五代の孫」とされているのだが…

ちょっと不自然な感じがするよね

迎える際、中心になったのが、当時、大連(おおむらじ)という重職についていた
大伴金村(おおとものなむら)

どういう経緯があったのか? ん~、これこそ「古代史の謎」というべき事柄で、
武烈天皇までの皇統が途絶え、新王朝なのだ…という説もある。

いずれにしろ、継体天皇の擁立(ようりつ)によって、
大伴金村の権勢は絶大なものになった。

日本史上、「擁立」って言葉は沢山出てくるが、
これは、普通なら立たない天皇などを強引に立てるときに使う。

そして、必ず、擁立した側が、擁立した天皇など上級権力者を操ることが多い。
要するに地位と実権の逆転現象ってワケ

実際、金村も、彼は独断で大変な決断を下し、
これがのち、欽明天皇のときに発覚して、
自らの失脚の原因となるそうだ。

それは、また、明日の続き。

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