久々の更新です。
でも、細々とでも続けていきます。
538(『日本書紀』では552)年、百済の聖明王から、仏像と経典が
欽明天皇に送られた。
欽明天皇はこの外国の神を受け入れるかどうかを自分一人で決めずに、
臣下の者に訪ねた。
すると、蘇我稲目(いなめ/馬子の父)が進み出て、
「西の国々はみな仏教を信仰している。どうしてわが国だけ(その流れ)に、ひとり背く必要がありますか。(せっかくだから信仰しましょう)」と、欽明天皇に申し上げた。
それに対して物部尾輿(おこし/守屋の父)と中臣鎌子が言うには、
「今、改めて外国の神を信じたならば、恐らく国内の神々怒るに違いありません」と答えた。
物部氏と中臣氏は、伝統的な祭祀を職とするので、それが仏教受容を反対した理由と考えられている。
一方、蘇我氏が仏教の受容を勧めたのは、仏教を国教化することが、すなわち祭祀を職とする物部氏の権力削減につながるという計算があったのかも知れない。
面白いのは、欽明天皇の決断。
「試しに、蘇我稲目に仏像を預けて拝ませてみよう。」
「お試し期間」設けるんだ~。
さて、そのお試し期間に、なんと伝染病が流行してしまった。
当然、物部氏は「そら見たことか」ってノリだろう。
それで、朝廷は、役人を派遣して、上記のように仏像を川に投げ込み、
蘇我氏がつくった寺を焼いてしまったという。
この蘇我稲目と物部尾輿の対立が、子の代まで継承され、
587年には、とうとう蘇我氏と物部氏の武力対立にまで発展してしまう。
次回は、その戦いとその後のことについて書きます。
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