生かされていることをこれほど深く感謝したことはない。まだ人生が残されていることを心から有難く思う。
目の前のあの人、この人とまだ関わることができる。
自分がいなくなれば、この世もなくなるのなら未練など残らないだろう。
でもそうではなく、自分以外のすべてがこれからも自分とは関係なくドラマを続けていくのなら、寂しいと感じてしまう。
青春時代を回想すると、その時々に神とも呼ぶべき声が聴こえていて、人生のヒントを教えてくれてたことに気づく。
それは母親や教師であったり、またある時には友人や恋人、小さな子供であったりする。でも悲しいことに、愚かな自分はそんな天からの声を大概は聞き逃していたり無視して来てしまった。
昨日、雨上がりの荒神山に息づく草木たち
でもよくよくあの頃を見つめ直すと、自作自演のドラマだったような気もする。何かの力が働いてたり、外から影響を受けてたというより、自分の外側の世界を生きていたのではなくて、自分勝手に作り上げた内側を見ていたという方がしっくりきて、適切な表現に思われる。
若さに溢れ、生命力いっぱいで飛び跳ね、何かに愚直なまでに直向きだった青春。
夢破れて山河ありきで、それらを失くした後にも、あの懐かしい風景は今も現前に立ち竦む。
そしてこう問いかけてくる。
大切なものとは何か。それを失ってしまっていやしないかと。
生きるとは、ある意味、老いて病を得、死んでゆくことだ。
その間に私たちは苦悩しながらいろんな心象風景を辿り、重ねながら、答えを模索する。
その度に、それまで大切にして来たものを失ったり、自ら捨て去っていく。
それはその通り、身を切り削る思いがするが、代わりに大きな何かを獲得する。
より大切にできる何かを。
若さでもなく、もちろん病や老いでもなく。
答えは死だ。
死とはそれまでの自分の死という意味でである。
そうして何度も過去の殻を脱ぎ棄てるたびに真正の自分が顕現していく。
どうやら有り余るものや嗜好品、欲得の絡んだ物や不動産など、目に見えるものを捨て去ることによってのみ、目に見えない大切なものが得られるのが人生の秘密のようだ。
自身もこの夏体調を崩して病院に出かけた。詳細は語らないが昨日、一泊二日の検査入院から退院したばかり。それまでにもあちこちの病院をたらい回しにされるような連続検査に一区切りついた。
娘たちやカミさん、お義母を心配させ、反省すると共にその気遣いにあらためて感謝した。
今後は皆にもう心配をかけまいと痛切に思う。
健康は自己管理。
酒は10年前にやめたが今回は禁煙。
これまでの嗜好がなくなることは楽しみの損失であり寂しい気もするが、このままでは壊れていく一方の体のためだと踏ん切るしかない。
これまで一生相当分を楽しんできたのだし。
それは本当は弱い自分を誤魔化すためにそれらに依存して来たのだと思う。
多景島と竹生島が重なる
これからは裸一貫、有り体で生きていく。
多分一番大切なことは、大きなことをするのではなく、まず目の前の小さなこと、これまでやって来たことを心を込めて真剣にやっていくことだと思う。
それも仕事を通して、できることなら誰か他者のために。
その際に要らぬ肩の荷を降ろして本当に大切なものだけを背負い、人生という山のこの先の峠を越えていきたい。
下山途中に立ち寄った見晴台で腰を下ろして休んでいると、目の前で小さな蜘蛛が雨で壊れたためか巣作りに懸命に糸を張り巡らせていた。
こんなに激しく動き回る蜘蛛を見たのは初めてのような気がする。
こんな小さな命さえもが雨上がりの新鮮な空気の中を懸命にその命を生きていることに心動かされた。
これまで聞き流していたさだまっさんのNHK百名山のテーマソングにもなった歌詞がリアルに心の奥底に突き刺さる。
自分の重さを
感じながら坂道を登る
いくつもの峠を越えて
もっともっと上を目指す
いつか辿り着ける世界へ
僕は雲を抜けて
空の一部になる
僕は空になる
らららら…
生きることの全てを
背負いながら坂道を辿る
それぞれの抱く
自分だけの峠を目指す
いつか叶う筈の世界へ
雲を抜けて
君の夢に手が届く
君は空になる
らららら…
いつか辿り着ける世界へ
僕は雲を抜けて
風と一つになる
僕は空になる
らららら…
『空になる』歌詞 さだまさし