菊と刀 と 玉葱とクラリオン

「菊と刀」は、アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトによる日本の文化を説明した著作であり、外からみた日本といふ意味では、戦後日本人にはある意味で参考になるものだと思ふ。

戦後日本人といふものは、単に外から見た(しかも戦時下)日本への解明よりも尚、日本といふものを知らない。

両者に共通してゐるのは、共にその本質を分からないといふ点であらう。

日本文化、いや日本國體に対する理解としては、この両者共に、その上辺だけをみて、それを理解した積りでゐるといふ有様だ。

これは、要するによく出来たフィクション、架空の日本といふものを前提とした、日本文化論でしかない。

戦後日本に存在する民族派だの、右翼だの、保守派だのといふものにしても、精々がこの「菊と刀」程度の認識しか持つてはゐまい。

それがどういふ事であるかといへば、彼らの日本に対する認識は「ハラキリ」「フジヤマ」「ゲイシャ」と同程度である。少し譲つたとしても、それは「腹切」「富士山」「芸者」と漢字表記される程度の違ひでしかあるまい。

では漢字表記だとして、それは支那と何が違ふといふのだらうか。それ程までに戦後日本人には國家観が欠落してゐる。

Σ( ゚д゚ )\(゚д゚ )オウベイカ!

それならば逆に、いっそフィクションやファンタジーとして描かれたものの中から、本質的な日本を探してみるといふもの一興といふもの。

嘗て、源氏物語には「和魂漢才」が説かれ、昨今では「和魂洋才」であるべきなのだが、肝心の「和魂」といふものを誰も理解しないのであれば、それは「無魂萬才」とでもいふべきであり、これが今では「それこそが合理的である」といつて持て囃される始末である。まさに末の世、本末転倒。

今回は、その題材として『玉葱とクラリオン』を紹介する。

「小説家になろう」で連載されてゐたもので、無料で読める。『ドクターストーン(Dr.STONE)』や『JIN-仁-』、『この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた』『ゼロからトースターを作ってみた結果』とかみたいなものが好きな人は楽しめるかも知れない。

私が読んで欲しいと思ふ部分は、この作品のそんな設定ではなくて、以下の数話である。最初から読んだ方が理解もしやすいだらうけれども、取り敢へずその部分だけを紹介する。

105話 黒い夢
111話 知りませんよ
112話 二人の帰る場所
113話 但馬、家族サービスしてみる①
114話 但馬、家族サービスしてみる②

何故、日本のお父さん達は猛烈に働いてゐたのか?
今ではそんなお父さんも少なくなつたかも知れないが、それは表面的な解消でしかなく、本質的な、根本な問題を先送りにしてゐる結果でしかない。

働くお父さん達には、それがある意味では家族の爲であると思つてゐたのかもしれないし、家族・子供がそれを理解するのと、生活を維持して行くのとはまた別の問題として、その根本問題は戦後日本社会に蔓延する「自己喪失」であると思ふ。

さうであるからこそ、「己の立場」といふ「自己」を回復したお父さんが、我が身を捨てて行動したからといつて、そこには「仕事や使命に埋没した」といふ情けなさも、悲壮感もない。

その時に見えるのは「生命の尊厳」であり、「父性」である。
今の世には無くなつてしまつたそれを見ると、私は心を打たれる。

それを「本懐」といふ。

三島由紀夫の説いた通り、「生命尊重以上の価値」がそこにある。

この『玉葱とクラリオン』でも、この深刻な自己喪失に対して、これを多くの商業主義的、衆愚的な解決として「恋愛至上主義」的な解決をしてゐたとしたら、これは無価値であつた。実際に112話のタイトルが「二人の帰る場所」となつてゐた事で私はこれを危惧したが、この作者はそれなりに構成力といふか、物事の理屈が分かる人のやうで、擬似的な関係であつても、その解決を「家庭」に求めてゐる。これは情緒的といふよりも、科学的な必然なのだ。

今の腐敗した戦後日本に於いて、私達は「命を懸ける」といふ状況を経験しないから錯覚してゐるやうだが、冷静に考へて欲しい。

嘗て、大東亜聖戦を戦ひ抜いた私達の父祖達は、軍國主義に踊らされて、若しくは脅されて、同調圧力に屈して、我が身を捨てて玉砕、特攻したのであらうか?

その視点には、『本懐』や『父性』といふ必須條件が欠落してゐる。
そこには『大義』が存在してゐない。大義で分からぬならば「私」ではない「公」の精神であるといへば良いか。

何にしても、現実にはそれらの要素が存在してゐるのは間違ひないのに、それを敢へて無視してゐるといふ歪な姿勢は、科学的とは到底呼べず、狂信的だ。

誰もがこれを理解できるといふものではない。

例へば、ベンチプレスで100Kgを上げる爲には、それだけの筋力が必要である。上げられる者の視点は上げられない者には理解できないし、下手をすると上げられるといふ事実そのものに懐疑的になる。

「やはりこの記事は、脳筋かww」といはれる事を前提として、敢へて、筋力を例へに出したが、これは科学的に正しい。

正しく筋力を付ける鍛錬を行へば、それが物理的に可能なのだ。

そして、これは認識に於いてもやはり同じである。

それなりの知識や経験なくしては、理解できない。

本稿はその一助となればといふ思ひから、投稿してゐる。

嘗ての記事にも、その父性に触れたものがあるので、以下に掲載する。

藤田和日郎について


これらの「自己喪失」の構造的な問題は、戦後日本が日本國憲法を、法源として、自國の憲法だと誤認してゐる点にこそある。

さうでなければ、何故、戦後日本は他國からの干渉を防げないのか?

家族のあり方や、働き方、税率や物事の価値観までを政府に指図されねばならないのか?

「それが高度に政治的な判断なのだ」とか「民主制とは難しいものだ」「もつと大人の判断をせねばならない」だとかいふ詐術はもう結構だ。

仮に、私が『砂の民』であり、単なる一個人であるだけならば、どのやうな体制であつても、その内で自己の利益を最大化する爲に上手く立ち回れば良いだけであり、体制そのものを批判したり、回復しようとは思はないのかも知れない。それが「私」の問題の範疇ならばそれでも良いかも知れない。しかし、それこそフィクション、虚構である。

現実には、天下國家の問題、社会の問題といふものは、私も、貴方達も全てが、その祖先の子であり、その担ひ手、当事者である。
そして、それは子等へと受け継がれるものなのだ。

さうである現実を見た時に、『日本國憲法は憲法に非ず』といふ事実を私達は無視する事が出来ないのだ。

実感は薄いかも知れないが、このやうな法規範の乱れといふものは、最終的に私達と子等の生活を大きく乱すのだ。

目を覚ませ!大和男兒よ!世の父親よ!

『子連れ狼(萬屋錦之介版をお勧めする)』を見て、冥府魔道を歩む覺悟を決めろ!

我らの生命は絶える事なく 永遠(とは)に不滅なのだ。
例へ皮破るるとも 血噴くとも狼狽へるな。
父の五體倒るるとも怯むな。
父の眼閉ぢらるるとも、その口開かずとも恐るるな。
生まれ変りたる次の世でも父は父。
次の次の世でも我が子はお前ぞ。
儂らは永遠に、永遠に、不滅の、不滅の父と子 なのだぞ。

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